第六章(12) お前が殺した方がいいと言うのなら


 * * *


 ――ゼナイダは、これまでに「恐怖」というものを一つも感じてこなかった。

 物心ついた頃には、既に身体には銀色の血が流れ「人よりも優れたもの」になっていた。だから敵はなく、故に恐怖もなかった。

 しかしいま、ゼナイダは恐怖をはじめて知り、震えていた。

 ……恐ろしいほどに深い青色が、どろどろと広がっていく。もはや青と呼んでいいのかわからないほど得体の知れないそれは、奇妙な輝きを放っていた。その輝きにある何かが、そして存在そのものが放つ何かが、肌や瞳から染み込んでくる。

 言葉にはできない、見えないそれ。しかし間違いなく毒に似たものであり、関わってはいけないものだと感じられた。

 触れてはいけない何か。

 理解してはいけない何か。

「ひっ……」

 青いアメーバ状の何かが大きく波打った。呑み込んだのは銀の雲――『掃除屋』の血。逃げることもできずに呑み込まれ、圧倒的な力に無にされたことを、ゼナイダは感じ取った。彼女が漏らしてしまった悲鳴は、見た目通りの少女のもので、肌は粟立つ。

 壊れた外壁から、月光がてらてらと青色を照らす。この世のものとは思えない存在に震えているのは、ゼナイダだけではなかった。その場にいる『風切りの春雷』騎士団も、喉を潰されたように声も出せず、目を見開いていた。

 それはきっと、ここにいてはならない存在だった。

 それはきっと、この世界の全てを否定してしまうような存在だった。

 遅れて教会にやって来たアーゼとネトナも、それを前に足を止めてしまう。そして瞬きもできずに、染み入ってくる透明な毒を浴びるしかなかった。

 と、青色の中央、ぼこりと、大きなあぶくが生まれた。ぼこぼことそれは続いて、時に弾けるものもあるが、まるで何かが立ち上がろうとするかのように、塔を作っていく。おおよそ人より三倍の背丈になったところで、不気味で醜悪な造形物となった。ぬるぬると、触手のようなもの数本が生えてくる――人間の腕に似ていた。肘関節や、先端に手があった。けれどもその歪さ。肘は連なっていたり、指や手そのものは複数に分裂していたり、まるで人間複数人を合成した一部のようだ。

 そしてどこも不定形で、どろりと溶け落ちている――誰もが「未完全の何か」であると、気が付いた。

 その何かが、飛沫を飛ばしながら身体を震わせれば、広がる青色がうねった。すると足下に紫色が現れる――。

「パウ」

 恐ろしい何かが声を発した。ひどく歪で、溺れているかのような声で、けれどもコーラスであるようにも聞こえる、不気味なほどに神秘的な声だった。誰がそれを、あの青い蝶の声だと気付いただろうか。

