第八章 閃光と羊達
第八章(01) 私も楽しみだよ
さてどうしたものか、と考えながら、ベラーは窓の外に視線を投げていた。
巨大魔力翼船ユニヴェルソ号は空高くを飛んでいる。青空がどこまでも続く中、雲は絨毯のようになって下に広がっている――いまこの船がどのあたりを飛んでいるのか、こうなってしまえばベラーにもよくわからなかった。
まあいいか、と一人微笑む。ただ『白の花弁』地方に向かっているというのは、間違いないはずなのだから。
それよりも、魔力翼船が空を進む低い音に、少し眠気を覚え始める。いっそ寝てしまうかなんて考える――魔法による鎖で、椅子に縛りつけられているにもかかわらず。
抜け出すことはとうに諦めていた。何せいまは魔法が使えない状況。魔法封じの呪いをかけられている。
普通の魔法封じの呪いなら、その状態でもうまく魔力魔法を使って解除できた。そもそも腕の立つ魔術師による呪いであっても、ベラーにとっては何の問題もなかった。
ところが、いま自分にかかっている呪いは魔術師プラシドによるもの――プラシドはその技術においては、自分よりも優れている魔術師だ。
だからベラーは諦めたのだった。それだけではなく、プラシドは用心に用心を重ねて、複数の魔法封じの呪いをかけてきた。もがくだけ無駄だと、わかりきっていた。これは簡単にどうにかできるものではない、と。
目を瞑ってしばらくしていると、低い音に溶け込んでいた足音が、浮かび上がってきた。誰かが来ている。
やっとか、とベラーが目を開けたところで、扉が開いた。
「やあプラシド。退屈してたよ」
部屋の外に立っていたのは、一人の男魔術師――自分に魔法封じの呪いをかけ、こうして拘束したプラシドだった。緩く結んだ黒い髪が、部屋の外からの光に紫色を帯びる。同じ色の瞳は、鋭くベラーを見据える。
ベラーが微笑めば、プラシドはどうしてか、ひどく苦い顔を浮かべた。憎悪もこもったその顔に、ベラーは思わず「ふふ」と笑ってしまった。
「気分が悪いのか?」
「……お前は自分の立場がわかっているのか?」
足音を響かせながら、プラシドはベラーの前に立ち、見下ろす。
――こんな状況であっても、ベラーは普段と全く変わらない様子だ。それが、プラシドは気に喰わなかったのだ。
そもそも最初から、どこか得体が知れず、長いこと警戒していた。同じ『遠き日の霜』の一員となっても。
「……しかしお前も油断することはあるのだな。この船に忍びこんだはいいものの、こうして捕まるなんて」
心を落ち着かせてプラシドが口にすれば、少し己の苛立ちが慰められる。
自分でも信じられないことに、ベラーを捕まえることができたのだ。
あのベラーを。
「船を取り返しにきたのか? それとも……『神』を奪いにきたのか?」
「どっちもだよ」
尋ねれば、ベラーはさらりと返す。尋ねなくともわかる答えだったか、プラシドはやはりかと考える。
……捕まえた侵入者はベラーだけだ。ほかの者は見つかっていない。
恐らくベラーは、単身でこの船に乗り込んできたと考えるべきだろう――この男については、わからないことはまだ多いものの、よく調べてはいる。誰かと行動を共にすることは、ほとんどない。そもそもベラーの得意とする魔法の性質上、誰かと共に行動するのは難しいはずなのだ。
考えた果てに、プラシドは目を細める。これは一つの機会ではないか、と。
頭ではそれが非常にいい機会だと思っているものの、感情としては、はっきりいって許したくないことであったが。
「ベラー。いますぐ殺してやりたいが……こちら側につく気はないか?」
「残念だプラシド」
返事はすぐにあった。
かすかにプラシドは目元をひくつかせる。対してベラーは、やはり全く変わらない様子で続けるのだった。
「『あれ』の調子が戻らなくて困っているんだろう?」
表情も態度も変わっていないはずだが、そこには確かに、他人を嘲笑う何かがあった。黒にも見える濃紺の瞳の奥に、針のような鋭い輝きがあった。
「無駄だよ、何をしたところで……そもそも『あれ』を神と崇めるなんて、大昔にいたような教祖になったつもりか? ああ、実際に教祖になったわけではあるのか……」
