第四章(11) デューに向かう
* * *
明るくなり始めた空の下。ゼフタルクの街は半壊してしまっていた。戦いの中、地面は血に汚れ荒らされ、井戸は大きく欠けてしまっている。崩れた家畜小屋は静かで、燃え落ちた家々ではまだ火がくすぶっている。けれども惨劇の臭いを、谷の奥から流れてくるような透き通った風が拭っていく。風は霧を谷に残し、壊された門を通り抜け、荒れ果てた街の中を駆け、そして外へ避難し待機していた人々を包む。
『死体』が突然倒れて、それこそ死体であるかのように動かなくなった。二度と動かない。夜明けの気配が迫る薄明かりの中、武器を手放した影を見て、『聖域守』達は戦いに勝利したことを悟った――あの怪物を倒せたのだ。ようやく勝ち得た勝利に声を上げる者がいれば、安心したように座り込み涙ぐむ者もいる。だが武器を手にしたまま、失った仲間達を見つめる者の姿もあった。それでも街の外に避難した者達へ、全てが終わったことを告げに向かう。そして谷で何があったのか、確認しに走る者もいる。
身体中が痛みに蝕まれ、言葉にできない疲労が心臓を締めつけている。しかしパウはそれでも身体が軽く思え、街の中を進んでいた。
「――おい! 魔術師さん! これは、一体……あの怪物は、死んだのか!」
ミラーカをつれて早足で歩いているところを『聖域守』の一人に捕まる。
「なあ……トーガさんは? ほかの仲間は、無事なのか……? 谷にまだいるのか……?」
「――トーガは最期まで戦った」
パウは彼を一瞥して短く答えた。それから一瞬口を閉ざしたが、
「エルヴァはどうしようもなかったんだ。後戻りもできなくなっていた」
裏切った彼の心の奥底まではわからない。ただそこに至るまでに、彼が絶望し、そして恐怖したのは確かだろう。
彼はもがいていたのだ。裏切りたくて裏切ったわけではなく、ただ必死だった。
そう思えた。彼は謝っていたから。
彼は自分が崖から落ちかけた際、迷わず手を伸ばしてくれたから。
――それでも恐怖から逃げるために、必死で。
そう思うと、自分と彼が、少し似ていたのかもしれない気がした。
自分も、もがいていたから。もがいて、落ちていっていたから。
けれどももう、底へたどり着いた。
底にたどり着けば、立つことができる。
「お、おい! 待って! 待ってくれって! ていうかあんなそんなにぼろぼろで……どこに行くつもりなんだ!」
伝えることだけを伝えて、パウは街の外へ歩き出す。しかし『聖域守』の彼は外までついてきて声を上げ、そこに避難していた戦えない住民達の視線が集中する。戦いに勝利したことが告げられていたのか、彼らの表情には安堵した様子が見える。だがパウと男が騒いでいるのを聞きつけ、戸惑っていた。
「俺は、急いで向かわなくちゃいけない場所がある」
パウは杖をとんとついて、振り返った。
「けれどもその前に、手当てした方がいいって……」
「そんな暇もないんだ……聖域は取り戻した。皆を弔ってくれ……俺は、行かないと」
それからはもう振り返らず歩き出す。
だが、立ち塞がったのは一人の女だった。
パウは少し驚いて立ち止まってしまった。女は『聖域守』ではなく、街の住人で、いまはここに避難してきていた者の一人のように思えた。毅然とした態度でパウを見つめる瞳はどこか睨みつけているかのようで、突然手に押しつけるようにして、紙袋を渡してきた。
「よくわからないけど、持って行きなさい。そんな状態でどこかに行こうなんて、そりゃあ止めたいけど……あんたの目、何言っても止まらない『聖域守』達に似ているわ」
戸惑いながらもパウが丸まっている紙袋をほどけば、中にパンが見えた。もしかすると、女は長く街を離れることを覚悟していたのかもしれない、長期保存に向いているのであろう、堅そうなパンだった。
「せめて何か食べて、体力をつけておきなさい」
思い出す。ずっと何も食べていなかったことを。
「……ありがとう」
礼を言って、パウは歩き始めた。空の端が、ついに赤みがかってくる。
* * *
太陽が昇る。
血のように赤々とし始めた空に、雲は黒い影となる。
一人歩くパウの影も、赤い世界の中、黒々と闇のように深くなる。紫色のマントは赤みを帯びる。黒髪も赤色に返す。
だが青い蝶だけは、その色以外を纏わない。
鮮やかさのない、しなびたような草と灌木が生える荒野を、パウは杖をついて歩いていく。
突として足の力が抜けて、頽れるように前に倒れた。すぐに起き上がろうとするが、身体が思うように動かない。
「パウ」
ミラーカが心配そうに目の前の地面に降りる。パウはやっとの思いで立ち上がれば、無表情のままさらに進んで、再び潰れるように転ぶ。
「少しは休んだら?」
今度は目の前に、黒い入れ墨で覆われたような素足が見えた。ミラーカが長い髪を風になびかせ見下ろしている。
「行かなくちゃいけない場所があるんだ」
パウは地面に這いつくばって彼女を見上げる。するとミラーカはしゃがみ込んで溜息を吐いた。
「パウ、あなたはやると決めたらすぐに行動を起こしてまっすぐ進むタイプだってわかっていたけど、それだと後に響くかもしれないわよ? そうなると、私も困るのよ?」
――また少し歩いたところで、パウは岩に腰を下ろした。
