第六章(10) 人間とは、神がいなくても
* * *
夜の闇の中、銀色の液体が星のように散った。黒い液体も飛び散り、月光に赤色を返す。
『掃除屋』は能力を失い、いまや騎士団員と同等となった。騎士団員の剣の前に、その身体は自分達人間と同じものとなり、身体能力も、人外じみたものではなくなった。
しかしネトナは、視界の片隅、倒れ行く仲間の影に気付く。動かなくなったその影を中心に、黒いインクのような液体がまるで彼を呑み込もうとするかのように広がっていく。
ネトナは決して目を瞑らなかった。隻眼をぎらつかせて、しかしその一瞬、胸中で哀悼を呟き、これまでの勇気を称える。
まだ彼らと向き合う時ではないのだ――ここはいまだ戦場であり、目前には斬らねばならない敵と、守らなくてはならないまだ生きている味方がいる。
「油断をするな!」
大剣を振るえば、敵を薙ぎ払った。その隙に、傷ついた仲間が下がっていくが、血を流しながらも剣を握り続ける者もいる。
そんな一人に「下がれ」とネトナが叫ぼうとした時に。
――巨大な影が、彼に襲いかかった。肩から血を流しながらも剣を握っていた彼は、その怪我のためか、構えるのが間に合わなかった。
彼の姿が影に消えた。だがそれは刹那の出来事で、次の瞬間には、胸から血を噴き出させながら、彼は地面に倒れた。
と、まるで闇そのもののような巨大な存在が、ネトナへ振り返る――オレガリオ。
「……ここまで追い詰められるとは、我々も油断しましたな」
片腕から銀の血を流れ出るままにしているものの、彼は両手にナイフを握り続けていた。その手を広げ、肩を竦める。ほかの『掃除屋』とは違い、ゴーグル部分のある仮面は、赤い血に塗れていた。
気付けば、真夜中の戦場にはネトナとオレガリオだけが立っていた。騎士団員と『掃除屋』の死体が転がる中、二人は対峙する。
下がらせた仲間達は無事だろうか。『掃除屋』全員を倒したはずではないはずだ、きっと先へ行ってしまったのだろうが、仲間達は戦えるだろうか。そしてパウや彼を任せたアーゼ達は大丈夫だろうか――考えながらも、ネトナは剣を構える。
「早く皆を追わないといけないが……ここでお前を倒すのが、いま、私がやるべきことだな」
「――私も早く標的を追わなくてはいけないが……ゼナイダ様の邪魔をさせるわけにもいかないし、隊長は……五点だったな」
オレガリオのナイフが、残光の尾をひいて闇を切り裂いた。先程のパウの魔法によって、いくらか身体能力を低下させたといっても、その動きはいまだ歴戦のものであり、ネトナは素早く身を翻して避ける。オレガリオは退かない、勢いを殺さず、再びネトナへ襲いかかる。ネトナは再び避け、また大剣で払うものの、反撃の隙を見つけられず、しかし冷静に舞い続ける。
ついにオレガリオの一対のナイフが、ネトナが防御に構えた剣を押し込んだ。巨体が大剣にのしかかるかのようだった。
ところが、その状態でネトナが踏み込んだ。大剣を握るにしても、大男の一対のナイフを受け止めるにしても、決して相応とは思えない体格。それでも彼女の剣は、熊のような男を跳ね上げた。切り返しに、袈裟切りに大剣を滑らせる。しかし宙でオレガリオが身をよじったかと思えば避け、後退する。かすかにオレガリオの身体に切っ先が触れたが、銀の血がわずかばかりについているだけだった。
やはり、まだ強敵であることに変わりない――だがネトナは顔を顰めず敵を睨み、その代わりに、剣についた銀色の血を見て、ぴくりと目元をひくつかせたのだった。
「しかしお前達は……正真正銘の、化物だったのだな」
刃を受けつけない身体、奇妙な動き――まさに人ならざるものの動きだったが、その化けの皮はパウによってほとんどが剥がれた。
だが、剣についた血、そしてオレガリオの傷から流れ出るそれは、間違いなく、人間のものではない。
……闇の中、漏れ出てしまったような笑い声が聞こえた。正面を見据えれば、熊男は笑っていた。
「残念ながら、まだ人間の範疇だ。魔術師として生まれることもできなかった、な……」
