第二章(07) 人々のために、なりたかったんだろう?
そうして蝶がまた進み始めたから、パウは再び導かれ進んだ。
やがて山を出た。視界を包んでいた木々が払われ、青空が頭上を覆う。花弁の舞う風が頬を撫でる。草原が広がっていた。そしてその鮮やかな緑の中に、村がぽつりとあった。
だが、パウは目を細める。よく見えない目でも、その村に何か異常が起こっていることがわかった――妙な煙が昇っている。
蝶はそれでも村まで飛んでいく。パウも、そこに人がいるかもしれないと追った。
果てにあった村は、ほとんど壊滅していた。
家々が燃えているのはもちろん、血塗れで死んでいる人が転がっている。痛みや悲しみに泣き叫ぶ人々の声が耳を貫く。焦げた臭いと、血の臭い、腐ったような臭い――絶望が、漂っている。
「……何が」
青ざめてパウが見渡していると、肩に蝶がとまった。と。
「――あんた! あんたも、あの蠅に!」
向こうから、男が一人走ってきた。その服は血に汚れ、手も赤く染めているものの、怪我はないようで声と足取りははっきりしていた。
何が起きたのか、詳しくはわからないけれども、無傷の者はいるらしい。
しかしパウには、そのことに安堵できる暇なんてなかった。
――彼は「蠅」と言った。
蠅――何でも喰らう芋虫、元は人であったグレゴが、変異したもの。
まさか、この惨事は。
倒れそうになるものの、男に支えられた。
「見慣れない顔だな、旅の人か? あんたも、あのでかい蠅にやられたのか? ひどい怪我だ……さああと少し、頑張って歩いてくれ! あっちでみんな治療を受けているから!」
パウは何も言えなかった。
あのグレゴが。
壊滅した村の中、いくつもの死体が転がっている。
あのグレゴが。
――自分の研究を利用して作られた魔法薬で、変異したグレゴが。
どうして、こんなことに。
……男に連れられ、村のまだ崩壊していない家々の並ぶ場所に運ばれ、ちゃんとした治療を受けた。医師は幸い、死んでいなかったらしい。
「右目、残ってはいるけどだめだね。左目の方はまだなんとか見ることができるみたいね」
そう言われた。それから。
「その足……ちゃんと歩けるようにはならないかも」
その言葉にも、パウは何も言わなかった。
――簡単な治療を受けて、村の人々と身を潜めていると、いつの間にか、夜になっていた。
ふと顔を上げれば、皆が静かに眠っていた。けれどもその暗闇の中を、青い光が――ミラーカと名乗ったあの青い蝶が、ふわふわと漂っていた。どこかへ行こうとしている。
蝶はふわふわと進む。村から少し離れたところへ。パウもふらふらと追った。
追いついたところで手をさしのべれば、蝶はとまってくれた。
「もういない」
蝶はそう囁く。
「遠い場所」
たどたどしく、幼子のように。
「わからない」
少しして、蝶がグレゴの話をしているのだと、パウは気がついた。
「お前……グレゴがどこにいるか、わかるのか?」
尋ねても、もう蝶は何も囁かなかった。
……思えば、ミラーカは蠅のグレゴを食べていた。
それはミラーカもグレゴであるからだ。こんなに美しい見た目でも。芋虫の頃にあった凶暴さが微塵もないけれども。そして、人も何も、喰わないものの。
「……お前、腹、空かないのか?」
返事はなかった。そもそも、グレゴが空腹故にあらゆるものを食べようとしているのか、その点も、まだ謎だった。
――蠅化したグレゴは、全部で十二体と、ベラーは言っていた。
崩壊した研究所跡に、もう蠅のグレゴの姿はなかった。それどころか、芋虫のグレゴの姿もなく、残っていたのは血溜まりだけだった――おそらく、蠅化したグレゴが、芋虫達を全て喰らってしまったのだろう。あの芋虫達は、行動は遅い。逃げ切れたとは、思えない。
互いに、元は人であったのに。
そして蠅化したグレゴ達は、研究所を離れて――人々が生活している場所へ。
一体はミラーカが食べたものの、残り十一体が、世界に放たれた。
他の村でも、こんなことが起きているのだろうか。振り返って、パウは崩壊した村を見据える。
自分のせいで。
自分が、何も疑わなかったせいで。
知らなかったと、いくらでも言い訳はできるけれども。
正しいことを、したかったのに。人々のために、なりたかったのに。
――世界を創った神は去ったのだという。
――だから奇跡を起こす力を持った魔術師が、人々のために生まれる。
自然と、手を固く握りしめていた。
涙に潤んだ目を擦る。
――人々のために、なりたかったんだろう?
