第七章(07) 俺は、できる限り
* * *
翌日もよく晴れていた。オリヴィアの話によれば、サリタの結婚式は数日後なのだと言う。
「森からじゃ、遠いけど……すごく楽しみなの」
巨大なカマキリに似た彼女は、村を見据える――アニスト村は、ここからでは小さく見えた。点と言うほどでもないが、よくは見えない。それでも彼女は目を輝かせていた。
「結婚式までは大人しくしているのがいいね」
そう言ったのはメオリだった。彼女は微笑んでいたものの、その橙色の瞳に、わずかに影が落ちる。メオリはパウとアーゼに少し近づけば、声を小さくした。
「……普通の人間がオリヴィアを見つける可能性は、そんなに高くないと思うけど、一応『遠き日の霜』がやってくる可能性を考えた方がいい。あいつらも、ここにグレゴがいることを知ってるんだろう?」
そのこともあるため、本来ならばすぐにミラーカにオリヴィアを食べさせるべきだった。
だがオリヴィアは――『怪物』ではなくなっていた。
「ネトナさんやエヴゼイさんに連絡をとろう、こちらの状況を伝えておいた方がいい」
と、アーゼが焚き火まで踵を返そうとする。パウも頷いた。
「向こうの状況も知りたい、あの魔法道具、一回の使用でどのくらいの時間会話ができるかわからないが、できる限り聞いておいてくれ――」
――騎士団を離れる時に、魔法道具師であるエヴゼイから、彼手製の魔法道具を一つ持たされた。
離れた場所でも会話ができる、連絡機。魔法道具故、使える回数に制限はあるものの、何かあった時に、と渡されたものだった。
こちらからも何かあったら連絡できるから、と。
森の奥へ消えていくアーゼを、パウはしばらく見つめる。アーゼの足取りはどこか急いでいるように見えた。まるでこの場からいますぐ離れたかったというように。その腰に、剣は帯びていない。
それを受けて落ち着きがなくなったのは、オリヴィアだった。離れていくアーゼに気付いて、まさに虫のように頭を動かし、戸惑っている。
オリヴィアはきっと、話をしたかったのだろう。
だがアーゼは、とにかく距離を置きたがっている。
気まずさを覚えてパウは俯く。自分に、何ができるだろうか……。
そう考えていたところで。
「――何かおかしい」
不意にメオリが鋭く言い放ち、くるりと振り返った。同時に遠くからぴぃ、と鷹の声が響いて来る。シトラだ。
「どうした?」
パウが尋ねると、メオリは手を自身の目元に持っていった。魔法陣が帯のように広がる――使い魔の目を借りて、鷹の見る景色を覗いている。
「……サリタが妙に慌ててる。慌ててこっちに来てる」
それを聞いて、オリヴィアが身を竦めた。異変に気付いたアーゼも、慌てて戻ってくる。
「何かあったのか?」
「わからないな、とにかく急いでこっちに来てる、そろそろ見えてくるはず……」
言葉の通り、木々の向こうに村娘の姿が見えてきた。胸元では白い石のペンダントが揺れている。サリタは汗も拭うことなく、こちらに気付けば大きく手を振った。
「オリヴィア……! 逃げてちょうだい! 村の人達が!」
――息せき切りながらも、サリタは説明した。巨大な怪物の噂。実はここ最近、妙な動物の死体が増えていること……今日も早朝、猟師がまるで大きな獣に食い散らかされたような鹿の死体を見つけた。そのため、村の男達は一度森を調べてみることにしたのだという。
「私が村を出ようとした時、もうみんな準備していたわ! だからそろそろ来ちゃうかも……ああどうして急に……」
サリタは顔を歪めるものの、オリヴィアは凍りついたかのように彼女を見下ろしていた。またパウも、はっとしてオリヴィアを見上げる。
喰い散らかされた動物の死体というのは、間違いなくオリヴィアのやったものだ。
「ごめんなさい……私が、死体を上手に隠せなかったから……」
少ししてオリヴィアは謝った。けれどもサリタは頭を横に振って。
「とにかく、ここから動かないと……」
「崖上なんてどうかな?」
すぐさまメオリが空に向かって指をさす。その先には崖があった。
「村人はあそこまで来る? シトラで見た様子、道は険しそうだけど……その分、人が行きにくいと思うんだ」
