第七章(06) もっとちゃんとしていれば
ひゅん、と。
鎌が空気を切り裂き、地面に突き刺さる。
直前でパウは瞬間移動魔法を使っていた。パウがオリヴィアから距離をとったところに姿を現せば、カマキリに似た怪物はぎぎぎと声を漏らして、頭を動かす。血肉と共に口から涎が滴れば、足下の草はじゅうと音を立て、燃えたかのようにちぢれてしまった。
「オリヴィア!」
パウは再び叫んだものの、怪物は奇声を上げつつ鎌を構える。いまのオリヴィアは、間違いなく、いままで見てきたグレゴと同じだった。
鋭利な輝きが宙を横切った。目の前にあった樹が滑るように動いて切り倒される。木の葉が降る中、目の前は開かれて、怪物の黒々とした複眼は確かにパウを捉えていた。
とっさにパウは手を構えたものの、魔法を放てなかった。
彼女は。
彼女は言葉を話した。人間だった。心があった。願いがあった。
そんな彼女に、どうして自分が魔法を撃てる?
手が震える。片方だけしか見えない赤い瞳が揺れる。
カマキリに迷いはなかった。飢えだけがそこにあった。鎌の切っ先が、鋭く光る。
「オリヴィア」
そこに、青い光が。
「――オリヴィア」
突風に吹かれた木の葉のように割り込んで。
「……」
巨大なカマキリは言葉なく震え上がり、一歩退いた。対してミラーカはまるで圧すかのように迫り、やがてパウの肩に戻ってくる。
暗闇の森の中、カマキリが狼狽えているのをパウは見た。
「ごめんなさい……私……! あっ、これは……」
オリヴィアは血に汚れた鎌と地面に転がる狐の死体に、いま気付いたかのようだった。そしてびくりと震えれば、おぞましい悲鳴を上げる。
最初、パウはまたオリヴィアが奇声をあげたのかと思った。とっさに身構えたが、違っていた――オリヴィアは吐き戻していた。
血混じりのどろりとした液体を吐き出す。その液体に触れた瞬間、草木は刹那赤々と燃え上がって腐るかのように溶けていく。異臭が鼻をつく。
「オリヴィア……」
しばらくパウが見守っていると、やがて落ち着いたのか、オリヴィアは頭を上げた。瞳からは涙を溢れ出させていた。その雫さえも、地面に垂れ落ちれば、受けた新緑は悲鳴を上げて死に失せたのだった。
「――我慢ができなくなるの」
――洞窟へ戻る最中、カマキリに似た巨大な怪物は、悔いるように告白した。
「すごく……お腹が空いてしまって……時々、我を忘れてしまうの」
「それで、夜は一人にしてほしかったのか」
「……サリタには、秘密にしておいて。あの子は一度見てるけど……私は、人間でいたいから」
オリヴィアが身体を引きずるように進み、パウが続く。最後をミラーカが追っていたものの、青い蝶は緩い風に吹かれたかのように宙で儚く揺らめいた。
「こんなのじゃ、本当に怪物ね」
オリヴィアは苦笑するものの、声はまるで喉を絞められているかのようだった。
「……全部俺が悪いんだ」
先には洞窟が見えてきていた。つとパウが口を開けば、オリヴィアは振り返って首を傾げる。
パウは繰り返す。
「俺が悪いんだ……それを、全部話しに来たんだ」
――夜が更に濃くなり世界が沈み込む中、オリヴィアは黙ってパウの話を聞き続けた。
パウは淡々と話し続けた。師に誘われてとある研究に参加したこと。その研究の正体。ミラーカと旅に出たこと。
言葉を詰まらせることもなく、パウは話し続けた。ミラーカもパウの肩にとまって、黙っていた。
全ての真実を伝え終えて。
「……そう、だったのね」
オリヴィアはまず、そう言葉を漏らした。その声に怒りはどこにもなく、けれども困惑に似た何かがあった。彼女はどこを見たらいいのかわからないといった様子で俯いていた。
「……ちょっと、どう言ったらいいのか、わからないの」
それでも彼女は、ゆっくりと顔を上げて、パウを見据えた。
瞳に映っているのは、しっかりと見つめ返す魔術師の青年だった。
「……でも、全部知れてよかった。私、どうして自分がこうなったのか、わからなかったから……だから少し……安心した、っていって、いいの、かしら……?」
まるで照れるかのように、オリヴィアは鎌になった前足をあわせ首を傾げる。
「――俺がもっとちゃんとしていれば」
思わずパウは口にしてしまった。幾度となく繰り返してきた後悔だった。もはや口にしても意味のない言葉だと、自分自身で一番よくわかっているはずだった。
