第四章(10) 俺がもっとちゃんとしていれば
エルヴァの槍の切っ先が、パウへと向けられる。すぐにパウは向き合えなかった。尻餅をついたまま、愕然と彼を見る。
近くを漂っていた『死体』が、隙を衝かんとばかりに、パウへナイフを突きだした。肌で空気の流れを感じ取り、パウは転がって避ける。そこへエルヴァが跳躍した。
穂先の輝きはひどく震えていた。瞬間移動魔法を使う余裕は残っていない。パウはそのまま転がり続けて、槍を避ける。けれども直後に蹴りが飛んできて、腹に入った。
空気を吐き出して痛みに悶える。だが敵を見なくとも、パウは光球を放った。
追い打ちをかけようとしていたエルヴァは立ち止まり、まるで鳥のように襲いかかってきた光球を槍で払う。いくらかは身体に当たり爆ぜ、彼はふらつく。しかし槍を落とさず、膝をつくこともない。
とにかく動きを止めなくては。パウは必死に身体を起こすものの、そこへまた『死体』の一人が矢を放ってくる。避けることができなかった。一本が肩近くの背中に刺さり、膝をついてしまう。
そして目の前に突き出される、槍の先。
反射的に瞬間移動魔法を使って避けた。横に移動しただけだが、少ない魔力での無理矢理の移動は、全身が砕けるかのような痛みを伴い、パウは嗚咽を漏らしてその場に伏せてしまった。
エルヴァは容赦しない。その異常に怯えた表情に似合わず。
「死ねぇっ!」
ところが、パウはぶんと杖を振って槍を弾いた。手が痺れる。そして弾かれるも全くふらついていないエルヴァは再び切っ先を突き出すものの、その腕、手は震えていて、パウの片目は槍の先端をしっかりと捉えた。わずかに身体を動かして避ける。そして魔力波を放って、エルヴァを吹き飛ばす。
魔力の波がエルヴァの身体に襲いかかる。地面に転がった身体に、パウはさらに数が少ないながらも光球いくつかと、細い水晶一つを放った。光球は標的に食らいつく。そして細長い水晶はエルヴァの槍を握る腕に突き刺さった。槍を手放すのが見える。痛みに悶えるエルヴァには、起き上がれそうな様子はない。
パウは、再び魔法陣を構えるものの、とどめを刺せなかった。
冷静になれと言い聞かせる。あれで十分だ、これ以上は死なせてしまうかもしれない、と。死なせるわけにはいかない、悪人でも、裏切り者でも。
エルヴァはもういい。次はグレゴを。
そうパウがグレゴへ身体を向けようとしたときに、またしても『死体』が襲いかかってきた。振り上げられたままに下ろされる刃。ふらつくようにして避けて炎を放てば『死体』は燃える。胸の光が砕け散る。けれどもまだ「死体」はいる。きりがない。
パウは一瞬見たグレゴのそばで、まだ息のあるトーガが地面を這っているのを捉えた。執念にぎらついた瞳を、グレゴの角へ向けている。グレゴは気付いていない様子で、苛立ちの鳴き声を上げ続けていた。と、角が光り出す。光が一つ、放たれる。
――トーガが!
