第八章(03) よくそんな場所に、こんなものを
魔法封じの呪いにかけられているものの、どうにかここを出なければ。
幸い、手足を拘束されているわけではない。パウは牢の扉によれば、その鍵を見つめる。もしかすると、壊せるのではないか、と。
しかし魔法が使えなければ、ただの人間と同じである。特別力があるわけでもない。またこの牢自体は古く見えるものの、錠はしっかりしている上に、鉄格子にも脆そうな部分はどこにもない。
そして狭い牢獄には何もない。冷たい床だけがそこにある。
「くそ……!」
鉄格子を蹴れば、がんと音が響いて、ほかの鉄格子を震わせる。それだけしかできなかった。あとは足が少し痛んだ、それだけだった。
「大人しくしているしかないね」
鉄格子で隔てられた隣の牢では、ベラーがゆったりと座り込んでいた。自分と違い、その手は拘束されているというのに、焦っている様子も戸惑っている様子もない。
……よりにもよって、どうしてこいつと一緒にいなくてはならないのだ。せめて向こうが見えないようになっていたのなら。
立場は同じであるものの、ベラーのその余裕そうな態度に、パウの焦りは加速する。再び鉄格子を蹴れば、少し耳に痛い音が響いた。
「パウ、そっちの足はまだ問題なく歩ける足だろう? あまりそうやっていると、そっちも不自由になってしまうよ?」
ベラーが首を傾げる。けれどもパウは返さなかった。
と、牢の外で、鈍い音がする。続いて足音が聞こえ、はっとしてパウは闇を睨んだ。
一人の男が牢の前に立った。見覚えのない男だった。彼はパウを見て、続いてベラーを見る。それに対してパウは彼を睨み、ベラーは「やあ」と軽く挨拶をしたのだった。
男は鼻で笑う。そしてパウへ視線を戻せば、
「もうじき脳を開く準備が整う……それまで大人しくしていろ、こっちまで響いてかなわない」
「何が――脳を開く準備だ!」
パウは再び鉄格子を蹴った。足が痛くなろうが、構わなかった。
とにかくここから出なくては。ミラーカを見つけなければ。それだけで、頭の中が熱に焼かれていたのだ。ただただ不安で、怒りに満ちていた。
舌打ちが聞こえた。
直後、澄んだ音が聞こえたかと思えば、また牢を蹴ろうとしていた足に、激痛が走った。
パウは言葉を呑み込み、痛みに耐えられずふらつき、倒れてしまった。痛みは冷たく、かと思えばじわじわと熱くなって足を蝕んでいく。鉄のようなにおいが溢れ出る。
足を見れば、そのふくらはぎに、細い水晶が刺さっていた。水晶が空気に溶けるように消えれば、鮮血はより溢れて服を汚した。
「大人しくしろと言っているだろ」
男の声は、苛立ちを帯びていた。
「……全く、お前も縛っておくべきだな」
そして早足で牢の前から去っていく。パウの足の怪我はそのまま。
パウはなんとか手をついて上体を起こすものの、足は痛んで簡単に立ち上がれそうになかった。苛立ちに重なる苦痛に、顔を歪める。
「まったくお前は……私と違って、せっかく自由に動けたのに、あの男、ロープか何かを持ってくるだろうね」
ずい、と鉄格子越しにベラーが寄ってくる。肩を竦めれば、床に転がったかつての弟子を見下ろした。薄い灰色の長い髪だけが、鉄格子の向こうから、こちら側へ垂れてくる。
「……ところでパウ。君の手が自由に使える内に……私の三つ編みを直してはくれないか? プラシドとおしゃべりした時に、乱れてしまってね。ずっと気になっていたんだよ」
「――あんた、本当に……」
もはや呆れ返るほどであり、足の痛みに蝕まれながらも、パウは目を据わらせてしまった。確かに、ベラーの向かって左側に作られた三つ編みは、ひねり潰されたかのように乱れていた。汚れて、毛が膨らんでいたり飛び出したりしている。
しかしどうして直さなくてはいけないのかと、パウは睨み、手を出さなかった。
「パウ、お願いだよ」
ベラーは引かなかった。
「君の手まで縛られてしまったのなら、もう直せないだろう?」
――少し間をおいて、パウは溜息を吐きながらも、ベラーの三つ編みに手を伸ばした。
我ながら、何をやっているのかと思う。こんなことをしている場合ではないのに。
しかし師弟であった頃の、くせのようなものがあったのだ。
昔、三つ編みはできなかった。だから師匠に教えてもらったっけ――なんて考える自分に嫌気を覚えつつも、一度ベラーの三つ編みをほどく。