ここで挫けている暇なんてない。
師匠、ベラーだって、どこかに去ってしまったのだから。
自分が始まりなのだ。
自分で終わらせなければ。
……そのために、ミラーカがいるのかもしれなかった。
――先に、進まなければ。
これは自分の過ちの結果。信じ切って、何も疑わなかった結果。好奇心のままだった結果。
――償いの旅が、始まった。
* * *
……名前を、呼ばれている。
「――パウ」
妙な体勢になっていることに、気付く。足下に空があった。そこをミラーカが舞っていた。
「パウ」
もう一度名前を呼ばれて、パウは身動ぎをした。半ばひっくり返るかのような体勢で、樹に引っかかっていた。服や髪に、木の葉がくっついてしまっている。
全身が痛んだが、それでも身体を起こして、何があったかを一つ一つ思い出していく――そうだ、グレゴとの戦いで、崖から落ちてしまったのだ。だが慌てて魔法を放って。
落下の衝撃は、うまい具合に和らいだようだった。大怪我を負わずには済んだらしい。
樹から降りて、服や髪についた葉を払う。眼鏡をなくさなかったのは大きい。これがなければ、まともに見えないのだから。
そうして改めて空を見れば、どうも夕方が近いように思えた。どのくらい気を失っていたのだろうか。
まさか気を失っているうちに、再び街を襲っては――。
「杖」
ミラーカが地面に落ちていた杖にとまった。そして舞い上がって急かすのだった。
「こっち」
「……あのグレゴは、まだ森の中にいるのか?」
返事は、ふふ、と、微笑みで済まされた。空のかけらのような青い蝶は、緑の中を進んでいく。
「……お前、腹減ってるのか?」
その問いに、何も返ってこなかった。ミラーカは先を急ぐ。パウと距離が開いてしまえば、そこで留まる。
杖を拾えば、パウは歩き出した。陽は傾きつつある。青空は黄みを帯び始める。色あせていくかのようだった。
ミラーカを追って進んだ果て。先から、めきめきと音が聞こえてきた。
樹を折る音。葉のさざめきは、抵抗しもがいているかのようだった。
「……ああやって樹を喰っていたわけか」
パウは物陰に身を潜めれば、倒した樹を食む巨大な蠅を見据えた。
あたりはすっかり開けてしまっていた。喰い残しの樹皮や葉が風に震えている。
動物の姿はない――だから仕方なく、草木を食べているのだろうか。
何にせよ、絶好の機会だ、相手はこちらに気付いていない。
しかしどうしたものか。あのグレゴは、どうも前のグレゴと違って燃えにくいようであるし、痛みを感じていないかのようだった。そうでなければ、自分の身体を引き裂いてまで、襲ってはこない。
大切なのは、弱らせて、動きを止めること。
そうすれば――蝶のミラーカが捕食できる。
……一本の鎖でだめだったのならば。
深く考える必要はない――増やせばいいのだ。
一本が肉ごとちぎられても、逃げられないように。
手をかざせば、その場に魔法陣が浮かび上がった。宙に留まり続けるそれは、パウが静かに歩き出しても消えることはない。そのままにして、パウは静かに距離を開けば、また魔法陣を出現させる。
仕掛けるは罠。これで一気に仕留めるつもりだった。いまの自分に仕掛けられる罠は、最大で三つ。それ以上は、うまく扱えるか自信がない――以前は十でも軽々と扱えたのだが。
三つを仕掛けて、いよいよパウは魔法の発動にかかる――緑を食べているグレゴは、まだ気付いてはいなかった。ひどく飢えているのだろうか。
……深呼吸をして、よく集中する。一気に三つの魔法を発動させるのだ。
そしてパウは、目を開いた。
――仕掛けた魔法陣から、鋭利な先を持つ太い鎖が三本、一斉に放たれる。
悲鳴が響き渡った。柔らかい肉を貫く音。漂う腐敗臭に似た、鼻をつく臭い。
三本の鎖は見事にグレゴを捕らえた。その巨躯を貫き、拘束する。
突然の攻撃に、巨大蠅はくわえていた枝を落とし、羽を広げて暴れ始めた。狂ったように宙でもがけば、ぼたぼたと黒い血が溢れ出る。
「――よし!」
一つも狙いを外さなかった。パウは茂みから飛び出せば、すぐさま新しく魔法を構える。弱らせなくては。光球を放つ。
光球に怯えたグレゴは避けようと一度は地面すれすれまで降りた。けれども光球は追ってくる。標的に当たれば爆発する。
グレゴはより悲鳴を上げて、もがき、更に暴れ宙に舞い上がった――どんなに傷をつけても、痛みを知らないらしいこのグレゴは、なかなか大人しくならない。
やはり、地面に打ちつけるしかないか――パウは空に手を構えれば、グレゴの真上に魔法陣を出現させる。そしてその魔法陣から氷柱のように生えてくるのは、どこまでも透き通った水晶。
だが放とうとしたその時だった。
ぶちぶち、と。それは一度、聞いたことのある音だった。
あのグレゴが、自らの肉を引きちぎる音。
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