第七章(08) 愛されてもいないし
* * *
夜になれば、村に明かりが灯る。その中で生活する人影も、崖の上からは見える。
やがて夜の闇が濃くなり、村の明かりは静かに消えていった。それでもオリヴィアは、村を眺めていた。全く見えないわけではなかった。むしろよく見えていた――そこで彼女は、どうやら自分は夜目がきくのだと自覚する。
サリタの家はどこだろう、と考える。そういえば一度もサリタの結婚相手を見たことはなかったが――この姿なので会うことができないため――一体どんな人なのだろうか。友人の愛した人を、少し知りたいと思う。
何はともあれ、きっと、彼女を幸せにしてくれる人なのだろう。
彼女はいつも、顔を輝かせて彼のことや結婚のことを話してくれるのだから。
「……サリタ、たくさん幸せになってね」
思わず呟いてしまったのは、自分の全てを彼女に託したいと強く願ってしまったからだった。
自分の見られなかったものを、彼女は代わりに見せてくれる――。
嫉妬や暗い感情はどこにもなかった。純粋に幸せを願った。
――そこでふとオリヴィアの脳裏をよぎったのは、紫色のマントの魔術師と、青い蝶の姿だった。
……きっと、あの二人も。
あの二人も、仲がよさそうに見えたから。
「あなたは、随分とあの子と仲がいいのね」
と、声がする。聞いたことのあるような、しかし初めて聞くかのような声で、オリヴィアがそっと振り返れば、見知らぬ少女がそこにいた。まるで刺青を入れたかのような黒い裸足。白いワンピースを着ていて、少し寒そうにも思える。長い青の髪が風に揺れていて、瞳も青く、その青さにだけは、心当たりがあった。
「……あなた、もしかして」
オリヴィアは驚いて少し身を乗り出した。間違いなくそれはあの青い蝶――ミラーカだとわかった。
空気が少しおかしいのにも気付いていた。否、空間が、世界がおかしい。まるで夢を見ているようで、ミラーカが何かをしているらしかった。
「少し話がしてみたいと思って」
ミラーカは近くにあった岩の上にふわりと腰を下ろした。
「驚いたわ、私以外にも、人間の時の記憶を取り戻してる奴がいたなんて……おまけに人間と仲良くなっていたのも……」
「あら、あなたもみんなと、仲がいいじゃない」
表情は作れないものの、オリヴィアは確かに微笑んだ。と、一瞬悩んで、首を傾げる。
「ねえ……あなたは、パウのことが好きなの?」
「何を突然言い出すの?」
ミラーカはすっと瞳を細める。
「好きじゃないわよ……あなた、パウから聞いたでしょう? 彼が私に何をしたか……」
「でも、私には、そう見えたの……あなた、昨日の夜、彼を庇おうとしたじゃない」
オリヴィアは憶えていた。
自分が我を忘れてパウに襲いかかろうとした時、青い蝶が割り込んだことを。
「それにあなたは、いつも彼と一緒だから……違うの? とても大切にしてると、思ったの」
だから二人の仲がいいのだと思ったのだ。そして二人は、どんな形であれ、どんな内容であれ、共に進んでいるから。
――サリタに関しては、ただ嬉しい気持ちでいっぱいだった。
――けれどもパウとミラーカを見ていると、どうしてか、羨ましく思えたのだ。
それはきっと、ミラーカが自分と同じだから。
「……そうね、大事な道具だから、ね」
ミラーカは青い髪を指に巻きつけながら、更に瞳を細くした。
「やってもらわなくちゃいけないことが、沢山あるのよ。そして最後にパウを殺すのは私だから……途中で死んだり壊れたりしたら、困るのよ……楽しみは最後までとっておかなくちゃ」
オリヴィアがかすかに身を引いた。それでも。
「――愛しているからじゃないの?」
その言葉に、ミラーカは思わず目を見開いた。口もかすかに開けて、唖然としてしまう。
「愛してるから?」
やがてゆっくり口を閉じて、その時の表情はより白く、青ざめていて――一瞬だけ、ほんの一瞬だけ彼女が口を固く結んだのを、オリヴィアは見逃さなかった。
そこに何の感情があったのだろうか。
「あなた……あなたちょっと頭おかしいんじゃないの!」
その一瞬は、まるで幻だったかのようにかき消えた。ミラーカは恥じらいもなく声を上げて笑い出した。小さな肩が揺れている。
「私、ちょっと思ってたんだけど……あなたって、頭の中がお花畑なのよね。子供みたいというか、ちょっと熱がでてるんじゃない? 私も昔はそういうところがあったから、他人のこと強く言えないけど!」
おまじないとか、風習とか、そういうの好きだったでしょう? ミラーカはにやにやしながら言えば、また笑うのだった。
オリヴィアは困惑して彼女を見つめていた。笑われてはいるものの、やはりミラーカは妙だと思い、怒りも覚えなかった。
言葉だけが、強い気がする。そう思うのはどうしてなのだろうか。
――自分と彼女が少し似ているから?
