第四章(03) 来ているのは、あの怪物ではないんだ

 * * *


「まさか旅の『千華の光』が来てくれるなんて」

 エルヴァに案内された部屋では、数人の男が広げた地図を中心に、何か話し合っていた。一人が会議中だ、と声を上げたものの、エルヴァが「『千華の光』が来てくれたんだ!」と声を響かせれば皆はざわついて、会議は一旦中止となった。

 そして部屋には『聖域守』のリーダーだという男トーガと、ミラーカを連れたパウだけが残った。

「エルヴァから少し話を聞いたそうだが……コーネ谷に、二体の巨大蠅が現れてな」

「……それで、一体は一度捕まえたって聞いたが」

 トーガは三十代後半と思える男だった。戦士らしい体つき、茶色の髪は短く、それよりも濃い色の瞳は、奥に鋭利なものを感じる――歴戦の男なのだろうと、パウは彼が纏う空気で感じた。

「ああ捕まえた。罠にかけて……だがその時まで、私達はまさか蠅がもう一体いるとは思っていなかったんだ」

 トーガは地図に描かれた谷の半ばを指さす。

「突然現れた二体目の蠅が、捕まえた一体目を……食べてしまってな」

 ――グレゴがグレゴを食べた。

 エルヴァもそう言っていた。そしてその後に、意味のわからないことも言っていた――。

「――あの巨大な蠅は、もう蠅とは呼べない姿になった。その力も……あれは一体何なのだろうな」

 トーガは腕を組み、深く溜息を吐いた。パウは地図から顔を上げて尋ねる。

「エルヴァも妙なことを言っていたが……何がどうなってるんだ?」

 ――芋虫のグレゴが他のグレゴを食べても、何も起きなかった。

 だが蠅化グレゴが、同じく蠅化グレゴを食べたのなら。

 体の奥底が、ひどく冷え始めている気がした。

 ちらりとパウが隣を見れば――ミラーカがふわふわと羽ばたいている。

 ……蝶のグレゴであるミラーカは、蠅のグレゴを食らうことで力をつけている。

「……あれを何と言っていいのか、私にはわからない」

 しばらくしてトーガは答えてくれた。気付けば時刻は夕方を迎えていて、窓からは夕日が差し込んでいる。できた影が室内に長く伸びていた。その影の中で、トーガはひどく悔しそうに頭を横に振る。

「魔法、のようなものを使うようになったんだ」

 だからデューに魔術師の助けを求めたのだが、と続けたところで、彼はまた溜息を吐いて黙ってしまった。言葉を探しているかのようだった。

「どんな魔法を使うようになったんだ?」

 待っても話してくれないために、パウは催促した。自然と杖を握る手に力が入っていた。

 魔法のようなものを使う、グレゴ――。

 トーガは一度瞼を閉じれば、ゆっくりと開く。

「……仲間の死体が――」

 その時だった。激しい鐘の音が、トーガの言葉をかき消したのは。

 突然の騒音に、パウは震える。トーガも驚いたらしく身構える。鐘の音は外から響いてくる。反射的にパウが窓の外を見れば、鐘の音は街の奥――谷の入り口の方から響いてきているようだった。そこにある櫓で、人影が激しく鐘を叩いている。

 なんだ、とパウが声を上げる前に。

「くそ、また攻めてきたか……!」

 壁に立てかけてあった剣を、トーガが手に取った。そして扉へ向かうものだから、パウも彼に続いた。

 あの鐘は、警鐘だ。何かが起きたのだ。

 トーガに続いて廊下に出れば、そこは騒然としていた。武器を手にした『聖域守』達が、険しい表情で外へ向かっている。

「戦える者だけ向かえ! 三番隊は治療と後方支援! 五番隊は街の様子を! それ以外は前線に!」

 トーガは声を響かせながら外へ向かう。しかしそこではっとしてパウへ振り返った。

「お前、『千華の光』だが……それで戦えるか……?」

 杖をついていることに関して言っているのだろう。それは疑いではなく、心配からのものだと、声色でわかった。

「問題ない。あんたが思っているよりは動けるはずだ」

 これでも慣れた方なのだ。そう答えてパウは杖でとんと床を突いた。

「ただ、何が来てるんだ? でかい蝿が来てるんだろう……?」

 グレゴは確かに、不死身で巨大な蠅だ。共食いをして何らかの変化が起きたらしいが『聖域守』達は異常なほどに戦々恐々としている。するとトーガは。

「――来ているのは、あの怪物ではないんだ」

 それだけ答えれば「ついて来てくれ」と外へ走り出した。パウも急いで後を追う。

 谷側に作られた防壁。その門を潜って『聖域守』達は街の外へと出ていく。先に広がっているのは霧の漂うコーネ谷。霧は濃く、夕日が濁っている。

 『聖域守』達は霧の中を進んでいく。トーガも進んでいき、ある程度街から離れたところで立ち止まった。距離が開いてしまったために、パウは瞬間移動魔法で彼の隣に現れる。

「……よく見えないな」

 その場にはじめて立って、パウは辺りを見回した。橙色に染まった霧で、先を見通すことができない。これでは敵がどこからやってくるのか、どこから攻撃が飛んでくるのか、わからない。