どこか自嘲のようにも聞こえたが、次の瞬間、その巨体はネトナの目の前にあった。
左右から迫る、殺意の銀色。
「けれども魔術師達によって、我々はこの力を手に入れた――」
抱擁にも似た、オレガリオの攻撃。とっさにネトナは後方へ跳ねた。宙で一回転しながら着地しようとするが、すでにそこには、オレガリオの姿があって。
完全には避けきれなかった。ナイフの切っ先が、左腕を滑った。熱が赤色と共に溢れ出る。
それでもネトナは、もう片手で剣を振り回した。するとオレガリオの仮面に刃が衝突した。何かが砕けるような音が聞こえる。だが熊男は倒れることなく、ネトナから距離を取る。
ネトナは追わずに、敵を見据える。
――ぽたぽたと、赤色が腕から地面に滴った。剣を握ることはできるものの、傷は浅くはない。
零れ出るそれは、オレガリオのものとは全く違う色の血。
……しかし彼は、それでも人間だと言った。それだけではなく。
「……何故、あいつらに従うのだ? お前は今し方、自分は人間で、しかも魔術師ではないと言ったな? そうであるなら……従う理由がわからないな? 力をもらったからか?」
オレガリオ達『掃除屋』の上にいるのは『遠き日の霜』――魔術師至上主義者達だ。
彼らは自分達以外の人間――非魔術師の排除も目的の一つとしているらしいが、それならば、何故彼は従う?
彼だけではない。いまここに転がる『掃除屋』達も、恐らく魔術師ではなく「ただの人間」だ……。
と。
「神に従うこと。導きに従うこと。それはおかしなことか?」
それは狂言ともとれる言葉だった。だが凛として、闇に響く。
――闇の中、仮面が割れて、オレガリオの素顔の一部が露わになっていた。銀色に爛れた肌。それでも確かな光を宿した眼差し。
「あの方々はいずれ神と呼ばれるべき存在になる……だからこそ、我々『奉仕者』は仕えるのだ……あの方々にとって、我々があさましい存在であるが故に! それでも慈悲として利用価値を見出していただいた故に! 我々に光を授けてくれた故に!」
刃と刃の衝突が、夜空を震わせた。
再び跳びかかってきたオレガリオのナイフに、ネトナは剣を交える。
爛れ、銀色の血を滲ませた顔の男は、瞳を細くしていた。
「トリーツェン様により受けた命は『掃除屋』の副隊長としての貢献と、隊長ゼナイダ様の、よき『ゲーム相手』になること……ああ、お前を早く倒し、急がねばな……張り合ってこそ、ゼナイダ様は喜ばれるのだから」
対してネトナは――呆れにも似た色を、瞳に浮かばせていた。
「一つも理解できないな……神だとか、何だとか……」
まるで太古のお伽噺のようだと思う。
ただ、この世界にはもう「神」というものは存在しなくて。
それ故に。
「人間とは、神がいなくても、こうして自ら進んでいくことができた生き物であるのに」
だからこそ、思う。
卑下するのは間違いだと。
そして、ただの人間も、魔術師も、その存在に違いはないと。
そう思った、次の瞬間だった。
「お前も私も、卑しい存在に違いないということだ。けれども私は、あの方々から力を授かった――」
光が弾けた。オレガリオの流す血も弾けた。
その瞬間、ネトナは何が起きたのかわからなかった。ただ手にした大剣がひどく震えて、握ってはいられないほどだった。
敵が何か仕掛けてきた。とっさに背後へ飛び退いたものの、耐えられず剣を落としてしまった。重々しく鈍い音が叩きつけられる。そこで気付く。光を爆発させていたのは、己の剣だったと。
「その魔法道具の剣は、ひどく丈夫にできていたようだな。我々の魔法をも破壊する振動の中、何一つ影響を受けていなかったのだから」
オレガリオの、どこか勝利を確信したかのような声。光が明滅する。やっと治まり、ネトナが落とした剣を見れば。
「しかしこれほどの振動には、耐えられなかったようだな……私にとっても、これは奥の手だったが」
「……」
刀身にあった、魔法道具の証でもある、美しい文様。大きな亀裂が走っていた。
それが意味するは、魔法道具としての力を失ったということ――。