椅子に縛りつけられた状態でもベラーが小首を傾げれば、灰色の長い髪がさらりと揺れた。
「――我々は神になることを目指したのに、その道具を『神』と崇め始めるなんて、哀れだな」
表情はまるで人形のようだった。言葉を紡ぐだけで、それに感情らしいものはなく、ただひどく冷たい何かだけがある。『穢れ無き黒』という彼の異名のもととなった、あの黒い水晶のような、気味の悪い何かが。
時折、プラシドは思うことがあった。
果たしてこいつは、同じ人間なのか、と。
いや、疑問に思うまでもない。明らかにベラーはおかしいのだ。何かが違う。
……デューで魔法の基礎基本を学んでいた頃を、思い出す。
あの頃に起きたある失踪事件を、プラシドは忘れてはいなかった。
そして、その時にベラーが自分に向けた、嘲笑いながらも退屈そうな、それ故に恐ろしい瞳を。
何を考えているのか、わからない。
「ところで、なんだか君と喋るのは久し振りな気がするよ、プラシド」
と。
「ああ、そうだった。昔は君と、クロワと、よく話をしたっけな……」
「――その名前は、お前が口にしていい名前ではない」
懐かしむようにベラーは口にしたが、ベラーにとってそんな記憶ではなかったと、プラシドは知っている。
何せ自分の親友は、成績が良かったベラーを憎み、いじめとも言うべき行為をしていた。
その果てにある日、失踪した。
同時にベラーも数日間、姿を消し、けれども彼だけは戻ってきた。
――ベラーの起こした「事件」を『遠き日の霜』がもみ消したとプラシドが知ったのは、組織に入った後だった。
「思えば君は、何かにすがりついてばかりだったな。若い頃はクロワ。そしていまは『あれ』ときたか」
ベラーは黙らなかった。
「……君はもしかすると、典型的な『人間』なのかもしれないね。魔術師であるのに、誰かに導いてもらわなくては歩けないんだろう。後ろ盾か、はたまた前に立って歩いてくれる何かがいなくては、やっていけないんだろう」
ついに彼の表情が、歪んだ笑みとなった。
「昔は馬鹿なクロワの後ろ。いまは醜い『あれ』の前……救いようがないな、君は」
――次の瞬間、プラシドはベラーを横に蹴り飛ばしていた。縛りつけられているため、椅子ごとベラーは倒れるものの、笑みを浮かべたまま、瞳もプラシドに向けたままだった。
「野蛮だな、クロワに教えてもらったのか? あいつはあまり、攻撃魔法は得意じゃなかったからな」
「黙れ」
プラシドは勢いのままに、ベラーの顔を蹴り上げた。血がかすかに飛んだ。ベラーの長い髪が乱れ、頬は赤く腫れ上がる。
それでも。それでもだった。
――ベラーの表情は一切変わらなかった。
ただ嘲笑うかのように。そして哀れむかのように。
――退屈そうに。全てが、どうでもいいというように。
仮面の下から、得体の知れなさがにじみ出ている。そんな表情で。
一瞬の恐怖に、プラシドは息を止める。続けて腹に入れてやろうとした足を止める。
どうしてあの頃、クロワが嫌がらせや暴力をやめなかったのか、いまになってわかったような気がした。
この男は、やはり得体がしれない。何を考えているのかわからない。
その上に、まるで全て予測通りといったような顔で。
「……まあいいさ」
床に転がったままのベラーを、見下ろす。息を整える。
「――お前の脳を開く。そうすれば、全てが解決する。我々の『神』を眠らせた魔法薬も、お前の記憶を覗いて分析すればいい話だ……楽しみだよ、ベラー」
プラシドは扉へと歩き出す。部屋を出る前に、ちらりと振り返って、
「それまでは、牢にでも入っていろ」
はっきり言って、これ以上、あまり関わりたくなかった。
会話をするだけで、まるで手のひらの上で転がされている気分になる。
いまクロワの話をしたのも、間違いなく故意だ。こうして自分に手を上げさせるために。
近づくべきではない――そう思い、プラシドは部屋から出た。
「……なるほど、君は、クロワと違って『逃げ』を選ぶか」
残されたベラーは呟く。
「私も楽しみだよ、プラシド。そうだ、その時に、クロワをどうやって殺したか話してあげられたらいいんだけど」
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