第二章(08) 私が人間だった時の姿なんて、知らないものね

 直後に澄んだ音がして、鎖の一本が地面に落ちた。そして身体の肉がかけてしまったようなグレゴは、やはり痛みを気にしない様子で、パウへと突っ込んでくる。

 すぐにパウは瞬間移動魔法で避けた。だが宙に現れていた水晶は崩れて消えてしまう。

「くそっ……」

 悪態をついて振り返れば、こちらに飛んでくるものの、残り二本の鎖にぐいと引き留められ暴れているグレゴの姿があった。癇癪を起こしたかのように飛び回り、血を滴らせている。と、鎖の一本が千切れてしまった。

 残りは一本。千切れるか。それともグレゴの肉が千切れるか。

 どちらにせよこのままでは、自由の身になってしまう。

 鎖が切れた勢いに、グレゴは再びパウへと突進してくる。瞬時に水晶を放つものの簡単に避けられてしまい、体当たりされる直前でパウは横に転がり避けた。グレゴは弧を描いて、空へと飛んでいく――最後の魔法の鎖が、悲鳴を上げて限界を訴えている。

 転がったままパウは今度は光球を放つ。光球は鳥のように漆黒の巨体を目指して昇った。グレゴは易々と避けるものの、光球は標的を追い続ける。まるで威嚇するかのように声を上げながら、グレゴは逃げ回る――鎖は弛んでいる。光球の舞いがグレゴの動きを制している。

 だが光球は柔軟ではあるものの、水晶に比べて魔力の密度が低い。小さくなっていったかと思えば、やがて一つ一つ消えていく。そうでなくとも、地面や樹に当たって次々に消えていく。

 それでもパウは息を切らしながら、もう一度光球を放つ。いくつかはグレゴに当たっている。痛みは与えられなくとも、傷は負わせられている。治りも追いついてはいない。

 今度こそは。震える手を空にかざす。決定打となる魔法を、もう一度。だが。

 ……脳を揺らすような、耳に痛い音。

 鎖が引き千切られた音でも、グレゴの肉が千切れた音でもなかった。

 グレゴが鎖を噛み砕いていた。砕かれた鎖は、溶けるように消えていく――。

 ――まずい!

 すぐさまパウは水晶を放った。だが焦りに標的から少しそれ、切っ先が貫いたのはグレゴの薄い羽だった。

 ――次の瞬間、パウの身体は吹っ飛び、樹に打ちつけられた。ぎりぎりで身をそらして牙からは逃れられたが、その巨体から逃げ切ることはできなかった。

 宙を滑って体当たりしてきたグレゴは、怪我のためだろう、急に勢いが落ちるとそのまま地面に転がった。わめきながらもがいている。痛みに震える様子もなく、何とか起き上がろうとしているものの、今までに確かに負傷させてきたのだ、負傷した身体は、なかなか思うように動かせないらしい。

「パウ」

 グレゴと同じく倒れたパウは、頭から血を流しながらも、地面に手をついた。

「パウ」

 青い蝶が、呼んでいる。

「パウ、いまよ」

 肩にミラーカが止まれば、少しだけ、身体が軽くなったような気がした。

 それは本当に気のせいだったのか。それとも。

 どちらにしても、先に起き上がったのは、パウだった。

 身体を起こして、魔法を構えて、そして。

 いびつな悲鳴が空気を震わせる。まさに起き上がろうとしていたところを、降ってきた水晶に身体を貫かれ、ついにグレゴは地面に打ちつけられた。

 立ち上がりながら、さらにパウは魔法を放っていく。水晶をもう一つ、二つ、三つ。もう逃げられないように。そしてついにグレゴは大人しくなり、限界が来ていたパウも、一歩踏み出してすぐに座り込んでしまった。

「――っ、あ……は」

 身体が熱いのか、寒いのか。感覚がおかしくなってしまっていた。とにかく震えていて、力が入らない。

 だが蝶は羽ばたいて。すっかり動きを止められてしまった、おぞましい怪物の元へ飛んでいって。

 巨大な蠅は、人を喰う怪物。けれども元は人間であり、蝶も元は人間だった。

 そして蝶は蠅を喰らう。口付けをするかのようにグレゴの頭に止まれば、とたんにグレゴはぶるぶると震え出す。それは痛みとともに忘れていた恐怖を思い出しているかのようで、やがて身体は溶けるように崩れてなくなった。

 後に残るのは、黒い染みと、夕焼けに染まる空が忘れていったかのような青の蝶。

 ――これで、三体目。

 パウは横になれば、そのまま目を瞑った。

 ミラーカはパウの手に戻って来る。とまれば、呼吸をするかのように羽をふわふわと動かし続けていた。

「……パウ」

 その声は、今までのものとは違って、何か考えているかのようだったが、パウの意識はすでに沈み込んでしまっていた。


 * * *


 パウが村についたのは、日も沈んでかなり時間が経った頃だった。

「……あんた、一体どうしたんだい?」

 ちょうど薪を取りに外に出ていたのか、一人の村人がパウに気付いた。

「狼や熊にでも襲われたのか……? ああ、怪我を診られる人のところに案内するよ!」

 魔法で応急処置をしたとはいえ、パウはすっかりぼろぼろになっていた。薪を投げ出し肩を貸してくれた村人に連れられ、呆然と歩く。

「……あんた『千華の光』なのに、本当にどうしちゃったんだい?」

 男に案内されたのは、村長の家だった。

 叩き起こされたものの、村長の老婆はちゃんとした傷の手当てをしてくれた。

「そういや噂で、最近大きな蠅がいるって聞いたねぇ……人も何でも食べてしまうんだとか……」

 この村でも、グレゴの噂は広まっているようだった。

「あんたまさか、そいつに襲われたのかい……? いや冗談だよ。そんな妙な話……でも、狼や熊に襲われてぼろぼろになったっていうよりは、少しは格好がつくだろう? 若い『千華の光』さん」

「……そうだな」

 詳しくは話さなかった。話したところで、本当に巨大な蠅がいるとは、住人達は信じていないようだったから。村人達も詳しくは聞いてこなかった。夜遅くに、怪我を負った『千華の光』がやって来たのだ。おまけに口数は少ない。聞きたくとも、不気味でなかなか話しかけられなかったのだろう。

