第四章(02) あの怪物は、より化物になった

 * * *


 『緑の花弁』地方の隅にある街、ゼフタルク。噂によると、その周辺にもグレゴが出現したらしい。

 けれどもそうパウに教えてくれた農夫は、笑って続けたのだった。

「でも、ゼフタルクだ……あんたも知ってるだろう、コーネ谷の怪物退治の伝説は。あそこは『聖域守』達の街だ、たとえ巨大蠅の話が本当だったとしても、大丈夫だろう」

 『聖域守』――それはゼフタルクの戦士達のこと。かつて怪物を倒した戦士達の血を引く者達。

 農夫の言う通り、彼らは腕の立つ戦士だ。時に雇われ遠方に出向くこともある。『千華の光』であるパウも、デューからの指令を何度か彼らとこなしたことがあるから、彼らの腕は知っていた。

 しかし巨大蝿というのは、ただの巨大蠅ではないのだ――どんなに傷つけても死なない、不死身の蠅。そして全てを喰らう。

 ……もしかすると『遠き日の霜』もいる可能性もある。彼らはグレゴを回収しているようなのだから。

 もしいたならば、向かうのは危険かもしれない。けれども向かうしかない――彼らがいるなら、なおさら向かわなくてはいけない。彼らの手に渡る前に……ミラーカに食べさせなくてはいけないから。

 歩みはゼフタルクへと向かった。杖をつきながらの歩行には、もうすっかり慣れていた。といっても、速く歩けるわけではないが。

「パウ」

 無言で歩き続けていると、ミラーカがふわふわと青い羽を羽ばたかせながら笑う。

「楽しみね」

 皮肉なのだろうか。パウは相変わらず、何も言わずに歩き続けた。まるで何かから逃げるように。

 パウがゼフタルクに着いたのは、農夫からグレゴの話を聞いて、二日後のことだった。

 ――昼もとうに過ぎた時間。休みなく荒野を歩き続けていると、先にまるで巨大な壁のようにそそり立つ崖と、その根元にある砦のような街が見えてきた。

 あれがゼフタルク。ようやく立ち止まって、パウは溜息を吐いた。遠くから見ても、街に何か異変が起きているようには思えない――襲われてはいないらしい。

 ゼフタルクはコーネ谷の入り口に位置していて、防壁に囲まれた街だった。パウは門へ向かって進んでいった。門番であろう男が見えてくる。

 歳が近そうな男だった。赤みがかった茶髪は短いものの、襟足だけを伸ばして三つ編みを作っていた。目は丸く、そのせいか少し童顔に思える。どことなく悪戯好きそうな雰囲気があった。

 門番の彼は片手に槍を握っていて、つまらなさそうに伸びをしていた。けれどもパウを認めるや否や、歓迎の笑みとはほど遠い険しい表情を浮かべたのだった。

「おっと旅の人? それとも我ら『聖域守』と共に……」

 そこまで言って、彼は頭を横に振った。

「……ああそれどころじゃないんだって。ごめんな、いま、この街に外の人をいれるわけにはいかないんだ。ここは……危険なんだ。コーネ谷に巨大蠅が出てさ……いまは俺達や街のみんなで谷の外に出ないようにしているが……旅の人か、戦士への志願者かはわかんないけど、とにかく……」

 と、そこまで口にしたところで、パウが口を開く前に、彼は目を丸くした。

「――あんた『千華の光』?」

 パウが名乗る前に、彼は耳飾りに気付いたようだった。そして次の瞬間。

「――やっとデューから来てくれたんだな!」

「……えっ?」

 ばっと、パウは彼に腕を掴まれた。先程の険しい表情とはうってかわって顔を輝かせた彼は、パウをぐいと引いて防壁の内側、街へ引っ張っていく。

「お、おい、ちょっと……」

 そうパウが戸惑っても、彼は手を放してくれない。

「みんな! やっとデューから魔術師が来たんだ! やっと来たんだ!」

 ――デューから魔術師が?