「不思議だったのだ、お前ほどの体格、その腕で、この巨大な剣を振り回せることが……」
オレガリオが話し続ける中、ネトナはじいと落ちた剣を見つめていた。反応がなくとも、オレガリオは続ける。
「その剣にかかっていた魔法は『軽量化』……そうだろう? これでお前はもう、剣を振るえない――」
巨大な漆黒が、ナイフを構えて蠢いた。剣を失った女剣士へと迫る。
ネトナは、一つ、溜息を吐いて。
――それは諦めのものではなく。
――申し訳なさと、苛立ちを混ぜたかのようなもので。
隻眼の女剣士は、舞うようにしてナイフを避ける。避けつつ、落としてしまった剣へと手を伸ばし。
片手で大剣を持ち上げた。
まるで、大剣であること、それに見合った体格と腕でないことを、無視しているかのように。
あるいは、いままで通りのように。
――完全に、オレガリオは油断していた。割れた仮面から見える、銀の瞳が大きく開く。
それと同時に。
ネトナの大剣が、熊男の身体を走った。銀色の血が、噴き出る。
オレガリオはすぐには倒れなかった。大怪我を負ってもなお、握ったナイフはネトナの心臓を狙い続け、宙を滑る。しかしネトナは、暴力的なまでにそのナイフ全てを剣で払い、果てにオレガリオの身体を、薙ぎ払った。
肉は斬れたが、骨を断つことはできなかった。熊男の身体は、仰向けに転がった。もう起き上がらない。だがその胸はまだ上下していて、息をしていた。
「……なんてことだ、すっかり油断してしまったなぁ……その文様は、飾りだったか」
しずしずと、ネトナがオレガリオの傍らに立てば、銀色の血を溢れ出させる男は笑っていた。しかしその笑いに、ネトナは眉を寄せる。
「騙すつもりはなかったのだが……この剣は、魔法道具で間違いないぞ。文様も、意味のあるものだ……私は魔法がさっぱりだから、具体的なことは何一つわからないがな……お前も魔法にそこまで詳しくなかったようだな?」
「では、その剣には一体何の魔法がかかっているというのだ? どんな魔法道具だったというのだ?」
尋ねられ、ネトナはやはり片手で剣を掲げる。するとオレガリオは目を丸くした――ネトナの剣は、先程と比べて、いくらかぼろぼろになっていた。目立って刃こぼれしている。
「丈夫にするための魔法だ……それだけの魔法が、この剣にはかかっていた」
すなわち、ネトナの剣は『何をしても壊れない剣』という、魔法道具だった。他に特殊な力はない、それだけの魔法の道具。
それを聞いて、オレガリオはしばらくの間、きょとんとしていた。しかしようやく理解して、笑い声を漏らす――身体が震えているのは、笑いのためか、死の間際にあるからか。
「なるほど! その大きさ……振り回しすぎる、と、自重もあって刃こぼれ、しやすい、だけでなく……お前自身の力が、強すぎるから、か……!」
ごぼごぼと、まるで溺れているかのような声を出し始める。それでも彼は笑って、天を仰いでいた。
「おお……私の負けか。トリーツェン様、ゼナイダ様……申し訳ありません……」
しかしその銀色の瞳は――変わらずぎらぎらと燃えていたのだ。
「だが……『掃除屋』は、これだけの力ではない――」
――オレガリオの身体が、わずかに膨らんだ。小さな変化だったものの、気付いたネトナはとっさに身構えた。
次の瞬間、オレガリオの身体が銀色に爆発した。
すぐさまネトナは剣を盾にし、身を守った。まるで噴出する間欠泉に似た爆発で、銀色の血が蒸気となって辺りに散った。続いて、地面に転がる他の『掃除屋』達の身体も爆発し、銀色の蒸気に姿を変える。
全ての『掃除屋』の蒸気が集まれば、意思を持っているかのように、彼方へと飛んで行ってしまった。風に吹かれるようにではない。蛇のようにくねり、宙を滑って。
「あれは……まさか奴らの血か?」
唖然とネトナは、その銀色の雲にも似たそれの背を見つめる。
蠢く銀色が飛んでいったのは――街の奥。
……仲間に迫る危機を感じ、ネトナは走り出した。
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