第四章(06) 今度こそ、あの怪物を倒すんだから、な
* * *
トーガの言った道は、谷底から高い位置にある段だった。幅は人一人が歩ける程度。気をつければ問題なく歩けるものの、足を踏み外せば、霧でぼんやりとして見える底に間違いなく叩きつけられる。
運が悪ければ死ぬだろうといった高さだ。もっとも、落ちて無傷であっても、まるで川のように漂う霧の中には、腐敗臭を纏った影がいくつもいるのだが。
『死体』はこちらに気付いていないようだった。『聖域守』達は無言で足を進めていく。踏み出して崖がぽろぽろと崩れ小石が転がると、動きを止める。落ちていった欠片は霧に沈んでいく。そして『死体』達が無反応であることに胸を撫で下ろせば、また険しく不安定な道を進んでいく。
『聖域守』全員がこの奇襲に参加しているわけではない。何せ道は細く狭く危険。トーガは最低限の人数を連れて、谷の奥地へ向かっていく。
急に険しくなる勾配。パウも『聖域守』達に混じって、杖をつきながら進む――はっきりいって、厳しかった。この不自由な身体、慣れたとはいっても、思うように動くようになった、元のように動くようになったというのとは、話が違う。ましてや共に進むのは戦士達、鍛え方が違う。が、軟弱な自分を隠すように――周囲はパウが明らかに無理しているのにもちろん気付いていたが――黙々と歩いていく。
がつ、と削るようについた杖。ぐらりと揺れた。ふらついて支えきれなかったのだ。
「おおっと」
倒れそうになるものの、パウの腕を掴んで支えたのは、先を歩くエルヴァだった。
「大丈夫か? あんた、なんか身体ぼろぼろだし、俺達と違ってそう体力もなさそうだしなぁ……無理すんなよ」
人懐こい笑顔に、どこか子供っぽさを感じる。ほかの『聖域守』と比べて細く小柄なエルヴァには、鍛えた筋肉も育てた体力もなさそうに見える。しかしちっとも疲れていない様子から、彼も間違いなく『聖域守』なのだとパウは痛感した。聞いた話によると、今朝谷の様子を探りに行った者の一人が、エルヴァなのだという。身軽で体力もあるのだろう。
魔術師だから、身体を鍛える必要はない……というわけではない。戦いに出向くこともあるのだから、怠るべきではなかったな、と今更ながら思う。もしそうであったのなら、この怪我でも、いまよりもっとましに動くことができただろう。額の汗を拭う。
「休憩するか? 戦う時に、あんたがへばってたら、困るし……トーガに言うぜ?」
迷惑をかけたくなくてパウは頭を横に振る。むしろ立ち止まっていると余計に疲れてしまいそうだ。谷の底を見れば『死体』が水底の海草のごとく揺れているのだから。
見ているだけでも、自分自身に苛立ちを感じる。もどかしさに叫びたくなる。だが何ができるというのか。
「ああはなりたくないねぇ」
谷底を眺めていると、エルヴァも霧の中に目を向ける。瞳が遠くを捉えて、実体のある亡霊の一人を指さす。
「あれ、前に一緒に谷を調べに行った仲間だ……先輩でね、いろいろ教えてくれたんだ」
歳は自分やエルヴァより少し上だろうか。肌に人間らしさはもう残っていない。服もぼろ切れと化していて、胸に刺さった光だけが生き生きとしている。
「今朝みたいに、谷の様子を調べに行ってさ……俺と、数人しか戻れなかった」
その数人ももう……。と彼は続ける。笑顔を張り付けたまま。
「ま、こんな暗い話は、もういいか……今度こそ、あの怪物を倒すんだから、な」
そう彼が頭の後ろで手を組んだ時だった。エルヴァの腹が、空っぽに鳴き声をあげた。
「おおう……はは、朝早くから動いてるもんで」
エルヴァは顔を赤くして、ごまかしの笑みを浮かべる。パウが戸惑っていると、彼は一瞬ちらりと視線をよそに投げて、耳打ちしてくる。
「なあ、休憩したいって、言ってくんない? 俺が言うとトーガになんか言われそうだし」
「……素直に腹が減ったって言えばいいんじゃないのか? 朝早くから動いてるのなら、わかってもらえるんじゃないのか?」
「いやぁ、それが、言いにくいじゃん? お前それでも『聖域守』なのかって、言われそうだし……」
「――エルヴァ、全部聞こえてるぞ」
