第四章(05) 俺はどうしたらいい
* * *
『聖域守』の本部に空き部屋があるから、そこを使ってくれと言われた。
パウは断って、宿屋の一室を借りた。
本部の方が何かと便利であるし、費用もかからない。それでもパウが『聖域守』達から離れたかった理由は、静かな場所を求めただけではなかった。
――部屋を飛び出し、宿屋を飛び出し、ウサギのように茂みに飛び込んだパウは、そこで身を丸めた。両膝をつけば土に汚れた。手をつけば草が潰して汁に濡れた。けれども気にする余裕はなく、頭を打ち付けるようにしてうずくまれば、吐く。
殺し合う人々の姿が脳裏に焼きついて離れない。
死体を燃やす炎は、もう消えたというのに未だに眩しい。
ひゅう、と喉を慣らして顔を上げる。さかのぼった胃液の跡に、身体の内側は痙攣しているようだった。気持ちの悪い汗は夜に撫でられ、嘲笑うように体温を奪っていく。
それでも残る吐き気。整わない呼吸。心臓を締めるのは罪悪感。
まるで醜く死ねと言われているようだ。ぼうっと吐瀉物を見れば、胃液だけしかない。食べてもいないのに、吐くなんて。
せき込めば鼻の奥も焼けるような感覚があって、それでもしばらくの間、無力に座り込んでいると、吐き気と呼吸は落ち着いてくる。それがどこか、悔しい。
体調こそ落ち着いてくるものの、解放されることはないのだ。
……何を考えているのだろうか。そんな資格はないというのに。
口を拭って、パウは立ち上がった。今の自分に嫌気がさす。より許せなくなる。
やることを、やらねば。
身体に気怠さは残っていた。だがここで倒れるのはさすがにまずい。身体を引きずるようにして、部屋へ戻っていった。簡単に汚れを落として、そこで力つきてベッドに倒れる。
そうであるのに、眠れる気がしないのだ。
だから考える。あのグレゴについて。それしかできない。
――グレゴが共食いをして進化した。
芋虫の時は、そんなことはなかったのに。
あの蠅化したグレゴは、本当に何であるのだろうか。
――そして『遠き日の霜』についても、よくわからない。
あれに関してはっきりわかるのは、魔術師至上主義の思想で動いていること、上位の魔術師達で構成されていることだけ。
――もしもあいつらが、あのグレゴを見つけたのなら。
ふと、パウはスキュティアのことを思い出した。
……利用価値を、見いだすだろう。
喉の渇きを感じた。しかしただの水であっても、飲みたくなかった。また吐いてしまうような気がしたのだ。
考えるのをやめればいいのだろうが、暗闇を見上げていては、やめることもできない。
暗闇はパウの視界を包んで、どこにも視線を向けさせない。溺れていく。
もし。
もし誰かに全てを話せたのなら。
そう考え、暗闇に浮かんだのは――殺意を持ったメオリの顔だった。
暗闇が蛇のように首を絞めた。もがきたくとも、身体の全てを縛っていて、動けない。
――言えない。
言ってしまったのなら、正しいことをしたかった自分とは、一体。
怖かった。
自分だって――自分だって、こんなにも頑張っているのに。
暗闇から聞こえた声は、自分の声。
憎くなって、パウは骨が砕けてしまいそうな勢いで歯ぎしりをしていた。
夜でも昼でも、この暗闇の中にいるのと同じ。
誰にも助けを求められない。下手にデューにも戻れない。
これ以上暗闇に沈まないようにもがくのに必死で。
――どうにもできないのなら、いっそその暗闇に潰されたい。
「――本当に臆病な人よね」
青白く輝く髪が、藤の花のように垂れていた。陶器のように白い顔にある瞳は、まるで水中から見る太陽のようで、けれども唇の赤だけははっきりと、そして人形のように艶やかに輝いている。
「だからといって、私はどうしろなんて言わないわ。でも……立ち止まることだけは、許さない」
ミラーカの唇が弧を描く。赤い三日月は耳に近づいてくる。
「パウ、あなたは私と約束をしたのだから。グレゴを食べさせてくれるって。ベラーも見つけ出すって」
右手に、冷たい指がリボンのように絡みついていた。小指を撫でる。
「そしてあなたは、私の道具なのだから」
横たわっていたはずのベッドが消えた。暗闇が青空に染まる。身体が浮く。囁きのような風が肌を撫で、髪で遊ぶ。
突然の光に目眩を覚える。腕はまるで糸につられているかのように勝手に動いて、パウがふわりと着地したのは、青い花が咲き誇る草原だった。
「踊りましょう、パウ。人形みたいに、ね」
ミラーカの黒色に染まった素足が眩しい黄緑色を踏めば、青い蝶が花咲くように舞う。花と同じ、奇妙な色と光を帯びた蝶。
世界にある全ての青色は、ミラーカの瞳と同じ。この世のものではない。
パウの腕と足は、意思に関係なく動いていた。身体の重さは、もうどこにも感じられない。浮いているかのようで、満足そうに微笑んでいるミラーカを見つめるほかなかった。
だが顔をわずかに歪めたのは、間違いなく自分の意思。
体の自由を奪われたことに対してはなかった。
――余計なことは考えるな、とでも言いたいのだろうか。
「少なくともね」
彼女はまさに、人形遊びをするかのように楽しそうな表情をしていた。瞳はどこか、飢えた肉食動物を彷彿させたが。
「どうにかしようとしているあなたの、そういうところは、好きよ」
彼女の華奢な足が、花の一つを踏みつぶす。花は青さを失って、もう起き上がらない。それでも風に吹かれ、震えていた。
「直視はしていないみたいだけど」
「……どうにもできなくても、どうにかするしかない」
パウの足も、その花を潰した。いよいよ花弁は醜い傷を纏って、地面に刻まれた。
