第二章(09) 約束よ、パウ

 動きたくとも、パウは動けなかった。喉を鳴らして、何とか息をしようとする。けれどももう遅い。漏れるのは掠れた声だけ。

 ミラーカの手にはじわじわと力が入っていく。少女の力とは思えないほどの力になっていく。

「憎くてたまらなかったのよ……私を、自分のものみたいに扱ったあなたが」

 起き上がれ、とパウは両腕に力を入れる。しかしやはり動かすことはできない。

 酸素を求め喘ごうにも、視線すらもう動かせない。ぎりぎりと自分の首を絞めていく少女を見つめるしかできない。

「あっ……がっ……!」

 抵抗か、それとも酸素が吸えないためか、手足は震え始める。

「一番憎いのは、あなたじゃなくて、私を醜い芋虫にした兄さん……でも、まずはあなたに死んでもらうわ」

 対してミラーカは、機嫌よく笑っている。暗闇の中、その笑みはどこまで妖しくて、美しくて。

 視界が歪む。頭の中が熱くなってきて、燃えてしまったかのように白んでいく。

 苦しい。指先が冷えてくる。このままでは。

 しかし――自分は殺されても、仕方がないのだ。

 それもミラーカに殺されるというのなら、それがもっとも正しい殺され方だろう。

 何故なら自分は確かに、彼女をめちゃくちゃにしたのだ。

 彼女の存在を都合よく思っていたのも、確かだ。

 ――罪を償うために、残されたものだと思っていた。

 彼女がどう思っているかなんて、一度も考えたことがなかった。

 彼女は――自分だけの、美しい蝶だった。罪を償わせてくれる、光だった。

 そう、思いこんで。

 それだけではない、知らなかったとはいえども、元々人であったグレゴを、ミラーカと同じく無残に扱ってきたのだ。

 そして蠅化させてしまい、今度は大陸中の人間を危険にさらしてしまって。

 ――全て、自分がしてしまったことだった。

 ……首は痛いほどに絞められていく。骨が砕けてしまいそうだった。そして息が吸えない中、苦しさに目は上を向いてきてしまう。

 首の骨が砕けるのか先か。窒息死するのが先か。

 抵抗もできないまま目を瞑れば、涙がこぼれる。

 ――死をもって償わなければいけないほどの罪を、自分は背負ったのだ。

 ――それは、死んでも償いきれない罪だった。

 ……ああ、でも。

 いまここで自分が死ねば。

 ――大陸に残っている蠅化グレゴは、どうなってしまうのだろうか。

 ――ベラー達は、いまもどこかで研究を続けているのだろうか。

 ……ゆっくりと、腕が上がった。

 少女の冷たい手首を掴めば、思ったよりも簡単に引きはがせた。そして手が放れた瞬間、まるで縛っていた糸が全て切れたかのように、自由が戻ってきた。倒れると、パウは咳き込みながら喘いで息を吸った。口から涎が垂れようが、気にしている場合ではない。とにかく酸素がほしかった。

「あら……?」

 それは面白がるというよりも、うまくいかなくて不思議だというミラーカの声だった。

 パウが見上げれば、彼女は微笑みを浮かべたままだったものの、少し不思議そうな顔をしていた。

「変ね……うまくいくと思ったのだけど……だってあなたは、あなたも思っていたんでしょう? 死で償うしかないかもしれないって」

「……」

 ミラーカは、自分の心をも利用していたというのだろうか。

 しかし。

「……いま、死ぬわけには、いかない……!」

 手を構える。

 ――もう彼女を傷つけたくなかったが。

「俺は……せめてグレゴを全部退治するまでは、死ねない……!」

 ぎっと、ミラーカを睨みつける。

「だから――まだ殺さないでくれ!」

「――何を言ってるの」

 ミラーカの顔から笑みが消える。

 ――構えていたはずの手が、見えない何かに弾かれた。次の瞬間パウは、今度は床に叩きつけられていて、仰向けになった上にミラーカが跨がっていた。

「命乞いなんて、みっともないわね」

 自分がわがままを言っているのは十分にわかっていた。

 自分はミラーカに殺されて、当然なのだ。

 それでも。

「グレゴだけは……! かたをつけたいんだ……あれは、俺のせいだから……!」

 ――人々のために、なりたかった。

「それまで……待ってくれ……! 終わったら……俺の命は、どうしてもいいから……!」

 ここでの死は、甘えのほかにならない。

 そう思えた。

 押さえつけられたままでも、手を構える。ミラーカはつまらなそうな顔をしていた。

「……グレゴを退治って、私をまた道具のように使って?」

「それは……」

 グレゴを退治するには、消滅させるには、ミラーカが必要だった。

 グレゴを喰らうことができるのは、グレゴだけ。

「――あなた、本当にひどい人ね」

 覆い被さるようにミラーカが両手を床につけば、長い髪は幕のように垂れた。

 そして見つめ合う。ミラーカは冷ややかに、パウは戦々恐々と。

 構えた手は震えていた。この状況から、ミラーカを傷つけずに逃げる方法を考えていた。けれどもミラーカは必要で。

 青い瞳は、きらりと輝いた。

「――本当にひどい人で……必死な人ね」

 白く細い指が伸びてきた。触れたのは、髪。パウの、顔にかかった前髪をさらりと払った。

 彼女の瞳は細くなる。首を傾げれば髪の幕は揺らめいて。

「――そうね……」

 髪を払った手は、そのままパウの額を、頬を、撫でていく。

 パウは動けないままだった。気も緩められないため、構えた手を下ろすこともできない。

 やがて、ミラーカはぐいと顔を近づけてきた。

「……やっとあなたを殺せるようになったから、張り切って殺してやろうと思ったけど……考えたら、少し都合が悪いかもしれないわね……私一人じゃ、まだグレゴを倒せなさそうだし……人探しも苦労しそうだし」

 パウの構えたままの手を握って、指を絡ませて、そしてとん、と床に押しつけた。

「いいわ」

 彼女は不敵に微笑んでいた。

「それなら……今度は私が、あなたを道具として使うわ……あなたが私にグレゴを食べさせるんじゃない。私があなたにグレゴを食べさせてもらうの――グレゴを食べさせて、私にもっと力をちょうだい、パウ」

 それは命令だった。

「それから……兄さんを見つけだして。あいつも、殺さないといけないから」

「……兄って……?」

 自分のほかに、もう一人復讐したい相手。それが兄。

 研究所にいた魔術師の一人だろうか。

 するとミラーカは、まるで哀れむようにまた頬を撫でてきたのだった。

「――ベラーよ、パウ」

 目を丸くするほかなかった。

 ミラーカは、ベラーの妹?

 いやそれよりも。

 ――ベラーは、自身の妹すらも、研究の材料にしていたというのだろうか。

 よく見れば、確かにミラーカは、ベラーとどことなく似ていた。

 ミラーカは続ける。

「……全て終わったら、最後にあなたを殺すわ。それまでは待ってあげる……悪い話じゃないでしょう?」

 それが、彼女の提案だった。

 ……彼女がそれでいいと言うのなら。

 ――目的は、ほぼ、一致していた。

「……わかった」

 迷うことはなかった。迷うことは許されなかった。

 この命、どうなろうと。グレゴを退治できるのなら。

 そしてベラーを見つけだすこともできるというのなら。

 もはやそのための命だった。

「……最後に俺を殺していい。けれどもその前に、一緒に終わらせてくれ」

 身体は震えていたものの。

 だがミラーカは、満足そうに微笑んでくれた。

「約束よ、パウ。約束……」

 どこか妖しく。それでも美しく。と。

「そういえば、指贈りって、知ってるかしら」

 急に彼女は、聞き慣れない言葉を口にした。いや、どこかで聞いたことがあるような。

 美しい瞳は、絡ませた指に向けられていた。

「見たでしょう、前の街で」

 ――以前街で出会った、小指のない男。彼は「指贈り」で切ったと言っていた。一体それが何であるか、わからなかったが。

「小指には、運命の糸があるって言われてるのよ、パウ」

 握ったままの手を持ち上げれば、ミラーカはパウの小指をもう片手で撫でた。冷たい白色が這う。

「何か約束をするとき、その指を切って約束をした相手にあげて、運命を、全てを、ゆだねるの……約束が果たされた際に、指を預かった人間は、返してあげる……でも指を預かっている間は……その人の運命は、約束をした相手に支配されるのよ?」

 指をほどいて、ミラーカはパウの小指に口付けをした。

 唇は柔らかくて、温度は確かにあった。

「――パウ、あなたは私の道具。私のもの。その証と、約束の証に……指をもらうわ」

 刹那。

 音はしなかった。赤い光が走った。

 それは血の一閃。

 ころりとミラーカの手の上に転がったのは、パウの小指。

「――ぁ」

 遅れて傷口から血が溢れ出して。

「あああああっ!」

 焼けるよりも激しい痛みが、共に溢れ出した。

 溢れ出る赤色は、たちまちあたりを染めていく。パウの胸も、床も。飛沫になって、顔をも赤く濡らして涙と混ざる。

 痛みに悶えながら、確かに見た。小指がなくなっているのを。その切断面を。血塗れの肉を。埋もれるようにしてあった骨を。

 そして――口の端をつり上げて笑うミラーカを。

「ふふ……そんなに驚かなくても」

 ミラーカの手のひらも、血の海になっていた。小指はそこに船のようにあった。

 握りしめれば、ぽたぽたと血は溢れて、ミラーカのワンピースを染める。

 そうして彼女は倒れ込んできたかと思えば。

「それじゃあ、約束よ、パウ」

 痛みと出血に震えるパウを、抱きしめたのだった。


 * * *


 ――ばっ、と、飛び起きる。

 すると、軋むかのような痛みが全身を走って。

「――いてぇ!」

 思わず悲鳴を上げて身をよじれば、パウはベッドから落ちてしまった。床に打ちつけられて、また痛みが走る。しばらく、起き上がれなかった。

 ……カーテンの隙間から差し込んでくる光が、温かかった。耳を澄ませば、小鳥のさえずりが聞こえた。朝だった。

 ゆっくりと身体を起こせば。

「……あ?」

 床についた右手。そこに、小指はあった。

 昨晩、切り落とされたはずなのに。もちろん、左手の小指もあった。

 起き上がって、窓を見れば、映った自分の首にも、何の跡もなかった。

 そこでひらひらとやってきた青い輝きに、パウは飛び退いてしまった。

 ミラーカだ。青い蝶。ふわふわと、戯れようとするかのように、こちらへと飛んでくる。

 ――昨晩見た、あの少女である様子は、全く見えなかった。

「ふふ……」

 いつもの、囁くような笑い声。朝日と踊れば、その青さはより輝く。

「ミラーカ……」

 いつもよりも、ずっと美しい青色。ぼうっとパウは見とれてしまった。

 ――昨日のあれは、全て、夢だったのだろうか。

 罪悪感からくる夢。

 けれども。

「――パウ」

 名前を呼ばれたから、パウは自然と手を差し伸べた。

 蝶がとまったのは――右手の小指だった。

 昨晩、切り落とされた指。

「忘れないでね」

 ――心臓に鋭利な切っ先を突きつけられたかのように、全身の血が冷える。

 蝶はふわふわと、羽を動かしている。

 部屋には、パウとミラーカ、二人だけ。

 朝の空気は、ひどく冷え込んでいた。


【第二章 贖いの誓い 終】

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