「俺は時間稼ぎしてくる」
アーゼも口を開く。
「もしかすると……俺が賞金狙いで怪物退治に来たって話をしたから、村人達が動いたのかもしれない、だから」
アーゼは村のある方角へ走り出す。しかし道中、剣を持っていないのは不審がられると気付いたのだろう、ぴたりと止まり焚き火へと走る。剣はそこにあった。
剣へ伸ばした手は、一度宙で止まった。それでもアーゼは剣を手に取り身に着ければ、走り出したのだった。
「頼んだぞアーゼ! こっちもなんとかする!」
パウはその背に声をかけ、振り返れば目的地と決めた崖を見上げる。すでにミラーカが急かすかのように、ふわふわと上空で羽ばたいていた。
生い茂る木々の緑の向こう、崖までは少し道のりがあるように思えた。高さもある。
一行は静かに森の中を歩き始めた。メオリがシトラを飛ばしながら、最適なルートを選び進んでいく。途中までは平坦な道だったものの、やがて険しくなっていく。パウがふらつけば、ミラーカが少し心配するかのように寄り添った。普段こういった道を歩かないだろうサリタも苦戦していて、道中転んでワンピースの裾を破いてしまっていた。メオリだけは慣れている様子で、オリヴィアもまた、その巨体からは考えられないほど、苦も無く進んでいる様子だった。
「私、飛べるわ」
不意にオリヴィアが言う。
「みんなを背に乗せて、一気にあそこまで行ったら、いいんじゃないかしら」
「それは目立つからやめておいたほうがいい。私だって、シトラをいま高くは飛ばせない」
メオリがオリヴィアに苦笑いを向ける。だがふと、その表情はかき消えて。
「……もしかして、動物の喰い荒らされたような死体って」
「ごめんなさい……その、知られたくなくて」
メオリは決して、嫌悪するような顔をしなかった。ただ溜息を吐いて、笑うのだった。
「言ってくれてたのなら、死体隠すの手伝ったのに!」
「でも……ひどいのよ、私……その、まるで、怪物みたいで……」
「そんな風に言う人、全然怪物に思えないな!」
その言葉にオリヴィアははっと顔を上げたのだった。
一方、パウは思い出して、サリタに尋ねる。
「あんた、もしかしてオリヴィアが動物を食べることを、知ってたのか?」
「もちろんよ。最初に出会ったとき……あたし食べられそうになったし……」
サリタはオリヴィアに聞こえないように、後半は声を小さくした。
「でも動物を食べるのだって……生き物なんだから、当たり前じゃない? それに、オリヴィアは、本当は優しい人よ……」
そこにいるのは、姿だけが怪物の、人間で違いなかった。
和やかな空気の中、青い蝶は黙ってパウの肩にしがみついていた。
ようやく一行は崖上まで上りきった。疲弊しきったパウとサリタと違い、依然として余裕を残したメオリが、崖下を窺う。目立たないように身を屈め、眼下を見据える。
「アーゼがいる。村人達も、もう来てる……」
彼女のその声を聞き、パウもメオリに倣って崖下を覗き込む――深い緑の向こう、アーゼの短い金髪が見えた。彼の前には男の集団がいて、アーゼは彼らと話している。声は聞こえないものの、アーゼのその仕草から、軽い口調で会話をしているのだろうと思う。対して男達は難しい顔をしていて、しかし先頭の男が頭を横に振ると、いまパウ達がいる場所ではない、別の方角を指さして、ぞろぞろと去っていく。
うまくいったらしい。
「あら! ここ……」
背後で唐突に声がする。見れば、オリヴィアがそっと崖下に広がる景色を眺めていた。緑の森、青い花畑。そしてアニスト村……上から見る分、村はよく見えた。広場や民家が見える。走り回る子供達や、話し合う女達が、点のようであってもわかる。
「実はこっちの方がよく見えるんじゃないかと思って!」
得意げにメオリが笑った。
「折角の友人のお祝い事なんだ、よく見えたほうがいいだろ?」
広場には、花で飾られたアーチがあった――パウには詳しくわからないものの、恐らく、結婚式の準備をしているのだと彼は悟った。
オリヴィアとサリタは喜びあっていた。メオリはここまで考えていたのかと、パウは彼女を見つめる。と、メオリは近づいてきて。