ゼフタルクはもう、岩山の影に隠れて見えなくなってしまった。無意識であるかのようにパウが焚き火を起こせば、その焚き火を挟んで、パウの正面にミラーカが座った。
思い出して、パウは荷物に突っ込んだ紙袋を取り出す。突っ込んだ際にさらにくしゃくしゃになってしまったその中で、パンはそのままの姿であった。
ひどい空腹が沸き上がる。パンを取り出して噛みつく。
堅いパンに、少ない唾液が吸われて口の中が渇く。ぶちぶちと引きちぎるようにして口の中に入れて咀嚼するものの、堅く、弾力があるかのようで噛みきれない。それでも行程を終えたと言わんばかりに、飲み込む。しかし久しぶりの食べ物に内臓が拒絶を起こしたのか、パウは吐きそうになって嗚咽をもらした。だがさらにパンに噛みつき、吐き気すらも飲み込むかのように胃の奥に沈め込む。
生きるということは、そういうことであるような気がした。
「それで、何を考えているの?」
ミラーカが足を組んで尋ねる。パウは水筒を大きく傾けて、さらに吐き気を奥へ流し込む。少し、落ち着いてきた気がした。
「デューに向かう。だから、ポルト・イエーラを目指す」
フィオロウス国、その大陸の南東にある島。『虹の風』地方。魔術文明都市デュー。
向かうには、大陸中央地方『黄の蜜』にある大都市ポルト・イエーラから出ている魔力翼船に乗る必要があった。
「『天の金陽』、『天の銀星』に会って全てを話す」
『天の金陽』とは魔術師の長。『天の銀星』とは魔術師の長の下に位置する二人の魔術師の呼び名。
「彼らが『遠き日の霜』だったとしても……彼ら以外の、信頼できる人を探そうと思う」
『遠き日の霜』が誰であるかわからないからこそ、デューには近づけなかった。
それでも。
「急にどうしたの?」
ミラーカは首を傾げて、まるで予想外の動きをするおもちゃを眺めるかのように笑っている。
「もう自分一人で足掻いても無駄だってわかった。それに俺は……無力で、愚かだったから」
答えた声はひどく落ち着いていて、パウ自身でも少し驚いた。
それでも、認めたのだ。
いまの自分自身を。
ただ抵抗するように足掻いていた。足掻いて勝手に沈んでいった。
けれどももう、目が覚めた。
――人々を救いたかった。そのために魔術師になった。
――自分の過ちを、取り返そうとした。
――「ありがとう」を言われるような人間ではないのだ。
「デューには敵がいるかもしれないだけじゃないわ、全て話したら、あなたは何かしらの罰を与えられるかもしれないわよ?」
怖くないのか、と、少女の幻は挑発的に尋ねる。
「あなたは罰せられることではなく、自分自身が悪と言われることを嫌った……それでも、いいの?」
「覚悟ができたんだ」
諦めに近いかもしれないけれども。
と、ミラーカは笑みを消した。
「私のことも、話すつもり?」
目の前から彼女が消える。かと思えば隣にいて、パウの手を取っていた。
触れるのは、小指。
「まさかそれで厄介払いしようと思っていないわよね?」
「そんなことは思っていない」
小指は確かにそこにある。だが切り落とされた痛みは、過去に刻みつけられている。
「場合によっては、お前のことは伏せる……もしお前についてばれたり、お前を連れていかれそうになったのなら……俺はお前を連れて逃げる」
そもそもデューが自分を拘束、危害を加えようならば、パウはすぐに逃げるつもりだった。
危険を感じれば、何としてでも逃げ出す。そうしなければ、目的を果たせないから。
「……結局逃げるのね」
そっとミラーカの手が離れた。
パウは隣に並ぶ彼女の青い瞳を見据える。
「伝えるべきこと、教えるべきことは言うさ。敵の存在や、グレゴが何であるのかも……そして俺が何をしたのかも」
片方しか視力のない赤い瞳。青色が反射する。
「……デューに行くのは危険かもしれない。けど、何かあったときは、俺が守る」
命に代えてでも。
ミラーカは不思議そうな顔をしていた。その瞳から、あたかも全てを見透かしているかのような光が薄れる。
やがて瞼をおろし、深く溜息をついた。風に遊ばれる髪を耳にかけて小首を傾げる。
「ま、どう転ぶかはわからないけど、答えが出てよかったわね? そうと決まれば、都合が悪くなった際に手伝ってあげるわよ?」
開いた瞳には底知れない深淵を湛えた光が戻っていた。
――飢えと、復讐の深淵。
「私はあなたに、全てのグレゴを食べさせてもらわなくちゃいけないの。そしてベラーに復讐しなくちゃいけないの。最後には……あなたに知ってもらわなくてはいけないの……私の想いを。私の怒りを。私の恨みを。私の苦痛を。私の絶望を」
首に絡みつくかのような言葉。
「約束したでしょう? 何か問題があって果たせないなんて、言わせないわよ」
「わかってるさ」
受け止めなくてはいけないものだと、わかっている。
……そうしてパウは、言葉通りポルト・イエーラに向かった。
だが何日待っても、デューとこの街を結んでいる魔力翼船は、姿を現さなかった。デューから帰ってこないまま。
――デューが陥落した。
パウがそのことを知ったのは、その最悪の事態の可能性を考え始めた頃だった。
【第四章 暁闇を歩む影 終】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます