第三章 嵐の中の翼
第三章(01) その巨大蠅を探していまして
森の中。馬車が駆け抜けていく騒音に、鳥が驚いて青空へ飛び立った。狐や野鼠も怯えて茂みに身を潜める。
まさに転がるような勢いで馬車は走っていた。それ以上速度を出せば、転倒するかもしれない勢い。だが御者台の商人の男は手綱を握ったまま、ひたすら二頭の馬を走らせる。
――正面から、剣を手にした男二人が突然飛び出してきた。馬車をひく二頭の馬は驚きいなないて、勢い余って道から外れると、行き場を失って止まってしまった。
御者台の商人は慌てて周囲を見回し、手綱をもう一度手に取る。だが次の瞬間には、隣に現れたこれまた小汚い男に引きずり降ろされ、地面に叩きつけられてしまった。
「全くちょろちょろ逃げやがって……っ!」
地面に倒れた商人に追い打ちをかけるように、男は蹴りを入れる。そして馬車では、他の男達――盗賊達が、荷物を物色し始めていた。
「何か金になりそうなものは!」
商人を蹴り飛ばした男――盗賊のかしらが声を張り上げれば、少しして返事があった。
「んー、まあまあ! いや……だめかねぇ……うーん」
「……しけてやがるぜ」
盗賊のかしらは、つまらなさそうに顔を歪める。商人を見れば、何とか立ち上がろうとしていたものだから、八つ当たりにもう一度蹴り倒す。それからしゃがみ込めば、苦痛に震える商人の髪を鷲掴みにして、顔を上げさせた。
「こっちはなかなか、獲物が街から出てきてくれないから退屈してたっていうのによ」
「放せ! 放せ……! ちくしょう……!」
商人はそう抵抗するものの、まるで子供が相手であるかのように盗賊のかしらは見つめていた。
「しっかし……バカでかい蠅がいるって噂があるから、他の奴は街から出てこないっていうのに……あんた、本当にバカだな? もし本当にバカでかい蠅がいたらどうするつもりだったんだぁ? ま……そんな噂もあほらしいし、それを信じて街に引きこもってる奴らもあほらしいけど」
と、盗賊のかしらは皮肉そうに笑う。
「まあそんな中? あんたは勇気を持って街から街へ行こうとしたけど? 結局俺達に品を奪われ殺されるわけだ! かわいそうになぁ……あ、安心しろ、死体は街の近くに捨てておいてやる……死体がなくて、やっぱり蠅はいるんだって騒がれたら、俺達もやってられないからな」
「――おーい、アニキ!」
馬車から嬉しそうな声が上がった。
「酒積んでるよ、この馬車! これ……ジージェラの酒じゃない?」
「……そうか、あの酒の時期だから、無理矢理にでも商売しに行こうって飛び出してきたわけか! 美酒だもんな、高くつくもんなぁ」
納得して盗賊のかしらは満足そうに笑った。と、商人が再び抵抗する。髪を掴む手をひきはがそうともがく。
「やめろ! あれはお前達のものじゃない!」
「……うるせぇなぁ」
ついに盗賊のかしらがナイフを抜いた。掲げれば、銀に輝く刃に、商人のひきつった顔が映る。
――ぴぃ、と笛のような、高い鳴き声が森に響いた。
矢のような風が吹き抜ける。盗賊のかしらのナイフを握る手に、何かが襲いかかった。悲鳴を上げて彼はナイフを落としてしまう。血の飛沫がいくつか地面に散った。続いて聞こえたのは、大きな羽ばたきと、再びの笛のような鳴き声。
「なんだ……?」
仲間が見上げれば。
「――鷹ぁ?」
一羽の鷹が宙で羽ばたいていた。透き通った瞳を鋭くして、盗賊達を睨んでいる。と、翼が輝き、起こす風も光を帯びて――輝く刃が、盗賊達へ襲いかかった。
「うわぁっ!」
盗賊達は虚をつかれ悲鳴を上げて逃げまどう。しかし鷹はそんな彼らを追って、また風を起こす。いくつもの切り傷を負った盗賊達はやがて、痛みに転がり、動けなくなる。
「ただの鷹じゃない! 逃げろ!」
それでも風から逃れ、森の奥に逃げようとしていた盗賊の目の前に。
「――逃がさないよ」
樹の上から飛び降りてきたのは、焦げ茶色の長い髪を後ろで結った女だった。瞳は橙色。手を構えればその前に魔法陣が現れ、細い鎖が飛び出した。鎖はまさに蛇のように盗賊に飛びかかれば、その身体を縛り拘束する。
また一人、盗賊は動けなくなった。と、十代後半くらいであろうその女は、鷹に叫ぶ。
「シトラ! 親玉を逃さないで!」
シトラと呼ばれた鷹は、一鳴きすれば金の瞳で盗賊のかしらを睨んだ――手を負傷しているものの、彼は先程落としてしまったナイフを慌てて拾っていた。そうして背を見せて森の奥へ逃げようとしていた。
風を切って鷹は男を追う。しかし。
「――なめんなよぉっ!」
男は唐突に振り返れば、勢いのままにナイフを振るった。盗賊が持っているにしては美しいナイフ。まさに襲いかかろうとしていた鷹は、間一髪、宙で羽ばたいて避ける。
しかし魔術師の女は、その隙を逃さなかった。鷹を睨んだままの男へ、魔法の鎖を放つ。魔法の鎖は、すぐに男に絡みつき拘束するが、澄んだ音が響き渡る――男が、光を帯びたナイフで魔法の鎖を断ち切った音だった。
「――魔法道具か! 盗賊が持ってるなんて……どこかから盗んだものか……?」
目を細めて、魔術師の女は呟いた。けれども決して険しい顔を浮かべなかった。
「シトラ、お願い!」
叫べば、シトラは呼応して鳴いた。羽ばたき滑空して、盗賊のナイフを持つ手を狙う。