「――できるだけ、よくしてあげたいんだ。これから……死なせなくちゃいけないんだし」
そしてつと、視線を下に落とす。
「それにいままでずっと残酷な目にあってきたんだから……『遠き日の霜』は、本当に残酷なことをする……彼女や他の犠牲者もそうだし……あの、赤毛の、女の子のことだって」
メオリが言っているのは、師匠を殺し、また自身も殺されかけた『遠き日の霜』の『掃除屋』ゼナイダのことだろう。
「……あいつのことは、許せない。でも、あいつすらも道具みたいに扱った『遠き日の霜』は……本当に、命を、人を、何とも思っていないんだろうな」
少し時間が経って、アーゼもようやく崖上へやって来た。そこが全てを見渡せる場所であり、また木々の間にオリヴィアが潜めることを確認して、ふぅん、と腕を組む。
アーゼの腰に、剣はもうなかった。道中で置いてきたのだろう。
そうまでして、彼は剣を持ちたくないらしかった。
「悪くない場所だけど……これじゃあ、サリタさんが来るの大変じゃないか? 一時的ならいいけど……村の奴らと話した感じ、まだ警戒してるみたいだったぞ」
「あたしなら大丈夫よ! 確かに大変だったけど、オリヴィアに会いに行くためなら、問題ないわ!」
サリタは元気よく声を上げる。そこで彼女は我に返って。
「いけない、そろそろ戻らないと……みんなに、色々言われちゃうわ。大事な友達に会いに来てるだけなのにね」
サリタは手を振って去っていった。去り際、結婚式の準備が本格化しているため、しばらくは来られないかも、と悲しげに告げて。
「ここから見えるから、寂しくないわ」
オリヴィアは何も斬らないように気をつけて鎌を振っていた。
それを見届けて、アーゼも不意に元来た道を歩き出そうとする。
「俺達も荷物を移すか……」
「そうだな……ちなみに降りるのは、こっちの方が早いぞ」
と、メオリが言ったかの思えば、彼女は崖から飛び降りた。パウとアーゼ、オリヴィアは一瞬ぎょっとするものの、すぐに鷹にぶら下がった彼女の姿が見えて安心する
「あいつ、だいぶ元気になったな……」
思わずパウは声を漏らした。アーゼは、
「パウ、お前はここに残ってろ。その足なんだ、往復するのは面倒だろ、持ってくるさ」
「すまない、頼む」
「――あ、あの! アーゼ!」
急に声が響き渡る。オリヴィアだった。名前を呼ばれ、ぴたりと、まるで時が止まったかのようにアーゼが停止する。
風は確かに吹いていた。時間は流れていた。鳥の鳴き声も聞こえていた。けれどもその瞬間、まるで世界が凍りついたかのような感覚が、確かにあった。
「……話したいことが、あるの」
薄氷を割るように、オリヴィアが切り出す。
アーゼはすぐに返事をしなかった。だからオリヴィアが続けて何か言おうとした時に。
「俺は、話すことは、ない」
それは一つの、静かで激しくもある拒絶だった。
「……あんたが何を言おうとしてるのか、詳しくは、知らない。でも、最初に会ったとき、俺に見覚えのある様子だったから……何の話をしようとしてるのか、俺には、わかる」
アーゼは振り返らない。オリヴィアに背を向けたまま。
「だから……話さないでくれ。正直に言う。俺は……できる限り、あんたと話したくない……理由は、あんたがあの怪物であって、でも、あの怪物じゃないから……」
彼は歩き出す。一歩、静かに。
「それに……あんただって、被害者だ……だから、俺は、できる限り、助けたいとは、思う」
そしてようやく、ちらりと振り返った。それはオリヴィアにではなく、パウへと向かって。
「……パウ、お前もだからな。お前だって、色々大変だったわけで……だから、そんな顔するなよ」
――いま、自分はどんな顔をしていたのだろうか。
言われてパウは、顔を歪めていたことに気付く。
「それじゃあ、これだけは、言わせて」
オリヴィアが静かに顔を上げた。
「――村人をこっちに来ないようにしてくれて、ありがとう」
アーゼは何も言わなかった。ただかすかに頷いて、歩き出した。
――青い蝶は、やはり何も言わずに、巨大なカマキリの怪物を見据えていた。
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