 治療を受けている際、集まってきた村人達に、窓の外からちらちらと見られた。

「あれ……『千華の光』なんだろう? ほら、耳飾り……」

「でもあんなに若い『千華の光』なんて、聞いたことがないよ……それに、強いはずなんだろ?」

「狼か熊にやられたって聞いたけど……」

 パウは彼らを気にはしなかった。

 ――これで三体目。やっと、三体目。グレゴを倒せたのだ。

 もし、あのグレゴに逃げられていたのなら。この村も危なかったかもしれない。

 ……しかしグレゴはまだいる。

 ――そしてベラーに関する情報も、何もない。

 治療を受けて、パウはそのまま、村長の家で一晩を過ごすことになった。

 ベッドに倒れ込んで、深呼吸をする。食事はいるかと聞かれたが、水だけを飲んだ。

 すぐに倦怠感がのしかかってくるものの、ぼんやりとこれからのことを考えていた。

 まだ終わっていないのだ。まだ始まりなのだ。

 必ず成し遂げると、決めたのだ。

 騙し、利用したベラーよりも――自分自身が、許せなかったから。

 ……また大きな街に行って、情報を集めて。

 ……もしかすると、残りのグレゴは、他の地方に飛んで行ってしまっているかもしれない。

 しかし、どこに行ったとしても、追いかけなくては――。

 そしてベラーや、あの研究に関わっていた真実を知る魔術師達も。

 ――『遠き日の霜』と言っていたか。

 ……ところで魔術文明都市デューは、いまどうなっているのだろうか。

 ふと思って寝返りを打つ。

 グレゴについてや、ベラー達『遠き日の霜』について、魔術文明都市デューや他の『千華の光』には、報告していない。

 あの研究所には、上位の魔術師達もいたのだ。デューや魔術師達を管理する者達も。

 もし上層部が絡んでいるのなら、デューはもはや敵地だ。全ての真実を伝えに行ったところで、そのまま始末されてしまう可能性もある。

 誰が敵で、誰が味方なのか、わからなかった。

 ――ベラーに裏切られたこともあって。

 いままでに魔術師に、特に『千華の光』に出会わなかったのは、むしろ安心するべきことだった。怯えなくていいのだから。

 しかしそれ故に、一人で。

 ……だが自分が全ての始まりだからこそ、自分一人でどうにかしなくてはいけない気がした。

 シーツの上で握り拳を作れば、そこにミラーカがとまった。

 その美しい青さ。

 仲間も、全てを知っているのも、彼女だけだった。

「ありがとう、ミラーカ」

 そうしてパウは、目を瞑った。

 ミラーカは何も言わなかった。笑うこともなかった。ただパウに寄り添っていた。


 * * *


 ――名前を呼ばれたような気がした。

 目を開けて、パウは身体を起こした。

 それが、妙に軽くて。そして部屋の中も、何か違っているように感じられる。ぼんやりと、光が漂っているように思えた。

 これは――。

 と。

 パウ、と。

 それは幻聴のようだったけれども、確かに聞こえた。

 振り返れば、妙にはっきりとした視界の中、誰かが立っていた。

 髪の長い少女だった。青く輝いているかのような少女。

 どこかで出会ったことのあるような気がした。彼女が顔を上げれば、青い双眸が露わになる。

 不思議な瞳で、パウは息を呑んだ。澄んでいるけれども、どこか底がないように見える。まるで空や海。綺麗で――恐ろしくて。

 ああ、でも。

 彼女は微笑んでいて。

 ――綺麗な人だな、と思った。

 いままであまり、他人に興味を持つことなんてなかったのに。

「……誰だ?」

 我に返る。

「村長の孫か……? ああ、俺は今晩、ちょっと泊めてもらうことになって……」

 そこまで言ったところで。

「ふふ……」

 それはよく聞きなれた、微笑みだった。

 彼女は瞬きをしたかと思えば、音もなくパウへと寄ってきた。まるで刺青のように黒く染まっている裸足で、軽やかに。

 どことなく、パウは恐怖を覚えた。

 ――そうだ、彼女とは。

 一度、夢の中で。

 とたんに身体が動かなくなって、ベッドに腰を下ろしたまま、動けなくなった。

 毒でもない。魔法でもない。それでも、透明な何かに身体が縛られたかのように動けない。

 何だ、これは。

「――パウ」

 少女は顔を覗き込んでくる。そしてまた微笑むのだった。

「……ふふ」

 ミラーカの笑い方に、似ていた。

「誰って、わからないの? パウ」

 しかしミラーカはこうも話さなかった。そもそも――青い蝶だった。だが。

「……初めてあなたと会った時、私は芋虫だったわね。それなら……わからないかもしれないわね。だってあなた、私が人間だった時の姿なんて、知らないものね」

 ――寒気がした。

 初めて出会った時は、芋虫だった――。

 ミラーカの声で話す彼女は、確かにそう言った。

 まさか。けれども。何故。

 少女――ミラーカはパウの前に立てば、頬を両手で包むようにして、自身を見上げさせた。

 その青い瞳。透き通っていて、しかし底が見えないかのような深淵。

「――本当、に」

 喉を絞められているかのように声は出なかったけれども、パウはかすれた声で尋ねる。

「本当に、ミラーカ……なのか……?」

 かつては人だったのだ。いまでこそ、蝶と化したグレゴではあるが。

 ――グレゴ。そもそも謎が多い上に、蝶になったグレゴがどんな力を秘めているのかなんて、想像もできなかった。

 ただ蠅化したグレゴを喰らうことのできる、大人しい存在だと思っていた。

「夢の中だけど、ようやくこうして話せるようになったわ。あなたがグレゴを三体、食べさせてくれたおかげでね……」

 青い光を帯びた髪は、まさに蝶の羽のようにふわふわと揺れる。

 ――グレゴを喰らったことで、力を得ていたのか。

 思い返せば、ミラーカが初めて言葉を発するようになったのは、一体目のグレゴを喰らった後からだった。

 拙く言葉を発していた蝶――しかしその裏に、人間と同じ意識があったのだろうか。

 と。

「ああやっと、これで」

 ミラーカは、耳元で囁く。

「あなたに復讐ができるわ」

 ――見えない何かが、身体をなぶった。

 縛られたように動けなかった身体は、突然不可視のものによって、壁に激しく打ちつけられた。空気を吐いて、パウはずるりと床に落ちる。

 痛みは確かにあった。全身が砕けてしまいそうな痛みが。

 夢では、ない。

「……よくも私を好き勝手にいじってくれたわね」

 物音が一つもしなかった。しかしいつの間にか、ミラーカは目の前に立っていた。

 魔法を。とっさにパウは思うものの、身体は未だ動けないままで、何かに支配されているかのようだった。

「おもちゃみたいに扱って……その上、都合のいい道具として使って……」

 おもちゃみたいに扱って、というのは、あれこれ実験したことを言っているのだろうか。

 都合のいい道具として使って、というのは、グレゴ退治に使ったことを言っているのだろうか。

 よくはわからない。わからないけれども。

 ――確かに自分は、ミラーカを弄んだのだ。

 人であったことを、知らなかったとはいえ。

 芋虫のグレゴの時に、散々実験をしたのだ。

 人から見れば、苦痛と恐怖と呼ばれるものを与え続けて。

 そして言葉の通り、ぐちゃぐちゃにして。

 それは、グレゴが不死身の生き物であったからこそ。

 ――心は持っていないと思っていた。

「私を、こんな姿にして」

 ミラーカはパウの顎を掴めば、真正面から睨んでくる。

「芋虫の姿より、蝶の方がましなんて思わないわ。だって私……もとは人間だったのよ? それを……さらにぐちゃぐちゃにして……その上私が死ねなくなって、何も言わないからって……いろんなことをしてくれて……」

 少女の笑みは冷ややかで不気味だ。

「最悪の気分よ、パウ……ああ、思い出したの…三体目のグレゴを食べた時に。私はあなたに、ひどいことをされていたんだって……それなのに、いままで都合よく扱われ続けて……」

 冷たい指が、喉に絡む。

「でもこれで……あなたを殺せる。復讐できる……そう、殺したかったの。あなたのことを……! 私を散々弄んだ、あなたを……!」

 きゅっ、と。

 細い指に力が入った。喉を締めつけ、食い込んでくる指。長い爪が突き刺さって、肌が裂けて血が溢れ出る。

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