第三章(07) 幻なんかじゃ、なかったんだ
「……嘘」
乾いた声が聞こえた。座り込んだままのメオリが、まるで夢でも見ているかのように、ぽかんとして巨大な蠅を見つめている。グレゴは落ちてしまったスキュティアの足も土ごと喰らって、天を仰いで嚥下する。そしてその巨体を浮かせているにはどこかか弱く思える羽をより震えさせれば、メオリに頭を向けた。
しかしメオリは唖然としたままそこから動こうとしなかった。目を開けているのに、眠っているかのように。
まずい――とっさにパウは瞬間移動魔法で彼女のすぐ隣に姿を現した。彼女を掴めば、再び瞬間移動をしてその場から離れる。直後、まさにメオリがいた場所にグレゴは噛みついた。無念の唸り声を漏らして、口からはぼたぼたと涎が垂れる。
「何――何なんだあれは!」
目の前でグレゴが宙を食んでいるのを見て、メオリはやっと目覚めたかのように半ば悲鳴となった声を上げた。シトラも困惑したように、主の肩に戻ってくる。
パウが説明をしようにも、グレゴは宙を滑って追ってきた。その漆黒の巨体は、まさに暗闇が凝縮したような不気味なもの。辺りの緑は鮮やかで空も青いものの、巨大な蠅の黒色は、明らかに異質だった。
説明している余裕なんてない。パウは立ち上がれば、巨大な漆黒に向かって手を構えた。輝く魔法陣が生まれ水晶が放たれる。続いて光球をいくつも放つ。
水晶は投げナイフのように、そして光球は鳥のように暗闇の塊へ駆けていく。幸い、片目が見えていなくとも、標的は大きく、動きはそう速くない。だからこそパウの魔法は全て命中したものの。
「――全然効いてない……!」
水晶は突き刺さり、光球は確かに爆ぜたのだ。しかしそれは、巨大なグレゴからしてみればかすり傷。勢いを弱めることもできなかった。できた傷も、不死身の怪物は数秒で再生させる。何事もなかったかのように突進してくる。いびつに思えるほど牙のある口を大きく開く。
仕方なくパウは未だ座り込んだままのメオリを掴めば、もう一度瞬間移動魔法を使った――数秒遅れて、二人がいたところにグレゴが噛みついた。ずしゃりと地面に墜落するほどの勢いで、空気と土を巨大蠅は喰らう。しかし細い足ですぐに身体を起こせば、少し離れたところに移動していたパウとメオリへ向かって、走ってくる。
パウはそれを睨んで見ていたけれども。
……胸が苦しくなってしまって、激しく咳込む。喉がひゅうひゅうと鳴り始めていた。疲労の汗が、額から頬へ流れる。
怪我の後遺症により、以前のように魔法が使えなくなってしまった身体。そうであるにもかかわらず、何度も瞬間移動をしたり、魔法を放ったり、ついに限界が来てしまったのだ。
それでも杖を命綱のように握り続けたまま、もう一度、瞬間移動魔法を試みる。けれどもまた咳込んでしまって、集中が途切れて魔力が大きく揺らいでしまって。
しかし次の瞬間、今度はパウが、メオリに掴まれた。同時に一瞬の浮遊感に包まれ、目の前の景色が変わる。少し離れたところにグレゴの背があった。
メオリが我に返って、瞬間移動魔法を使ってくれたのだ。
「いくぞ、シトラ!」
声はかすかに上擦っていたものの、彼女が立ち上がれば、シトラは肩から飛び立つ。
獲物を見失ったグレゴは、地に足をつけたまま、辺りを見回している。シトラはその上空で大きく羽ばたいた。起こされた風が刃となって漆黒の巨体に降り注ぐ、切り刻む、黒い血がインクのように飛び散る。
だがそれもかすり傷同然だった。巨大な蠅は全く気にしていない様子で、やっと気付いたかのように頭を上げれば、威嚇の喚き声を轟かせ羽を震えさせる。
しかしメオリはシトラを退かせることなく、指先に小さな魔法陣を出現させれば、使い魔の鷹に力を与える――シトラは全身に光を帯びれば、より大きく羽ばたいた。巨大な風が生み出され、グレゴに襲いかかる。これにはグレゴも戸惑ったのか、苦しそうに声を上げた
その間にパウは立ち上がり、空に向かって手をかざした。杖を捨て、もう片手も額の汗を拭えば空にかざす。巨大な魔法陣がグレゴの上空に出現し始める。幾何学模様がゆっくりと描かれていく。
どんなに巨大であっても、倒し方は、今まで通りだ。