 しかしトーガをはじめとする『聖域守』達は、谷の先、奥を見つめていたのだった。

「パウ、だったな」

 トーガは静かに剣を抜いた。

 ――霧の中、ぼんやりといくつかの影が見えてきた。黒い影。だが大きくはない。

 人間ほどの大きさだった。

 パウは目を凝らすものの、どう見てもそれはグレゴには見えない上に、複数いる。その影の中央のあたりで、何かがきらりと輝いているのは、霧の中でも見えた。

 あれが敵だというのだろうか。こちらに迫ってきている。霧に包まれて、まだよく見えないものの。

 トーガが剣を構えて続ける。

「……『奴ら』は胸の光を貫けば動かなくなる」

「胸の光?」

 目を凝らし続けていると、段々と影の形がはっきりしてきた。人間のような足。人間のような手。服装も人間のよう。手に持っているのも、剣や槍、弓、人間の武器――。

 パウは目を疑うしかなかった。けれども隣に立つトーガも、ほかの『聖域守』達も敵と呼んだ「奴ら」を睨み、武器を握る手に力を込めていた。

「詳しく説明している暇がなくて済まない」

 トーガの声は、それが現実だと肯定しているかのように聞こえた。

「魔術師には、やってもらいたいことがいくつかある……まず優先してもらいたいことだが、あの怪物が撃ってくる光から、私達を守ってほしい。私達と……仲間の遺体を」

 ぞろぞろと正面からやってくる影。それは間違いなく――人間だった。

 身につけている物、その武器。つい最近見た覚えがあってパウが見回せば、周囲にいる『聖域守』達とよく似たものだった。

 だが改めて正面から来る「敵」を見つめれば、彼らの白く輝く瞳に生気はない。胸に埋まるようにしてある光は奇妙な輝きを放っている。見える肌の色も妙で、血の臭いと腐臭が鼻をくすぐった。

 先からやって来たのは死体だった。それも恐らく『聖域守』の死体。

 瞬きをしても消えない。幻ではなかった。

「光に撃たれると、生きた人間も、死んだ人間も、ああなってしまう」

 トーガの剣の切っ先が、一人の『死体』に向けられる。

 パウには戸惑う間もなかった。ただ血の気がひどく引いて、身体が凍りつくかのように冷えていくのだけは感じていた。

 ――荒々しい声が響く。『聖域守』の一人がついに『死体』へ向かって走り出す。

「街を守れ! 一人たりとも侵入させるな!」

「仲間を取り返せ! あの怪物から、解放させるんだ!」

 霧の中に響く声。『聖域守』達が『死体』と戦い始める。『死体』の動きは決して鈍くはなかった。まるで生きているかのように、武器を振るう。

 パウは言葉を失って、その光景を眺めていた。

 ――何故、人間と人間が戦っている?

 そう愕然としていると、いつの間にか一人の『死体』に背後をとられていて。

 気配を感じ、慌ててパウは振り返る。顔の潰れた『死体』が剣を振り被っていた。とっさにパウは水晶を放ちその肩に突き刺すが『死体』はわずかにふらつくだけで、濁った瞳をこちらに向け続けている。そして剣が振り下ろされる――。

 すぐさまパウは横に避けようと動いたが。

「ぼうっとしてないで!」

 声が響いて、目前の『死体』の胸から槍の穂先が突き出た。穂先は胸の光を貫いている。火が消えるように光は消え『死体』はあたかも糸が切れたかのようにがくりと崩れる。

「胸の光が弱点なんだ! 貫けば……あいつから解放させられるんだ」

 『死体』が倒れて現れたのは、街に来てはじめて出会った男エルヴァだった。また別の『死体』が迫ってくるものの、槍で敵の剣を弾けば、的確に胸の光をまた貫く。

「でもまた光に撃たれたら、死体は動き出すし、生きてる奴らも撃たれたら……そのまま奴の手駒になっちまうから……頼む、どうか!」

「光って……」

 まさにそうパウが顔をこわばらせた時。

「パウ……!」

 珍しくも少し急かすように、ミラーカが不意に名前を呼んだ。上を見ろ、というように少し空へと舞う。だからパウが顔を上げれば。

「あれか!」

 霧の中、光り輝くものが降ってきていた。まるで矢のように、いくつも。

 トーガとエルヴァが言っていたのはこれか。すぐさまパウは空へと手をかざし、魔法陣を展開させる。小さくもいくつもの水晶を放つ。

 上空からの光は決して丈夫なものではないようだった。水晶が衝突すれば、水晶もその光も宙で消え失せる。ところが。

 ――多すぎる!