 目を白黒させながらも、パウは引っ張られるまま、どこかへと連れて行かれる――街の様子を見れば、グレゴによって苦しめられている様子は見られなかった。男も女も、子供も老人もいて、騒ぎを聞きつけて物陰や家から出てきている。パウの耳飾りを見れば、彼らはぱっと顔を輝かせる。「やっと来てくれた」と――。

「ちょっと待ってくれ! デューからの魔術師って……?」

 やがて一つの大きな建物まで案内されて、男がやっと手を放してくれたものだから、ようやくパウは尋ねることができた。

 その建物の扉の上には、どこかで見たような紋章が飾られていた――いつかどこかで見た『聖域守』の紋章だった。

「待ってたんだぞ! 要請、ずっと前に出したのに、なかなか連絡はないし、誰かが来る様子もないから……」

 ――その口振りから、どうやら彼らは、デューに魔術師の要請を出しているようだった。

 けれども。

「……待ってくれ、俺はデューからの指令でここに来たわけじゃない」

 きっぱりと、パウは言った。すると意気揚々と扉を開けようとしていた彼が「へ?」と笑顔のまま固まった。

「……えっ? でもあんた『千華の光』、だよな……?」

 彼はパウの耳飾りを指さす。パウは頷くものの、

「でもデューの命令でここに来たわけじゃないんだが……」

「……じゃあ、巨大蝿から街を助けに来たわけじゃ、ない?」

 すう、と彼の表情から笑顔が消えていく。

 ――しかし街を助けに来た……グレゴを退治しに来たのは、確かなのだ。

「俺は旅の魔術師だ……この近くに巨大蠅が出たと聞いて、ここに来たんだ……」

 ――グレゴ、という名称は相変わらず伏せておく。

 余計なことは、伏せておくべきだから。

「デューからの魔術師では……ない……?」

 ここまでパウを連れてきた男は、きょとんとして事実を繰り返す。だが。

「――でも、巨大蠅が出たって聞いたからここに来たってことは、俺達を手伝ってくれるつもりで来たってことだよなっ!」

 再びパウの手を掴めば、まるで子供のように声を上げるのだった。その勢いに、パウは「ああ、まあ……」と言葉を詰まらせてしまうものの、

「ついて来てくれ! リーダーが待ってるから!」

 男は扉を開けて、急いで中へと入っていく。仕方なくパウも続いて中に入った。ミラーカも扉が閉まる前に、するりと中に入る。

 どうも彼は、ひどく魔術師を待ちわびていたようだった。

「とにかく『千華の光』が来てくれたんだ! これで戦況が変われば……!」

 パウの先を行く彼は、歩きながらも振り返る。

「もう……状態は最悪なんだ……手紙に書いた通り……って、デューからの魔術師じゃないなら、なんにも知らないか……」

 彼はまるで世間話でもするかのように続けた。

「一匹は一度は捕まえたんだけどさ……もう一匹に手を焼いてて」

「――一匹を捕まえたぁ?」

 耳を疑い、思わずパウは声をわずかに裏返させてしまった。

 ――グレゴを捕まえた?

 あのグレゴを?

 確かにこの街の戦士『聖域守』が強いとは知っているものの、捕まえた、だなんて。

 しかし話はそこで終わらなかった。

「……捕まえたけど、もう一匹の蠅が、捕まえた奴を食べちゃったんだよね」

 二階へと向かう階段の途中。男はふと、足を止めた。

「で、あの怪物は、より化物になった……」

 もう一匹の蠅が、捕まえた蠅を食べた――。

 その意味がわからなくて、パウも足を止めた。

 ――グレゴがグレゴを、食べた?

 ぱっと思い出したのは、共食いをする、まだ芋虫の姿のグレゴ達だった――研究所にいた頃、日常の風景だったそれ。まさか芋虫の正体が人間だったとは知らなかった頃の記憶。

「俺はエルヴァ。『聖域守』だ。お前は?」

 ここまでパウを案内してくれた男は、そこでやっと名乗ってくれた。

「……パウ」

 短くパウが答えれば、エルヴァは「じゃあよろしくな、パウ!」と子供のように微笑んでくれた。しかし次の瞬間には、険しい顔をして先を見つめるのだった。

「詳しくはリーダーから聞いてくれ……もうこの街は、限界が近いんだ」

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