 ただ一人。

「しっかりして。あなたは無茶をしすぎなのよ」

「……」

 青い水面に浮かんだパウだけは、それが彼女であると気が付いた。

 手を伸ばせば、青い輝きが手を滴った。パウはそれをぼんやりと眺める。

 この世の何よりも美しい、青色だった。

 どろどろと指の間を抜け垂れ落ちていく様、腕を伝っていく様に、パウは薄く微笑む。

 他の人間が感じているものは、微塵も感じられなかった。そもそも、気が狂いそうなほどの恐怖に皆が押し潰されていることに、パウは気付いていなかった。

 ただ、ミラーカだけを見上げていた。

 青色が波打つ。パウの身体が起こされる。ようやくパウは、他人から見ればおぞましい青色の中に立ち上がった。

「……綺麗だ」

 こちらを覗き込むように身をかがめた、ミラーカを見上げて。

 赤い瞳には、青色しか映っていなかった。

「お前は……本当にすごいな」

 不思議な感覚が、パウを満たしていた。

 ――この青色は、自分を導き、救い、罰してくれる光なのだから。

 人はそれを、何と呼んだだろうか。

 見上げるパウに対して、ミラーカは何も言わなかった。身動ぎすると、遠くを見据えるかのように身体を起こす。

 はっとしてパウもミラーカが見ている方へ視線を向ければ、震えながらもナイフを構えたゼナイダの姿があった。

 静かにパウは手を構えた――底尽きていた魔力が、いまは溢れそうなほどに回復していた。青い気が、自分に絡みつき渦巻くのを感じていた。

 いま、ミラーカが力を貸してくれている。

 ――ゼナイダの姿が揺らいだ。

 同時にパウは、水晶を放った。

 ……小さな影が、壁に縫い付けられる。驚きと絶望に、誰かが息を呑んだ。

「う、あ……?」

 ――細い水晶が、ゼナイダの肩に刺さっていた。貫通し、壁に縫い付けていた。手にしたナイフの片方は砕けてしまっていて、防御に失敗したことを表している。

 ゼナイダは目を白黒させていた。肩からは銀色の血が流れだしている――魔法であれば、この血で無効化できたはずなのだ。

 そのはずなのに。

 ……続けてパウが水晶二つを放つ。一つはゼナイダの砕けていないナイフへ向けて。もう一つはゼナイダの太股に向けて。狙いは見事に命中し、ゼナイダは武器を失い、足も負傷してしまった。ついに水晶が消えれば、彼女は潰れるように地面に落ちた。

 銀の血の力を凌駕するものが、そこにはあった。

 負傷と絶望に、ゼナイダは動けなくなっていた。それでもパウは手を構え続けていた。

「殺すの?」

 パウの背後に立つ、巨大な影が囁く。

「お前が殺した方がいいと言うのなら」

「……話を聞き出さないと」

 静かにパウは手を下ろした。それと同時に、青色が大きくうねり、渦巻き縮んでいく。

 驚いてパウが振り返れば、ミラーカの姿は崩れ始めていた。全ての青色は一点に集まり――やがて小さな存在ながらも美しい蝶の姿になった。パウが手を伸ばせば、そこに留まる。

 と。

「任務失敗なんて――あり得ない――!」

 半ば悲鳴に似た、怯えた声が響いた。風を切る音がパウに迫る。

 我に返ってパウが振り返れば、砕けたナイフが目前に迫っていた。ゼナイダが投げたのだ。

 ところが、弱々しくも澄んだ鷹の声が、砕けたナイフをさらうようにして横切った――ナイフを防いだシトラは、地面に墜落する。その身体は未だ半分ほどが崩れたような形だったが、無理矢理飛んだらしい。

 シトラが飛んできた先をパウが見据えれば、ぐったりとしたままのメオリが、ぼんやりとこちらを見つめていた。と、その瞳がパウからそれる――ゼナイダへと向けられる。

 ひどく悔しそうな声が聞こえる。改めてパウがゼナイダを見れば、銀色の瞳がぎっと睨み返してきた。

「……知っていること、全部話してもらうぞ」

「何も話さないよ」

 ぎりり、と銀色が鋭利さを増す。

 それでもパウがゼナイダに手を伸ばした、その時だった。

 ――ごふ、と赤毛の少女は、銀色の血を吐き出した。

 ひどく驚いた顔で。身体の震えは、恐怖によるものではなかった。

 とっさにパウは手を引っ込めた。ゼナイダ自身、何が起きているのかわからないような状態らしかった。

「何が……どうしてっ……?」

 少女が瞬きをすれば、その瞳からも銀色の血が溢れ出た。もがくかのように息をして、胸を押さえ身を丸め、しかし口や鼻、目から溢れ出る血は止まらず、肌も勝手に裂けて血が溢れ出る。

 まさに「壊れていく」という言葉が正しかった。

「かあ、さま……?」

 ゼナイダの瞳はパウへ向けられたままだった。

 まだ幼さを残した少女の顔は、最期に、打ち捨てられたかのように歪んだ。

「――ゼクン……」

 それが何の、誰の名前であるかパウにはわからなかったものの、ゼナイダの瞳がついにどろりと溶けてしまった。もう動かない。

 これは自分によるものでも、ミラーカによるものでもない――察してパウは顔を青ざめさせる。

 彼女は負けたから、何者かに殺されたのだ。

「……一体何が、誰が――」

 思わず振り返った先で、はっとパウは気付く。

 ――その場にいた騎士団員達は、すっかり怯えていた。嫌悪と恐怖が混ざった目を、パウと、その肩にとまった青い蝶へ向けていた。

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