第七章(13) 怪物は、怪物ね

 剣を抜き、アーゼは勢いのままグレゴの背から転げ落ちる。そこへついに鎌が振り下ろされるが、澄んだ音が響く。

 ――膝をつき起き上がったアーゼは、剣でグレゴの鎌を受け止めていた。鎌が剣に食い込む様子は、ない。

 声を上げて、アーゼはそのまま鎌を弾き、下がる。

「パウ!」

 まだ相手に及ばない。そう自覚して叫ぶ。

 すぐさまパウが瞬間移動魔法で隣に現れた。無言で剣を差し出せば、パウが刃を撫でる。魔法陣が現れ、刃に染み入るように消えていく。

 アーゼの剣は白い輝きを帯びた。確かな力が宿っている。燃え盛る村の中で、炎の赤色を纏わず、透き通るように輝く。

 グレゴの奇声が響いた。見れば、グレゴは羽を広げていた。不意に浮上したかと思えば、パウとアーゼに突進してくる。

 パウは横へそれる。アーゼは前へと転がる。巨大なカマキリに似た怪物は、横へとそれた紫色のマントの魔術師に目を留めた。鎌が振り下ろされる。パウは息を呑んで避けつつ、魔法を放つ――だがグレゴは、丈夫な鎌で魔法の水晶を弾きつつ、迫りくる。

 そこに割り込んだのは、アーゼだった。パウの前に立ち、振り下ろされた鎌を剣で受け止め、そのまま――。

 白い輝きが鎌に走る。まるで割れるかのようにして、鎌が切り落とされる。地面に転がる。

 魔法によって強化されたアーゼの剣。いまこの刃は、何よりも硬く、全てを斬れる刃物となっていた。

 アーゼは剣を握る手を緩めない。緑色の瞳でただグレゴを見据え続けた。鎌の片方をなくしたグレゴは、バランスが崩れたのだろう、体勢を崩す。そこへアーゼは踏み込む。

 狙うはもう一方の鎌。相手の武器。

 と、グレゴが大きく口を開いた。燃え上がる唾液が、弧を描いて吐き出される。

 刹那、アーゼは目を細めたが。

「そのまま突っ込め!」

 パウが手を突き出す。同時にアーゼの前に魔法陣が現れ、盾を展開する。唾液はその上で弾け、流れ落ちる。

 それは一瞬のことだった。役目を終えた盾が消えゆく中、アーゼは剣を構える。刃の白い輝きが、残光をたなびかせる。

 グレゴの巨大な複眼には、剣を構え凛々しい顔をした、金髪の青年が映っていた。

 その姿が波打てば、また一滴、涙が地面に滴った。

 ――真白の輝きは、迷うことなく鎌を捉える。勢いを殺すことなく、断つ。

 ごとり、と、もう片方の鎌も落ち、先に落ちた鎌に重なった。いくらかの返り血を浴びながらもアーゼが顔を上げれば、先に切り落とした鎌の再生は間に合っていない。確実に弱っている。

 それでもグレゴは顔を上げた。唾液を滴らせつつ、目前にいる敵へあぎとを開く。

「――いまだ! 押さえろ!」

 が、メオリの声が響き、直後にグレゴの脳天を細い水晶が貫いた。地面まで突き刺さり、また身体にも何本か刺さる。二色の水晶。パウとメオリ、二人の魔法だった。グレゴの巨体が、地面に縫い留められていく。その姿は、まさに標本にされた昆虫を思わせた。

 グレゴは最初こそもがいていた。何とか手足を動かすものの、もう鎌はなく、何も斬ることはできない。唾液を吐こうとするものの、身動きができないためか、ただだらだらと口から流れ出るだけだった。鎌を切り落とされた前足、ほか身体の傷も、再生している様子はほとんどない。黒い血が地面を染めながら燃え上っているだけだった。やがてその炎の勢いも落ちてくる。炎の勢いは、どうやらグレゴの意思に比例していたらしかった。大人しくなりはじめた怪物にあわせるようにして、周囲の炎が弱っていく。村を中心に、あたかも生き物のように燃え広がっていた炎が、消え始める。