 光の弾丸は次々に降ってくる。慌ててパウはもう一度水晶を放つ。それで再び光を撃ち消していくが、すぐ近くで霧が渦巻くのを感じ、はっとして瞬間移動魔法でその場から距離をとる――もといた場所では『死体』の一人が槍を突き出していた。気付かなければ串刺しにされていたかもしれない。

 そう安心している隙に、また光が降り注ぐ。まずい、とパウは魔法を構えるものの、今度は間に合わなかった。

 光は生きている人間と、地面に転がる遺体へ向かう。生きている人間の多くはとっさに光を避けるものの、どこかで悲鳴が上がった――何人かの『聖域守』が、光を避けきれず、その胸に受けてしまったのだ。

 光を受けて倒れた一人の『聖域守』を、パウは遠くから見ていた。剣を手にした男だった。倒れてがくがくと震えている。周囲の仲間達の顔が、重々しい緊張に染まるのもパウは見た。と、倒れた男は起き上がって、握ったままの剣を振るう――周囲の仲間へと。

「ああ、くそ……くそ……っ!」

 突然仲間を襲い始めたその男の声は、ひどく濁り始めていた。瞳すらも『死体』のように濁り、光りはじめる。

 それでも彼は、口にするのだ。絞り出したような、自分自身の言葉で。

「俺がっ! 俺で……いるうち、にっ……!」

 しかし彼の剣は、容赦なく仲間の一人を切り捨てた。

 ――彼が別の仲間に胸を貫かれたのは、その直後のことだった。

 苦痛に歪んだ彼の顔は、わずかに安らいだ。頽れ、息を引き取る――彼を殺し、涙を流す仲間の目の前で。

 一方、別の場所を見れば、光を受けた遺体がゆっくりと起き上がっていた。それは先程、エルヴァが胸を貫き動きを止めた遺体だった。再び胸に光を宿し、落ちていた武器を拾えば、獣のような声を上げてまた武器を振るい始める――。

「どう、いう……」

 無意識のうちに、パウは弱々しい声を漏らしていた。と、自分の声ではない、弱々しい声が聞こえてくる。

「済まない……許してくれ……こうするしか、ないんだ……」

 振り返れば、霧の中、人影が別の人影の胸を短剣で貫いていた。胸に宿った光をも、短剣は貫いている。

「済まない……兄さん……」

 短剣を手にした『聖域守』の男は泣いていた。倒れた遺体の顔を見れば、彼と顔がよく似ていた。

 ――どうしてこんなことが?

 パウは震えて立っていた。

 何が起こっているのかわからなかった。

 何が起こっているのか知りたくなかった。

 ――こんな、惨劇。

 と、頭上でより眩しい光が爆ぜた。

 また光が襲いかかってきたのだ。考えるよりも先にパウは手の平を上空に向けた。魔法陣を出現させる。いくつもの水晶を放ち、光を消していく。と。

 上空。霧の向こう。巨大な影が浮遊しているのを、見た。

「――奴だ! ここまで出てきたのか?」

 そう叫んだのはトーガだった。

 とっさにグレゴだと、パウは目を見張った。しかしそれは、パウの知っている蠅化グレゴとは、全く異なる姿をしていた。

 ……太い足。ひらひらとした長い羽。比較的細い身体。頭は丸く、あの特徴的な牙のある口はどこにもない。その代わりに角が一本、生えていた。

 巨大で黒色ということから、蝿化グレゴのようにも思えるが、全く違う姿をした何かがそこにいた。

 本当にあれはグレゴなのだろうか、それとも――と疑問が頭をよぎるが。

「パウ……あいつよ」

 ミラーカが認めた。間違いなく、グレゴだと。

 上空で羽ばたくグレゴの、その特徴的な角の先で、小さな光が生まれ始める。それは膨らみ炸裂すれば、生きている人間にも死んでいる人間にも、光が降り注ぐ。

 数が多すぎる、全てを消すには間に合わない。反射的にパウは、水晶ではなく魔力による魔力波を放った。見えない力の波は、光を受け止めじわじわと削るものの、全てを消すことはできなかった。いくらかが降り注ぐ。だが『死体』と戦っていた『聖域守』達はかろうじて全員が避けることができた。それでも地面に転がる遺体に、光は突き刺さる。

 光を受けた身体は起き上がる。武器を手に。濁ったような目を、胸の光と同じように光らせて。

 と、霧が大きく渦巻く。パウが再び上空を見れば、グレゴの姿が霧の向こうへ溶けて消えていっていた。すると『死体』達も霧の向こうに消えていく――新たに加わった『死体』と共に。

 『聖域守』の何人かは、霧の中に消えゆこうとする『死体』の胸を貫いていた。地面に転がる遺体が増えていく。その遺体を抱きしめ泣く者もいる。

 夕日に染まっていた霧は、気付けば色を失っていた。辺りは黒に染まり始めていた。重々しい夜の闇が迫ってきていた。

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