だがグレゴはトーガに向けて飛ばしたわけではなかった。
光が落ちる先に、エルヴァの姿があった。
全身を縛る痛みに悶えていたエルヴァが目を見開く。光にその瞳、その表情が照らされ、恐怖にひきつる。身体を無理矢理に動かして光を避けようとしたが――光は胸に吸い寄せられるように落ちた。
かつて、ああはなりたくない、と彼は言っていた。
「何でっ……! どうして……!」
肌が裂け血が出るほどに彼は胸をかきむしっていた。しかし沈み込んだ光は埋もれて動かない。
「俺だけはっ、俺だけは助けてくれって……!」
用済み。そういうことだろう。
エルヴァの悲鳴が濁り始める。瞳も奇妙な光を帯び始める。
痛みを無視され起き上がらされる。槍を握らされる。
絶望に大きく開いた目から、溢れんばかりの涙がこぼれていた。
「だっれか……たす、けて……! いや、っだ……!」
そして彼は、先程よりも機敏な動きでパウに襲いかかった。槍の先はもう震えていない。恐怖はどこにもない。
パウは迎撃できなかった。盾を生み出し、突き出された穂先を受け止める。
魔力の盾の向こう。エルヴァは絶望の表情をさらに歪ませていた。顔は涙と汗、涎で乱れてしまっている。
「たすっ、けて……どうし、て……!」
――それが怖かったのだ。
どうしたら、助けられる。
光に魂を食われつつあるエルヴァは、一度槍を引いたかと思えば、横に凪いだ。盾が消える、パウの身体は払われるままに吹っ飛ぶ。それを追って、エルヴァが跳ねる。
穂先はパウの胸を狙っていた。
――直前に、耳をつんざくようなグレゴの悲鳴が響いた。
トーガ。グレゴの足下までたどり着いた彼が、敵の足の一本に剣を食い込ませていた。
主が奇襲を受けたためだろう、周囲の『死体』達が、まるで操りの糸が緩んだかのようにぐらりと揺らめいた。それはエルヴァも同じで、パウの心臓を狙っていた穂先が大きく揺れてずれて、パウの頭の横の地面に突き刺さった。
そして死を覚悟して杖を両手で握っていたパウは。
……魔法を放つ余裕はなかった。
ただその時、自分に迫る危機だけを、肌から血へ、魂へ感じていた。
――無意識下の本能が、剣を抜いた。
死への抵抗。生への渇望。
……歩行の補助のための杖を選ぶ際、護身用にと、刃の仕込まれたものを選んだ。
ほとんど使うことがなかったその刃は、星の光のように美しかった。
エルヴァの胸に、突き刺さる。光を砕く――血に塗れる。
瞬きをして我に返る。エルヴァの胸から血が溢れ出し、刃を染めた。そのまま、パウの手すらも染めていく。
血の鮮やかさは、拭っても落ちそうにないほど眩しかった。その熱さもあり、入れ墨のように肌に刻み込まれていくような感覚がある。
自分の手が汚れてくのを、パウは唖然として見ていた。目に焼きつく、その眩しさ。
かはっ、と血を吐かれると、顔にも血が飛んだ。
見上げれば、エルヴァが泣き疲れたかのような表情で見下ろしていた。
「ごめん、なさい……」
もうそこに、怯えた様子も苦しむ様子もなくて。
「――ありがとう」
どうしてそう、安堵したような表情を浮かべられるのだろうか。
ずるりと、エルヴァが体重の全てを預けてきて、パウに覆い被さった。
血に溶けた体温が、染み込んでくる。
ありがとう、なんて。
重さを感じる。血の熱さと、冷えていく命が突き刺さる。
ありがとう、なんて。
――反射的に刺してしまった。殺してしまった。
殺したくなかったのに。
どんな形であれ、殺すことは――悪だと思っていたから。
だからこれまで、殺すことを避けてきた。嫌悪してきた。
それだけではない。
――ありがとう。
あまりにも。
あまりにも自分には、ふさわしくない言葉だった。
何故なら。
――俺がもっとちゃんとしていれば。
もし、自分がグレゴ研究所の真実に早く気付いていたのなら。
……こうなることは、なかったのだ。
エルヴァの血に、焼かれる。
いままでずっと押さえ込んできたものが溢れ出して、その熱に混じった。
思う。どうして自分は、こうも愚かで、無力なのだろう、と。
必死に足掻いたところで、起きたことは変わらないというのに。
臆病者、と言われた。
全てを受け止めるつもりで――目を瞑っていた。
赤く染まった手が、全てを物語っているかのようだった。