前から声が飛んで来た。何人かを挟んで先頭を歩くトーガが振り返っていた。全てを聞いていた仲間も、声を抑えて笑っている。
「お前それでも『聖域守』なのか?」
言ったのはトーガではなく『聖域守』の一人。からかうようにエルヴァを肘で小突く。
足を踏み外せば、まさに死が待っていた。けれどもこの細く険しい道で、皆、希望に向かって進んでいた。
トーガが後方まで見通して、溜息を吐く。
「今回は慎重に行かなければいけない、万全の状態で挑むべきだ……このあたりで小休憩をしよう……エルヴァ、お前のためじゃないぞ」
伝達される指示に、皆の表情が少し和らいだ。けれどもすぐに引き締まる。これからの戦いのための休息だと、浮かれることはない。座る者、水筒や食料を取り出す者はもちろん、改めて己の武器の調子を確認する者もいる。
パウも座り込めば、汗で頬に張りついた髪を耳にかけた。眼鏡が汚れているのにも気付いて、服の裾で拭う。ミラーカはパウが地面に横たえた杖にとまっていた。
隣を見れば、エルヴァが命を懸けた戦いに向かっているとは思えない様子で、嬉しそうにビスケットを取り出していた。
「腹ごしらえはやっぱり大事だよなぁ」
「それを怠ったのはどこのどいつだ」
野次が飛んでくる。エルヴァが目を据わらせてそちらを睨む。
「時間がなかったんだよ」
のんきな彼を、パウは息を整えながら眺めていた。すると視線に気付いたのかエルヴァが袋から新しいビスケットを取り出す。
「食べるか? そういやあんた、なんか顔色悪いね」
「食べない……」
ビスケットを見ても、食欲はわかない。あんなにも汗をかいて疲弊しながら歩いてきたのに、どうも水も飲みたくない。せめて水分くらいはとっておかないと、とはわかっているものの、まだ飲める気がしないのだ。
ここから動く時には、一口ぐらいは飲もうと思って、霧の中に瞳を向ける。疲労とその霧の柔らかそうな白色に、とろとろと微睡みを覚え始める。食欲はないが、眠気はある。
目を瞑ってしまいたい。しかしそうしたところで、瞼の裏まで蝶の青さが追ってくるのだろうけれども。
「あんた、ちゃんと食べてる?」
エルヴァは察したようだった。パウは言葉を発さず、少しして頭を横に振る。
「……わかった、魔術師だから、そんなに食べなくても問題ないとか?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあ……食欲、ないのか?」
「昨日あんなものを見たから」
うっかり答えてしまうと、エルヴァはきょとんとしていた。話が聞こえていたのだろう、トーガも少し拍子抜けしたような、呆れの滲む顔をしていた。
パウはそれ以上何も言わなかった。こうなるに至った原因が自分にあるとはもちろん言えない上に――もう助けられないからと、光が刺さってしまった仲間を、敵の手駒になる前に殺さなくてはいけないなんて、考えたくない。
そうならないように、グレゴの光から『聖域守』達を守るのが、今回のやるべき事だ。
失敗しなければいい――たとえ失敗しても。ほかの誰かが、殺してくれる。
――そう思った自分に、歯ぎしりをする。
偽善者め。
ふわり、と何の前触れもなく、青い光が泡のように浮き上がる。ミラーカが突然、上昇し始めた。休憩は終わりか、とパウが呆然と見上げていると。
「あっちが奇襲を仕掛けてくる」
汚れを知らないような、少女の声。気付いてエルヴァが見上げる。
「えっ、いまのって……この使い魔の声? 喋るのか? へえ!」
のんきすぎる声は、突然の警告を理解しない。そしてパウも、あまりにも突然のことに、すぐに理解できなかった。いまのが白昼夢であるかのように上空を見つめる。霧で覆われた空は白く、そこにぼんやりと黒い影を見た。霧の白さの中、妙な眩しさを感じる。
「――あいつだ!」
姿を確認する前に、パウは声を響かせた。手を上空に向けて水晶を放てば、いままさに降り注ごうとしていた光を貫いていく。黒い影が近づいて来る、輪郭を得ていく。あの角のある奇妙なグレゴの姿が現れる。
休憩をしていた『聖域守』達は騒然とする。弓を手にした者は、冷静に上空のグレゴを狙って矢を放つ。しかしグレゴは宙でくるくると矢を避ければ、谷の壁に張り付くように進んでいた一向に突っ込んでくる。