「愛してなんかないわよ、パウのことなんて」
ひとしきり笑って、ミラーカは目元を細い指で拭う。泣くほど笑ったらしかった。
風が吹いて、青い髪をなびかせる。
「愛されてもいないし……」
指から離れた涙が宙で輝いた。小さな宝石のようで、まるで溶けるかのように消えていく。
「もし愛されているように見えたのなら、言っておくけど、あれは全く違うわよ――」
声すらも、風に消えた。森の騒めきが飲み込む。それでも、小さな声はオリヴィアに聞こえていた。
「私は一緒にいて、満たされないもの。そういうものでしょう……」
その言い方はまるで、闇に消えゆく星に似ていて。
静かに絶望に沈みゆくような声だった。
「……あなたは愛されたかったの?」
その時のオリヴィアは、ただ思ったことを口にしただけだった。
まるでミラーカが悩んでいるかのように思えたから、相談に乗るようにして、答えを見つけ出そうとしているだけだった。
――鋭い痛みがオリヴィアの右手を襲った。右手、いまの姿でいうところの右の前足、右の鎌。
それが中途半端なところで――切断された。ずるりと地面に落ちて、嫌な臭いのする黒い血が噴き出す。
オリヴィアは悲鳴を上げなかった。ただ突然のことに、言葉を失っていた。激しい痛みがあったものの、それにすらも圧されて声を上げられなかった。
「……ああごめんなさい、ちょっと、よくわからないのよ」
オリヴィアが顔を上げれば、一人の少女が自分を見据えていた。空のような、海のような青色の瞳の少女。この辺りに咲く花の色にも似ていて、しかし世界のどこにもない青色にも思えた。
少女の姿をした何かは、闇の中で瞳を輝かせている。
「どうも最近……なんだか……やろうと思ったら、色々できるのよね……できないことも多いんだけど……沢山グレゴを食べたからかしら……それで、ちょっといまのあなたが、気に入らなくて」
まるで深みから這い寄ってくるかのような寒気をオリヴィアは感じた。身体に纏わりつき縛るかのようなそれ。
ミラーカは続ける。
「ごめんなさいね。やろうと思ってやったわけじゃないのよ……ただ……そう、ちょっと思った。それだけよ……」
闇の中で口の端が吊り上がるのが見えた。心無いような三日月の唇は、どこまでも冷ややかだった。
「でも、大したことはないでしょう? あなたも……グレゴなわけだし」
その言葉通り、すぐさまオリヴィアの再生は始まった。思わずオリヴィアは「うっ」と声を漏らすものの、まるで血が形を作っていくかのように右の鎌は再生する。
カマキリに似た怪物は、全て元通りになった。
「……けれど、あなた達は、いつかよくなる。そう思えるわ」
それでもオリヴィアは繰り返した。
不可視の攻撃は飛んでこなかった。ただ、少女の本当に呆れたような、馬鹿にするかのような声が響いた。
「あなたって本当に……。あのね、パウは私のこと、人間と思ってないのよ。他の人から人間だと見られてるあなたにはわからないと思うけど……でもね、それでいいのよ、実際私は怪物だし――」
少女の黒に染まった素足が血を踏んだ。ぬるりと輝く。いつの間にか、ミラーカはオリヴィアの目前に立っていた。
「あなただって怪物じゃない……」
そうしてミラーカは青い髪を広げながら背を向ける。
「何を話しに来たのか忘れちゃったわ……でも、あなたと話すのは馬鹿だってわかったから、それでいいわ……」
森の中へと彼女は消えていく。オリヴィアは何も言えなかった。ただ元に戻った鎌を見て、確かに流れ出た血を眺める。
対してミラーカは――誰にも見られない闇の中まで進んだところで、下唇を噛んだ。
嘘を吐いた。二つほど。
「何を話しに来たのか忘れた」なんて、嘘だった。本当は、人間とうまくいっているオリヴィアから、どうしたらそうなれるのか聞きたかった。
パウにあの目を向けられたくなかった。とにかくそれが嫌だった。
それから二つ目の嘘は。
……いや、嘘とは限らない、とミラーカは自分に言い聞かせる。
――愛しているからじゃないの?
オリヴィアの声が、頭の中で響く。
愛というよりも。
多分。
執着だと、思う。
そう、これは執着だ。
パウが思うようにいかないから。
――それなら、パウを「いじって」しまえばいい。
いくらか森を進めば、パウ達のいる焚き火へと出る。もう皆が眠っていた。パウも毛布に包まって眠っている。
そんな彼へミラーカはそっと近づいて、手を伸ばす。
けれども、白い指は何にも触れられなかった。宙で手を引っ込め、少女は青いまなざしを魔術師に向けるだけだった。
意味がないのだ、こんなことしても。
それを、よくわかっていたから。
それで欲しいものが手に入るわけでもなく。
理想に近付くわけでもなく。
むしろ全てから遠ざかる。
気付けば少女は、青い蝶の姿に戻っていた。近くの荷物にとまれば、動かなくなる。
グレゴを喰らうことによって、より力をつけていることはわかる。
それはきっと、より怪物になっているということだと思うけれども。
――こうも「執着」し、情が移るなんて、まるで人間だ。
おかしかった。
おかしかった。おかしかった。おかしかった。
少し前よりも、以前よりも、最初の頃よりも。
どうしてか、人間に戻っていく。そんな気がしている。
それは心だけで、他は逆方向へ進んでいく。
ただ、パウへの恨みを忘れたわけではない。
むしろ増している。彼が思うようにしてくれないから。
いっそパウに全てを話してみようか。心というのは、話さなくては伝わらないものだし。
青い蝶はふわりと羽を動かす。けれども飛び立たない。そのまま。
何をしたって、結局自分は怪物なのだから。
それだけは覆せない事実。
オリヴィアも、ああも「人間」らしかったものの結局は飢えに耐えられず動物を襲い、仲間まで襲おうとしていた。
自分だって、確かに害意は抱いたものの、ほとんど無意識にオリヴィアを気付つけた。
自分達はきっと人間には戻れないのだ。
不意にミラーカが思い出したのは、ゼナイダとの戦いだった。
あの時、パウを手助けしなくてはと思い「何か」が起きた。
その時に、人間達は自分をどう見ていた?
それが事実なのだろう。
……蝶の姿というのは便利だ。
この状態だと大声を上げられないし、虫は泣かない。
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