動けなくする、弱らせる――そうすれば、ミラーカが食べられる。
乱れた息につられるようにして、展開中の魔法陣も一瞬ぐにゃりと歪んだ。しかしパウは目を瞑って、集中して。
いまメオリが足止めをしてくれている間に、串刺しにしてしまえば――。
だが魔法陣はまたぐにゃりと歪んで、水晶をなかなか生み出せない。スキュティアとの戦いや、先程の瞬間移動の連続使用による疲弊が、確実に身体を蝕んでいた。
そして響き渡ったのは、グレゴの怒りの金切り声。
グレゴがついに、シトラの魔法の風を払い飛ばした。羽を震わせ、飛び立とうとしている。
「逃がすか……!」
それを見てしまったものだから、パウは慌てて水晶を放ってしまった。硬度も密度も、鋭利さも未熟な水晶。大きさこそ、巨大なグレゴと釣り合ってはいた。背中に水晶は突き刺さるが――貫通することはなかった。
グレゴはわずかに身体を震わせただけで、宙に飛び立った。水晶は背に刺さったまま。しかしやがて消えてしまい、巨大な蠅に残ったのは大きくも浅い傷だけだった。
その傷すらも、瞬く間に再生していってしまう。少しの間、空を飛ぶグレゴからはぼたぼたと血が滴っていた。それがすぐになくなって、気付けばグレゴは悠々と空を旋回していた。
「どうして……?」
地面には確かにグレゴの血の跡があった。けれどもその巨大な身体に傷一つないことを認めれば、メオリは顔を青ざめさせた。
「何で……何で傷が一つもないんだ……!」
空を旋回していたグレゴは、妙な動きで宙を滑り始める。ぴい、と高い悲鳴が聞こえる――グレゴはシトラを追い始めたのだ。
まるで大魚と小魚。蠅に対してあまりにも小さい鷹は、ぐるぐると回るようにして空を逃げ回る――。
「逃げてシトラ! 逃げて!」
メオリの悲鳴が空に響く。しかしパウは、鷹と蠅を見上げて。
「慌てるな、あのグレゴ、遅いからそうシトラに追いつけないぞ」
「何が慌てるなだって? どうしたらいいんだ、あんな敵……!」
メオリは軽いパニックを起こしているようだった。空を飛ぶ巨大な影を指させば叫ぶ。
「確かに……確かに逃げることはできるかもしれない! でも、魔法がそう効いていなかった! おまけに傷つけても再生して……あんなに元気よく飛び回ってるじゃないか!」
ぴい、とシトラが声を上げた。旋回してグレゴの牙を避けていた。
メオリは震える声で続ける。
「……幻なんかじゃ、なかったんだ」
――彼女は、本当に巨大な蠅がいたことに衝撃を受けているのだろう。
その上知り合いだった魔術師スキュティアは敵で、師匠コサドアの死について何か知っていた。けれどもあの巨大な蠅に喰われて死んでしまった
「……いままでみたいに、水晶で地面に固定するのは、難しいかもしれない」
それでもパウは、落ち着いて巨大な影を見上げた。
「あいつはあまりにも大きすぎるし、俺も消耗しすぎた……多分、あいつの動きを止められる水晶は、なかなか作れない」
冷静に、淡々と。メオリは表情をひきつらせたままだったものの。
「何を、言ってるんだ……?」
「……とにかく、動きを止めるんだ。拘束したり、弱らせたり……動きさえ何とか止められたら、いくら怪我が再生するといっても、こっちのもんだろ?」
そう、とにかく動きを止めればいいのだ。
――そうすれば、ミラーカが喰える。不死身の巨大蠅に死を与えられる。
恐怖に染まっていたメオリの顔が、徐々に険しいものになっていくのを、パウは見た。その瞳に鋭さが戻ってくる。
そして訝しむような色が宿ったのだった。
「あんた、あの巨大蠅について、本当は何か知ってるんだな……!」
と、上空でいびつな鳴き声が上がった。シトラを諦めたグレゴが、二人を狙ってまっすぐに落ちてくる。
すぐさま二人は互いから離れるようにその場から退いた。地面すれすれまで落ちてきたグレゴは、熟れすぎた果実のように一度ぐちゃりと地面に墜落すると、すぐに起き上がって再び羽ばたき始める。まるで逃げようと暴れまわる魚を彷彿させる。しかしその瞳は、飢えにぎらぎらと輝いている。
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