オリヴィアは覗き込もうとするかのようわずかに身を屈めた。漆黒の巨大な瞳に、月と星の光が薄く反射する。かすかであっても、その透き通った輝きに、あたかも瞳は黒曜石のようにも思えた。
「そう言わないで。あなたは利用されただけってことで、少なくとも、私はあなたのことを悪く思わない。それに……」
巨大なカマキリは、一度そこで言い淀んだ。しかし続けたのだった。
「その『ちゃんとしていれば』っていう気持ちは、私にも、わかるから」
星の囁きと夜の闇が渦巻く音すらも聞こえそうなほど静かで、穏やかな中だった。オリヴィアが身動ぎすれば、その背で鈍い光が反射する――肉に埋もれ、もはや身体の一部となった何かが、月の光を浴びていた。
「……あなたも、見覚えがある。パウ、あなたはあの時……彼と一緒にいたわよね? 私が……彼のお母さんを……殺してしまった時……」
静かにパウは瞳を大きく開いた。突然オリヴィアは話し出したが、何を言おうとしているのかわかった。
アーゼの村を壊滅させた時のことだ。そして彼の母親を喰らった時のこと。
「憶えているの、私」
パウが尋ねる前に、オリヴィアは少し身を乗り出すようにして答えた。
「ぼんやりだけど……憶えているの。あの時、自分が女の人を食べたこと。燃えさかる家。剣を持って走ってきた人。それから、魔術師のこと」
パウは何も言えなかった。そしてオリヴィアもそこで黙ってしまった。ミラーカだけが、静かに羽を動かしている。
梟の虚しい鳴き声が聞こえた。木々の向こう、そのまた向こうで、村の小さな明かりが瞬くように揺れていた。
「……あのとき、もし、私がもっと、ちゃんとしていたら」
風が流れて木の葉が囁きあう。その清流にオリヴィアの声はいまにも消えてしまいそうだった。
「あの彼……アーゼのお母さんを、殺さずに済んだ。彼の村だって」
誰も死なせたくなかったのに。
巨大な怪物はかすかにだが、確かに震えていた。
「……でもそれは!」
と、パウは思わず声を響かせる。
――そう、それはどうしようもないことだった。オリヴィアがどうにかしようとしてできることではなかったはずだった。
何故ならその時オリヴィアは、オリヴィアではなかったのだから。
「……俺が悪いんだ。俺が発端なんだから」
全ては自分の浅はかさから。
パウの声は裏返りかけていた。そんな風に彼女に言わせてしまったことが、胸に突き刺さる。
けれどもやはりオリヴィアは怒ることなく、表情は作れないはずであるのに、その時確かに優しく微笑んでいると、パウは感じ取った。
「パウ、あなたは自分を責めすぎよ。あなたは、利用された。あなたは、悪くないわ。それにいまあなたは……頑張っているじゃない」
頑張っている、なんて。
償いをするのは当たり前のことで、そこに「頑張り」というものはふさわしくないように思えた。
「俺は、しなくちゃいけないことをしているだけだ」
それを罪として受け止めたのだから。それだけではない。
「……利用されたとはいっても、ミラーカをこうしたのは、間違いなく俺自身がこの手でしたことなんだ」
ふわりと、青い蝶は肩から離れた。
かつては一人の少女だった。研究に使われ芋虫にされた。
それを自分が、更に研究に使い、不死故に「死ぬほどの」ことを何度もやってきた。
果てに彼女を都合よく道具だと思って。
彼女の苦痛と絶望と怒りを、受け止めなくてはいけないから。
「オリヴィア……殺さなくていけなくて、済まない」
涙を堪えながら彼女を見上げれば、彼女は微笑んだままだった。
「違うわ。助けてくれるのよ、あなた達は。私にできないことをしてくれる。それだけじゃないわ。あなた達は、サリタの結婚式を見届けるまで待ってほしいっていう私のお願いを、聞いてくれたじゃない」
オリヴィアの身体は震えていた。恐怖からではなかった。彼女は口元に鎌を持ってきて、無邪気に笑っていた。
「――ありがとう」
ようやく鎌をおろせば、彼女は夜空を見上げる。
「……私も、言わなくちゃよね。彼に、アーゼに謝らないと。謝って済むことでないのは、わかってる。でも……私も、受け止めないと」
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