「おっと二度目はないぞ?」
男は軽々と避ければ、またシトラに向かってナイフを振った。一度はかわされてしまったものの、もう一度襲いかかろうとしていたシトラは、宙で翻り避けるほかなかった。
しかしその時、魔術師の女の指先で、小さな魔法陣が展開された。輝けば、鷹のシトラも光を帯びる。その翼も鋭く輝き、大きく広げて羽ばたけば、まるで嵐のような強風が、盗賊のかしらに襲いかかった。木々が大きくしなり、ただの人間では立ってはいられない。盗賊のかしらは、押し潰され倒れる。手からナイフが離れ、樹の幹に突き刺さった。
風が止んでも、全身をなぶられた盗賊の男は起き上がれなかった。そこに魔術師の女が寄れば、男の両手を背に回して、魔法の鎖で拘束する。
商人の馬車を襲った盗賊達、全員が捕まった。
「あ……ありがとうございます!」
我に返った商人が慌てて立ち上がった。
「危ないところでしたね……間に合ってよかった!」
魔術師の女が振り返れば、その後頭部の高い位置で結った髪と、黄色の耳飾り――『千華の光』の証が揺れた。
「ナーラ・ニタの街に向かう予定ですか?」
彼女が尋ねれば、商人は頷いた。あたりに転がった盗賊達を見回す。
「ええ……巨大な蠅がこのあたりにいるって噂がありましたけど、どうしても行かなくてはならなくて……でも、まさか盗賊に襲われるとは」
「私も、ナーラ・ニタに向かっている途中なんです……商人さん、馬車に余裕はありますか? ……こいつらを突き出すべきところに突き出したいんですが」
「ぜひ、協力させてください! こういう輩は、私達商人の敵ですから! 一人でも減らしていった方がいい!」
――そうして、縛った盗賊達を馬車に乗せて、商人と魔術師の女は、再び街へ向かって進み始めた。
「メオリです」
御者台、商人の隣に座った魔術師の女は名乗る。と、肩に鷹がとまる。
「こっちはシトラ――使い魔です」
「確か、魔力を動物の形にしたもの、魔力の人形、でしたっけ? 魔術師さんがいれば、また盗賊が出ても、噂の巨大蠅が出ても、安心ですね!」
――巨大蠅。
その言葉に、メオリは一瞬、目を細めた。
「……その巨大蠅についてなんですけど、商人さんは、どういった噂を聞いてますか?」
じっと、シトラも商人を見つめる。
メオリは続ける。
「私、その巨大蠅を探していまして」
* * *
――フィオロウス国の北部『白の花弁』地方での任務を終え、メオリが魔術文明都市デューに帰ってくると、師匠のコサドアはひどく考え込んでいる様子だった。
どうしたんですか師匠。そんなに悩み込んじゃって――戻ってきたメオリは、コサドアに笑いながら尋ねた。
老齢の魔術師は少しして顔を上げた。『千華の光』の証である耳飾りが、きらりと鋭い光を放ったのをよく憶えている。
巨大な蠅の噂を耳にしたか、と彼に尋ねられた。
巨大な蠅――その噂は『白の花弁』地方での護衛任務中にも、そしてここまでの帰路でも、耳にしていた。
熊よりも大きく、何をしても死なない蠅。人を喰らう蠅。すでにいくつもの村や街が壊滅させられた――と。
「でもそんな蠅、噂話でしょう? そんなことができる魔法や魔法道具なんて、聞いたことありませんし。使い魔だったとしても、そんな巨大なもの、人には作れませんよ。第一に、人を喰うって……使い魔はものを食べないし」
屋敷でシトラの頭を撫でながら、メオリは笑った。
恐らくその巨大な蠅の正体は、魔法による幻か何かなのだろう。それ以外に考えられない。その裏で、何者かが破壊と殺戮をしているに違いない。
そう考えれば、敵は手強いのだろう。だがデューの魔術師や『千華の光』の魔術師ならば。
いままでの被害は甚大ではあるのだろう。けれども時期に――そうメオリは信じていたのだ。
だがコサドアは。
「……俺にはどうも、その程度の話には思えんのだよ」
年老いてはいるものの、いまも狩人の瞳を持つ魔術師は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「その程度の話って……正体は幻か何か、でしょう? 確かに、強大な魔力とそれを扱う技術を持った狂った魔術師が犯人でしょうけど」
メオリはシトラを乗せた腕をぱっと掲げた。勢いに乗って、シトラは羽ばたく。屋敷の遙か高い天井に向かって飛んで、大きく旋回する。
「簡単に考えればそうだがな……それにしちゃあ、いろいろと妙な気がするんだ」
コサドアはメオリに背を向けながら、微笑んでいた。
「何というか……あれはそういう、俺達がぱっと考えられるようなもんなんかではない……そんな気が、な」
「……おじいちゃんの勘って奴?」
メオリはそう口を尖らせたが、コサドアはドアノブに手を伸ばしていた。その背後に、使い魔である虎を連れて。
「自分自身で調べてみようと思う。噂ばかりじゃあ、どうにもならんしな。自分の目で見るのが一番早い」
そうして、老齢の魔術師コサドア――『霧中の猛虎』とも呼ばれたほどの彼は。
――三日後に、遺体となって発見された。
遺体の傍らでは、使い魔の心臓であった魔力金が、粉々に砕かれていた。
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