「……」
そして、息を呑んだ。
「――私は君がここにくる前からいたから知っているよ。牢の見張りはあの男一人。随分と舐められたものだね。慢心しているのかな?」
薄暗い中、わずかな光に銀色に輝く髪の向こう、かつて師と呼んだ男の瞳は、冷たく輝いていた。
――まもなくして、男が牢の前に戻ってきた。ベラーの予想通り、彼はロープを手にしていた。ロープと、鍵束を。
床に倒れたまま、パウは立つこともできず、上体を起こして男を睨む。それでももがくように足を動かし、立ち上がろうとしていたものだから、男は嘲笑を浮かべた。
「脳を開かれたら、後は何もない……身体を動かせる内に動かした方がいいかもな。でも、もうそれも終わりだ」
鍵の一つが錠を開ける。鈍い音がして、扉が開く。
――その刹那、パウは男に手のひらを向けた。
展開される魔法陣、放たれたのは電撃。暗闇を払うほどの鮮烈な輝きは、けれども音を潜めて男の身体を蝕み、やがて意識を奪った。
男は、棒のようになって倒れる。そして立ち上がったのはパウだった。
「足も怪我してるし、魔法も使えないからって、油断しすぎだろ……」
「そうだね。私だったのなら、君のように手を使えた場合、魔法が使えなくとも首の骨を折るくらいはするのだけどね」
――だから手を縛られてるのか、と思わずぎょっとしてパウはベラーを見つめる。
「そもそもあんた、手が使えたのなら……」
パウが握ったままの手を広げれば、そこには細い針があった――銀色の針。よく見れば、その表面に何かが刻まれている。
「これを三つ編みから取り出せただろ……よくそんな場所に、こんなものを隠してたな」
パウの手の中、役目を終えた針は泡立って消えていく――魔法道具の針だった。魔法封じの呪いを破壊する力を秘めた。
素直にパウは驚いていた。まさかこんなものを、ベラーが隠し持っているなんて。三つ編みに隠されていたこれのおかげで、パウの魔法封じの呪いは解除された。すでに足の怪我も、治癒魔法で補った。
これでひとまず、問題はなくなった――見張りもこの男一人だという。彼はしばらくは起きない。だからもう誰も自分のことを報告できない。
「フォンギオ様に、保険として持たされていたものでね」
まだ隣の牢にいるベラーが微笑む。
「しかし手をこうして拘束された上に……プラシドはひどく用心深くてね。いくらフォンギオ様が作ったものとはいえ、あれには私の黒水晶への耐久も施さなくてはいけなかったし……手が自由であっても、うまくいかない計画だったんだよ」
ところが自分の場合、そう用心はされていなかったために、あの魔法道具を自分に譲った――なるほど、とパウは思う。いろいろと都合がよくて助かった、と。
見張りの男がやってきた方へ、歩き出す。近くに荷物は見あたらず、杖も見あたらなかった。とはいえ、足の不自由には慣れた。いまでは杖が無くとも、そう苦労せずに歩ける。刃が仕込まれていることもあって、あった方が助かるのだが、いまは仕方がない――。
「おや、パウ。私に礼の一つもないのかい。君は昔、他の人から礼儀知らずだとよく言われていたけど、私に対しては、とてもよかったんだけどな……」
声がして振り返れば、牢の扉のすぐ横で、ベラーが首を傾げていた。
パウは苦い顔をした。その時と今とで、違うのだ。
「出すわけにはいかないだろ……」
――いまここで、ベラーに魔法を放ったのなら、決着がつくかもしれなかった。
自分を騙したこの男に、ミラーカと共に復讐すると誓った男に、報復ができるかもしれなかった。
けれどもいまは。それよりも。
――青い蝶を、救い出さなくてはいけなかった。
ミラーカこそが、全てだから。
暗闇の中を歩き出す。光を求めて、突き進む。
何よりも優先するべきことを、わかっていたから。
――遠のいていく足音に、ベラーは溜息を吐く。
「悲しいな、師への礼儀を忘れるなんて……」
ちゃり、と音がした。星が輝くかのような音だった。
「しかしあまり周りが見えていない子だ……お前はいつもそうだったね、常にまっすぐで……私はお前の、そこが嫌いで、でも便利で」
ベラーの、背で縛られた手。
その手は鍵束を拾い上げていた。いまは気絶している男が持ってきた、あの鍵束が。
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