 ついにグレゴは動かなくなった。死ぬことは、ないものの。

「……これで、よかったのか?」

 アーゼは剣を手放さなかった。けれども下ろして、うなだれる。

 確かに怪物だった。同時に、一人の人間でもあった。

「俺は……救えたか?」

 囁くような問いに、間をおいて、囁きが返ってくる。

「ありがとう……ごめんなさいね……」

 ――オリヴィアの声に、それまで澄んだ表情をしていたアーゼは、ついにくしゃりと顔を歪めた。

 笑っていいのか、泣いていいのか、わからなかった。

 正しいことをしたはずだったが、「救う」ということが一体どういうことなのか、わからなかった。

 けれども、望まれたことを、確かにした。

 涙は流さなかった。毅然とした表情を取り戻す。胸を張る。

 事実として、この剣で誰かを救えたのだから。

 地面に伏したオリヴィアは、笑うかのように首を傾げていた。やがて、その瞳がアーゼから、その背後へ移る。

「……あの子にも、謝らないと」

 アーゼの隣を、青い輝きが通り過ぎる。漆黒の巨体へ、向かっていく。

 ミラーカ。続いてパウが、オリヴィアへ歩み寄る。

 残されたメオリは顔を背けていた。アーゼもこれから起こることを察して俯く。

 オリヴィアを苦しみから真に救う方法は、一つしかない。

「……手間を、とらせちゃったわね……いまのうちに、食べて……?」

 オリヴィアの瞳に、先程あった怒りと飢えはどこにもない。いまは止まることのない涙もあって、ひどく澄んで見えた。涙は滴っても、もう燃え上がることはない。ただじゅう、と音を立てて地面に消えていくだけだった。

 パウは言葉なく頷く。ミラーカも何も言わずに、黙ってオリヴィアへと近づき、降り立つ。青い輝きは羽毛のように柔らかく、しかし旅人を導く星のように鮮烈な光を湛えていた。

「――あなたの言うことが、正しかったわ」

 まだ消えぬ炎の息遣いの中、オリヴィアの小さな声が、ミラーカの羽を震わせた。

「怪物は、怪物ね……私は、もう人じゃ、なかった……」

 そうであるのに、人だと思い込んで。

 そうであるのに、人と関わりを持って。

「もし、私が、もう人じゃないと自覚していたのなら、サリタと仲良くならなかった……そうだったのなら、あの子、も……」

 巨大な複眼に反射する青色が煌めいた。絶えず、怪物の姿をした何かは泣き続けていた。

 ただ一人の人間として。と、肩を竦めるかのように身動ぎする。

「それから……あなたを、こう怖がらせることも、なかった……」

 青い蝶は、その言葉に震える。

 ――オリヴィアの目に映っていたのは、一人の少女だった。青い輝きを纏った彼女は、目を大きく開けて、こちらを見据えていた。

 そこに宿っているのは、驚きや怒りではない。確かな恐怖と、絶望だった。

 ところがその表情は消え失せる。彼女は口を堅く結び、醜い怪物を睨みつける。だが。

「……私は、ただあなたのことが羨ましかっただけよ」

 カマキリに似た怪物、その頭にとまった蝶は、呼吸に合わせて羽を動かす。

 ――無理だと思っていた。

 ――けれども夢を見せてもらった。

 ――「たとえ怪物であっても」。そんな夢を。

 ――それなのに。

「……でも、あなたの言うことは、正しかった」

 と、漆黒の怪物が肯定するものだから、蝶はゆっくりと羽を広げ、落としていく。

 変わらずカマキリに似た怪物は涙を流すが、蝶が泣くことはなかった。

 ――ゆっくりと、オリヴィアからミラーカへ、目に見えない何かが流れ始める。

 力の全て。存在の全て。この世界から見れば歪みとも言える何か。

 グレゴがグレゴを喰らうということは、特異な存在が特異な存在に吸収されるということ。

 より特異な存在になるということ。

「ねえ、あなたは――」

 消えゆく中で、オリヴィアは最後の言葉を口にする。

「あなたは……失敗しないでね……」

 巨大な怪物の姿が、ゆっくりと崩れ始めた。まるで腐っていくかのように潰れ、崩れ、広がり、腐敗臭と煙を昇らせつつ、地面を黒く染めていく。焼け焦げた跡とは明らかに違ったその場所は、まるでこの世界にいてはならない何かが確かにいたのだと、告げているかのようだった。

 何もない宙で、青い蝶はゆっくりと羽ばたいていた。ところがその羽ばたきに力なく、やがて紙切れのように地面に落ちてしまった。

「――もう無理よ」

 その返事は誰にも届かない。

 全て喰いきってしまった。

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