悲鳴。崖が崩れて、岩や土塊が落下していく。そこには飛べない鳥のように手足をばたつかせる『聖域守』達の姿もあって、谷底に居座る霧に呑まれていく。そして底で群がるのは黒い影。先程までは亡霊のようであったのに、飢えた獣のごとく落ちた生者へ集まる。
グレゴは宙で旋回すれば再び突っ込んでくる。戦士達には逃げ場がない。慌てて前へ後ろへ逃げようにも、仲間にぶつかり絡まり落ちていく。そうでなくとも、崖を崩されて落下していく。
体当たりの最中にも、グレゴは光を放ってくる。パウは慌てて魔法を放つものの、一列になった隊は長く、遠くまでは守れない。ついに一人の胸に光が刺さった。並ぶ仲間達があっと声を上げるものの、光を受けてしまった仲間はがくがくと身体を震わせる。武器を握る手に力が入る。しかし彼は次の瞬間、自ら宙に足を踏み出し、落下していった。反射的に仲間が手を伸ばしたが、服の裾も掴めなかった。
また一人に光が刺さった。その者は飛び降りることをためらった。だから隣にいた仲間が、謝りながら背を押した。長さのある武器を振るうには狭い道。そしてここで光を砕いても、遺体を回収するのは難しい。そうやって殺すほかなかった。
それをパウはしっかりと見ていた。片方しか見えない赤い瞳。焼きつく、刻まれる。
「先に急げ!」
トーガの声。
「洞穴があるはずだ! そこに逃げ込むぞ! ここでは戦えない!」
生き残り達が急いで走り出す。その間にもグレゴは体当たりを繰り返し光も放ってくる。パウは振り返れば、また水晶を放って光を打ち抜く。一つ、二つ。三つ、四つ、そして五つ。守らなくてはいけない。これ以上死人を出すわけにはいかない。
と、グレゴがこちらに突っ込んできた。慌ててパウは前に飛び込む。そのおかげでひとまずは助かったが、グレゴの体当たりを受けて削れて震えた崖、真後ろを進んでいた『聖域守』が落ちていった。しかし振り返る余裕もない。飛び込んだパウは、着地はできなかった。崖を一瞬掴めたものの、手は滑る。宙にぶら下がった身体は、重力に抗えない。
その手を、エルヴァが両手で掴んだ。ぐいと引き上げて、身体が地面にあげられる。
「ほら! はやく立って!」
エルヴァは手を離さない。無理矢理でもパウを立たせ、先へと急ぐ。
少し走った先、先頭のトーガが壁を指さしていた。
「早く! ここに!」
壁に亀裂が入っていて、洞穴となっていた。生き残り達はそこへ入り込んでいく。エルヴァに手をひかれるパウは、その前でエルヴァの手を払うと、一人トーガの前に立った。そしてまた魔法でグレゴの光を防いでいく。
グレゴはどうやら、生き残りが洞穴に逃げ込んでいることに気付いていないようだった。まるで猫が獲物で遊ぶかのように『聖域守』達を落とし、気まぐれに光を放つ。
光はやはり、防ぎきれない。また一人が光を受けてしまって、けれども彼は倒れてそのまま転がるようにして落ちていった。光から逃れたものの、慌てて走るものだから、足を踏み外して落ちていく者の姿も見た。そしてグレゴに体当たりされ、落ちていく者も見た。
パウの魔法が、揺らぎ始める。悪夢を前に、魔法陣を構えた手が震える。
「彼が最後尾だ!」
それでもトーガが声を上げてくれた。直後にパウはトーガに背を押されて、洞穴に転がり込む。そしてトーガも最後に入り込む。
洞穴に扉はもちろんない。とっさにパウは、水の力を帯びた魔法を放った。水の力を纏った波が放たれ、その光は粒子となって霧となる。外の霧は濃さを増す。
「何をしている?」
トーガに尋ねられる。
「霧を濃くしてここを隠した……何もしないよりましなはずだ」
まるで白い壁のような霧。向こうには影も光も見えない。しかし霧は蠢いている。向こうに何かがいる。獣のような声も下から聞こえてくる。『死体』達の言葉を失った声だ。
静かになるまで、霧の動きが落ち着くまで、生き残り達は息を殺して洞穴の入り口を見ていた。万が一に備えて、手にはそれぞれの武器。だがここに攻め込まれてしまえば、ここが墓場になると、誰もが覚悟していた。
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