第七章(14) 君が来るのを待っていたよ


  * * *


 どこからともなく運ばれてきた青い花弁が、宙を舞っている。たった一枚だけで漂うさまは、慰めの踊りにも見えた。まだ燃え続けている炎の中に落ちて、消える。

「――ミラーカ?」

 ミラーカはしばらく地面に落ちたまま、動くことがなかった。

 オリヴィアの姿はもうない。あれほどに苦しんでいた「人間」の姿は、救われいなくなってしまった。最初こそ、パウは祈りを抱くような気持ちで青い輝きを見つめていたが、やがて異変に気付いて静かに歩み寄る。

「ミラーカ、どうした……」

 黒く染まった地面は、腐敗臭が沈殿している。炎の勢いが失われたとはいえ、村はまだ燃えていて、獣の唸り声のような轟音が辺りを包んでいた。

 アーゼとメオリは、少し離れたところでミラーカとパウを見つめていた。だからミラーカの小さな声は、パウにしか聞こえなかった。

「無理なのよ」

 少し投げやりな声だった。怒りに似た何があるように思えたが、それとは違っていた。

「これで私は、また私から離れていくのね」

 意味が分からなくて、パウは眉を顰める。ところが彼女の言葉を理解しようとするよりも、心配を選ぶ。

「どこか悪いのか……?」

 思い返せばここ最近のミラーカは少しおかしかった。グレゴのことは未知のことが多いものの、もしかして体調を崩したのだろうか。

 不意に不安がわきあがる。もしもミラーカに何かあったのなら。

 ――自分は、どうしたらいいのだろうか。

 ミラーカだけが、全てだから。いまはミラーカのための命だから。

 この青い輝きに、そう誓ったのだ。

 と、青い輝きが震える。炎の色と混ざり濁る。

「パウ――」

 ようやく蝶が浮上する。

「そういうの、好きじゃないのよ――」

 刹那、煙に汚れた空に光が走った。咆哮のような轟きを伴ったそれは、空から降ってきたかと思えばパウを貫いた。

 激しい音が鳴り響く。正体は雷だった。

「パウ……?」

 まるで電撃に縛られるように蝕まれたパウが、ゆっくりと傾く。ミラーカは羽ばたくのも忘れて、地面に落ちていく。

「――私が?」

 ――少女は青い目を見開く。

 だがその疑問と恐怖は、メオリの声が吹き飛ばした。

「魔法……これは……!」

 彼女は明確に魔法と言った。

 ならば自分がやったわけではないと、ミラーカは羽ばたく。

 わかっていた。もうわかっていた。もし自分が何かしたのなら、それはもう「魔法」の範疇を超える何かになるはずだと。

 ではこの魔法は一体。

 ――重々しい気配を、唐突に感じた。

「パウ――奴らよ!」

 気付いてミラーカは叫ぶ。倒れ伏した魔術師へ羽ばたく。

 重々しい気配は、魔法のようなものではない。それは自分によく似た――……。

 瞬時にミラーカは敵の正体を見破る。こんな気配を抱えている、魔法を使える存在がいたとしたら。

「遠き日の――」

 けれども最後まで言うことはかなわなかった。

 弾丸のように降ってきた何かが、小さな身体を貫いたから。

 注射器に似た何かだった。不思議なことに、力が抜けていくのがわかった。羽をぼろぼろにし、青い輝きを失った蝶は布きれのように地面に落ちる。

「――ミラー……カ……」

 まだ意識が残っていたパウは、見ていることしかできなかった。

 地面に落ちた、ぼろぼろの蝶。足をひくひく動かしている。再生をしているように見えるが、どこかぎこちない。

 傍らに何者かが降り立った。パウの意識はそこで閉ざされた。


 * * *


「おい! 一体なんだ――」

 魔法の雷撃に打たれたパウと、弾丸のようなものに貫かれたミラーカを前に、すぐさまアーゼは走り出す。

「待て!」

 ところがメオリが服を掴んで引き留めた。同時に、アーゼが突っ込もうとしていた目の前に、雷撃の二発目が落ちる。間一髪、当たらずに済んだものの、何本もの針に突き刺されたような痛みに全身が襲われる。衝撃にメオリもろとも吹っ飛ばされる。

 唐突に辺りが暗くなった。それでもアーゼが気にせず顔を上げれば、まるでパウとミラーカを囲むように魔力の壁が出来上がっていた。ガラスでできているかのような壁の中、何者かが立っている。紫を帯びたような黒髪。鋭い目。彼がそっと拾い上げて奇妙な透明な容器に入れたのは、青い蝶。

「――プラシド……!」

 その姿を認め、メオリが名前を口にする。

 辺りが更に暗くなる。頭上で、何か大きなものが揺らめき瞬いて姿を現す。

「ユニヴェルソか!」

 アーゼが声を上げる。まさしくそれは、かつてデューの魔術師を騙っていた『遠き日の霜』が使っていた巨大魔力翼船だった。

 ということは、メオリがプラシドと呼んだ彼は。

「そいつは牢へ」

 巨大魔力翼船から、光の柱一筋が、プラシドの隣に降り注ぐ。光の中、人影数人が現れると、プラシドの指示を受け、パウを拾い上げる。そのまま光の中へ戻れば、彼らの姿もパウの姿も消えてしまう。

「二人を返せ!」

 飛び跳ねるように起き上がったメオリが、魔法の水晶を放つ。だがプラシドを囲む壁を前に砕け散ってしまった。アーゼも起き上がり剣を振るったが、剣と壁が触れた瞬間、まるで拒絶するかのような衝撃が発生し、アーゼはまた吹っ飛ばされてしまった。

 ようやくプラシドがちらりと二人を見たが、瞳はすぐに、捕獲した青い蝶へ向けられた。

「ここのグレゴは間に合わなかったが……思わぬ収穫があったな」

 光の筋が、プラシドに降り注ぐ。そしてその姿は消えていく。

 魔力の壁も消え失せたものの、もう誰もいない。低い音が轟いたかと思えば、頭上の巨大魔力翼船が動き始める。

「メオリ! 追いかけるぞ!」

「わかってる!」

 メオリが素早く手を上げれば、シトラが戻って来る。すぐさま彼女は、使い魔を四足の鳥の獣に変える準備に取り掛かるが、巨大魔力翼船の姿が揺らめく。明滅する。果てに――消える。

「しゅ、瞬間移動された……あんなに、大きいのに……」

 構えていた手をぶらりと下ろして、メオリが愕然と空を見上げる。嵐の直前のような暗さはもうどこにもない。

「……どこに?」

 アーゼは認められないものの、尋ねる。けれども返事はない。ただメオリは愕然としたまま、空を仰ぎ続けている。 

 自然とアーゼの手が震え出す。瞳も揺れて、何もなくなってしまった空と、茫然自失していると言っていいメオリを見つめる。

 手がかりも何も、ない。パウとミラーカは連れ去られてしまった。

 ――それでも、立ち止まるわけにはいかない。

「――ネトナさん達に連絡する」

 思いつく。先程、プラシドという男が漏らした言葉を。

「あいつは……グレゴを探してた。なら!」

「――『風切りの春雷』騎士団の方にも……!」

 光が失われたようなメオリの橙色の瞳。瞬きをすれば、再び火が灯る。

 エヴゼイに持たされた、魔法道具の連絡機。荷物の中に入っている。


 * * *


 目を開いても暗く、覚醒しきれない意識の中、パウは奇妙な浮遊感を覚えていた。

 やがて低い音が絶えず聞こえていることに気付いて、意識が浮上し始める。夢ではなく現実にいるのだと自覚すれば、浮遊感は消え失せる。頬を冷たい床につけて横になっていたことに気付く。

 全身の痛みを思い出し始める。ゆっくりと手をついて身体を起こすが、やはり辺りは暗くてよくわからない。なんとなく、明暗があり、何かしらの輪郭が辺りにあるように思えるが、全てぼやけている。

 手に何かがぶつかった。眼鏡だった。片方のレンズにひびが入っている――向かって左側のレンズ。ならば問題はない、自分の向かって左側の目、この右目はもう何も見えていない。

 眼鏡をかけて改めて見回すが、それでも暗くてよくわからなかった。ただ縦縞模様が見えた。

 模様ではない。格子だ。

 ――檻? 牢?

 その瞬間、全ての記憶が蘇る。奇妙な雷撃――あれは魔法だった――に打たれたこと。そしてミラーカも何かに貫かれたこと。注射器に似た何かだった……。

「ミラーカ? ミラーカ!」

 暗闇の中、あの美しい輝きは見つからない。

「……アーゼ? メオリ?」

 誰も返事はしてくれない。虚しく声が響くだけだった。

「くそ……どこだここ……一体何が……」

 思わずそう呟いたところで、

「――ユニヴェルソ号だよ」

 ついに声が返ってきた。はっとしてパウは顔を上げ、声のした方を見つめる。格子の向こう、誰かがいる。床に座っている。

「ユニヴェルソ号はね、過去には輸送に使われることも多くてね。時に家畜を運ぶこともあったのだよ。ここは本来、そのための場所だったんだよ」

 しかしこの声。ぼんやりと見える人影の、長い髪。

 わずかな光に、長い髪が銀色を返す。見覚えのある三つ編みに気付き、パウは息を呑む。

「いまは牢として使われている……プラシドもいい嫌がらせをする……」

「――師匠?」

 思わずそう呼んでしまった。もう師ではない、憎むべき相手であるのに。

「久しぶりだね、パウ」

 紛れもなく、格子の向こうにいたのはベラーだった。

 ただしベラーの両手は、背で縛られていた。

 そして彼のいるその場所も、牢の中。

「君が来るのを待っていたよ」

 顔を見れば、少し汚れていた。あざもあるように見える。けれどもベラーは、あのいつもの笑みをパウへ向けたのだった。


【第七章 霖雨の花畑 終】

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