空を見上げて、パウはただ、放心していた。
……しかし。
しかしまだ、終わっていない――。
仕込み杖の剣を、エルヴァの身体から抜いた。すると、人間とは血肉の袋であるとでもいうように、より血が溢れ出てパウを染めた。
自分が纏った罪を露わにされる。
エルヴァの身体を横たえて、杖の刃を戻し、立ち上がる。
瀕死のトーガがグレゴと戦っているのが見えた。あの大怪我、立っていられるはずがないにもかかわらず、彼は戦い続けている。自分の信念に従って。
自分の周りに『死体』が群がり始めたが、パウは炎を生み出し一掃した。魔力の酷使で消耗し弱っていたはずなのに、いまは不思議と何とも感じられなかった。魂が削れていくのだけはわかったが、それでもよかった。
「……パウ」
慰めるかのような声が聞こえる。
「そんな風に呼ばないでくれ」
けれどもミラーカはパウの肩にとまった。そのとたん、魔法の炎がより一層大きく燃え上がった。枝分かれし、蔓のようにグレゴの身体を縛り上げる。
燃え上がりながらグレゴは抜け出そうと抵抗する。だが全身は灼熱に包まれていく。それでも角だけは燃えない――そこに全てを詰め込んでいるのかもしれない。
炎を厭わず、トーガがグレゴの背に乗った。
進化したグレゴ。人間の死体を駒として扱うようになった怪物。
だがその代償か、グレゴ自体は、強くはない存在らしかった。そもそも、兵を周りに侍らし自分を守っていたのだ、なかなか前線に出てこなかったのも、弱さを自覚していたためかもしれない。
背から頭に到達したトーガが、剣を振り下ろす。その角に向かって。
断末魔かと思うほどの悲鳴が上がった。その勢いに炎の縄は振り払われ、トーガも振り下ろされる。だがごとん、と漆黒の血とともに落ちたものがあった――グレゴの角。
周囲で揺れていた『死体』達の胸の光が、明滅して消えた。彼らはくずおれていく。死んでも握らされ続けていた武器を手放し、一人、また一人と潰れるように物に戻っていく。
全身を焼かれ、また角も折られたグレゴは、自身から溢れ出た腐敗臭のする血の海の中、ひくひくと動いていた。
ミラーカが待っていた時だった。青い蝶は夜の闇と霧を割るように羽ばたいていく。
根元だけになった角にとまれば、その足が血に汚れた。ミラーカが止まった瞬間、グレゴは震え上がり、その弾みで散った血が青い羽を汚した。
しかしたちまち消え失せ、青さは輝く。そしてグレゴの身体が溶け始める。腐り落ちる。海となっていた血が蒸発する。
……跡には焦げたような黒い染みと、腐ったような臭いだけが残された。蝶は踊るかのように宙に舞い上がった。
* * *
トーガは仰向けに倒れていた。まだ生きていた。
空はかすかに明るくなってきていた。谷に漂う霧が、白さを増していく。
パウはグレゴの乾いた血の海を歩いた先で、トーガを見つけた。
「……何故、泣いている?」
パウが呆然と見下ろしていると、トーガが笑った。
彼が手遅れなのは、誰が見てもわかる状態だった。
パウは何も答えず、だからといって、頬を伝う涙を拭うこともなかった。
「……どんな方法かわからないが、あの怪物は、死んだんだな?」
風があたりに漂う腐臭と血の臭いを薄めていく。
惨劇が起きたことは、なくならない。
「ありがとう」
ああ。
また「ありがとう」だなんて。
「……そう言われる、資格がないんだ」
ようやくパウは口を開いた。
手は血塗れのまま。エルヴァの血。
――しかしその前から、この手は汚れてしまっていた。
「俺は……愚かで、無力だった」
やっと認められる。
「目が、覚めた気がするんだ」
けれどもここまで追いつめられて認められるなんて、自分がさらに愚かに思えた。
「だから最期に聞いてくれ……全部俺が悪いんだ」
道を間違い続けていた。汚れた手で収集をつけようにも、汚れが広がるだけだった。
「俺は責められるべきなんだ……それほどのことをしたんだ」
しかし、トーガは微笑んでいた。
「……よくわからないな。だが……お前はあの怪物を退治してくれたんだ。谷を、取り返してくれたんだ」
最期の呼吸で、彼は繰り返す。
「ありがとう」
残されたパウはただぼろぼろと泣いていた。
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