あとは枯れるだけ。
「そうは言えるのに、いまの自分自身をまだ認められないのね?」
ぐい、とミラーカはパウに寄って見上げる。
「愚かだった自分を。全ての発端になった自分を。まるでそうじゃないって否定するみたいに、旅をはじめて……」
――正義感が強いからこそ……自分が認められないのね。責められでもしたら、それこそあなたは『悪』になる。
かつて彼女に言われた言葉。
ミラーカが背をそれば、細い身体は倒れそうになる。けれどもパウの手が、彼女を支えていた。風を纏うようにして足取りを新たに刻めば、くるりと舞って、パウの紫色のマントと、ミラーカの淡い青色を帯びたワンピースが羽のように広がる。
「私にとっては……都合がよかったけれどね」
綺麗すぎる夢だった。美しすぎる悪夢だった。
目覚めたくとも、起きられない。
「それだけじゃないわ。もう何人も死んでるのに、これ以上誰かが死ぬのは嫌だなんてね」
……そう思うことの、何が間違いだというのだろうか。
けれどもパウは、声が出なかった。ミラーカによるものではなかった。自分自身で、声を出せなくなっていた。それに気付いているのかいないのか、彼女は続けるのだ。
「もう自分一人の手で負えないこともわかっているのに。あなた、夢見がちよね。綺麗事ばかりというか、理想ばかりというか。なんにしても……傲慢だわ」
傲慢。
だが、もう、どうしたらいいのかわからないのだ。
花を踏んで、夢見心地をまた刻む。青色が散って、風に襲われ空に消えた。
「……俺にどうしてほしい」
誰かに道を照らしてほしかった。
「俺はどうしたらいい」
師匠に裏切られ、誰かを信じることも恐れはじめ、自分自身にも嫌悪を抱いて。
とたんに。
「――ああ、パウ。言ったでしょう。私は言わないって」
草原が波打った。緑は枯れ、花は燃えるように散った。空は割れて、亀裂からあふれ出した黒色が世界を染め上げる。
ミラーカの細い腕が離れた。黒い液体と化した草原に、パウは沈んでいく。
青く輝く彼女は、暗闇に浮いたまま。
「それに関してはあなたの問題よ……あなたって、本当に最低ね」
そういうところは嫌いなの。
彼女はもう微笑んでいない。
「他人に……それも私に委ねるべき判断じゃ、ないでしょう?」
黒い波がパウの身体をさらった。渦巻いて、底へ底へ、引きずり込む。
しかし底はあるのか、ないのか。
「あなたは多くのことから逃げてるわ……いつまで自分は正しいと思っているつもりなの? 口ではそうじゃないって言ってるくせに」
声が響く。刹那、思い出したように吐き気がこみ上げてきて、堪えきれずパウは真っ黒な何かを吐き出した。とっさに押さえようと思った手が、黒に染まった。
「……少し心配なのよ。私、あなたのこと、憎いけど、好きなところもあるんだから」
声はまさに少女のものだった。
「がっかりさせないでよ。壊れてもらったら困るのよ――」
最後の楽しみがなくなるじゃない。
どこまで落ちても、底にはたどり着けなかった。肌を染める黒色が、じわじわとさらに蝕んでいく。
あとは暗闇だけの悪夢だった。
* * *
「――二番隊によれば、あの怪物は今日も聖域の奥……聖堂周辺にいるらしい」
翌日。壁に貼りだした地図の一部を、トーガは指さす。
「向こうの兵力に、減っている様子はないという……昨日の襲撃で、また何人もの仲間がやられたからな……」
集まっている『聖域守』達は何も言わない。皆堪えるかのように口を噤んでいた。空気は爽やかな朝に似合わず張りつめていて、窓から差し込む日光が舞う埃を照らしている。
パウも椅子に腰をかけて地図を見つめていた。コーネ谷は、思ったよりも長いらしい。
「……今度またあの数に襲撃されたら、前線を維持できるかどうか、わからない」
トーガの顔に、焦りは見られなかった。凛として皆を見つめている。
けれども手には、ナイフを強く握っていた。
「あの怪物を倒したり、角をへし折ったりすれば……皆を解放できるかもしれないが、実際にそうなるかは、わからない」
地図の隣に張り出されている、あのグレゴのスケッチ。よく使い込んである古いナイフを、トーガは突き刺した。いくつもの戦いを仲間と共にくぐり抜けてきたナイフはまっすぐにグレゴを貫き、朝日を返した。
「何にせよ……あの数を相手にしながら、怪物のいる聖堂へたどり着くのは難しい。だからできる限り避けながら、あの怪物の元へ向かい、奇襲をかけようと思う……崖沿いの道を歩くんだ」
トーガの、何度も武器を握ってきた手。その指がするりと地図の崖を撫でる。
「避けるといっても敵地だ。進むのは簡単ではない。今まで以上に危険が伴う上に、崖の道は細く、険しい。慎重に行かなければならない」
「それで奥地に行って怪物と戦うといっても……袋小路では? もし何かあったなら……」
一人が声を上げた。
「それが敵地に乗り込むということだ」
トーガの声は淡々と響いた。彼はちらりとパウを見る。
「先程、魔術師パウと話した……もし怪物との戦いの際、死体が集まってきたのなら、彼が燃やして足止めをする。彼には主に、守りに力を注いでもらう。あの光も、できる限り防いでもらう……だから、怪物と戦うのは、我々だ」
『聖域守』を率いる男は、表情を変えない。
「勝てば生きて帰ることができる。負ければ、全て終わりだ」
鳥が飛んだ。部屋の中に影がよぎる。それでも消えることのない朝日は、祝福か、単に平等に人々を照らしているだけか。
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