第二章(06) ミラーカ

 パウはただ、愕然とするほか、なかった。

 自分が一体何をしていたのか。何を信じていたのか。

 何を知らなかったのか。何をしてしまったのか。

 頭が回らない。回らないというよりも、考えたくない。

 だって、こんなことは。

 言葉にならない声ばかりが漏れる。そして血を薄めたのは、涙だった。

 痛みばかりが、現実なのだと、自分を貫く。

 しかし起き上がれない。下半身にのしかかった瓦礫は、どこまでも重い。

 ――巨大な蠅が、距離を縮めてきている。おぼつかない足取りなのは、足下が悪いからなのか、はたまた歩くこと自体に慣れていないのか。

 だが、その目は確かに、パウを捉えていた。

 ……まだあがこうと、思ったのは。

 ――まず一つ、単純に、死にたくないという思いがあったからだった。

 泣いている暇なんてない。瓦礫にもう一度、魔法を構える。やはり不安定な魔法陣はすぐに薄れて消えてしまうものの、

 ――いま死んだら、後はどうなる!

 無性に苛立ちを感じた。全てに。絶望に沈み込みそうな自分自身にすら。

 ――魔法陣の輝きが濃くなる。形がはっきりとしてくる。

 ようやく放たれた光の波動が、瓦礫を吹き飛ばした。埋まっていた身体が露わになる。

 目立って大きな怪我はなさそうだったが、立ち上がろうとすると、ずきんと鈍い痛みが片足を襲って、パウは思わず顔をしかめて身を丸めた――骨か。それとも。

 治癒魔法を施している余裕はない。ぎいぎいと、嫌な鳴き声が間近でした。あの巨大な蠅――かつては芋虫だったグレゴが、すぐそこまで迫ってきていた。

 とっさにパウは魔法を放った。完全に凝縮する事はできなかったものの、魔力は光の球となって巨躯に襲いかかり、弾ける。グレゴの耳障りな悲鳴。衝撃に破けた羽と、傷ついた身体が見えた。ところが。

「……ほ、本当に、あの、芋虫、なのか……!」

 羽が再生するのが見えた。そがれたような傷のできた身体、その表面が埋まっていくように治っていくのが見えた。そしてグレゴは、元のように、また距離を詰めてくる。

 このままでは、勝ち目がない。そうとわかっても、パウは魔法を放ち続けた。そうするしかできなかったのだ。だがその魔法も、最初のもの以外は、よそへと飛んでいってしまった――よく見えないのだ。その上、まだ魔法の発現は不安定で、ついに魔法陣は揺らぎはじめた。

 震えながら、息をしていた。

 気付けば、真上に巨大な口があった。

 蠅であるのに牙のある奇妙な口。涎と血が混じったものが、滴っている。

 手を床について逃げようにも、もう目が離せなくなっていた。

 グレゴ。巨大な芋虫のようなものだと、思っていたもの。

 元は人だったらしいもの。自分の研究の結果を元に、さらにおぞましい姿になってしまったもの――。

 口が大きく開かれる。

 覚悟も恐怖も、何もなかった。本当に、何もなかった。

 ただ見ていた。見つめていた。まるで他人事のように――。

 ――。

 ―――――。

 青い輝きが、過ぎった。

 蝶、と、パウは唇だけを動かした。

 それは紛れもなく、あの青い蝶だった。パウと、彼に今にも食らいつこうとしていたグレゴの間を、ふわふわと飛んでいった。

 グレゴもその輝きに見とれていた。頭が蝶を追って、ゆっくりと動く。その巨大な複眼に、空よりも透き通っていて海よりも深い青色が反射する――。

 我に返る。手を構える。くっきりとした魔法陣が出現する。

 一瞬の集中。魔力が凝縮する。結晶化する。

 ――鋭利な水晶が放たれる。

 黒い血が噴き出た。いびつな悲鳴が上がった。

 グレゴの漆黒の巨体が、パウの傍らに転がった。

「……はっ、あ」

 水中からやっと頭を出したかのように、パウは息を吸いこんで、吐いた。

 危なかった。何をぼうっとしているのだ、自分は。

 今のうちに。そう思うものの、やはり足が痛んで立ち上がるのは難しい。それでもパウは、這ってグレゴから距離をとった。

 グレゴは死んではいなかった。不死の生き物だ、身体を貫いた水晶が消えれば、その怪我はあたかも溢れ出る血が肉になるように、埋まっていく。再生していく。

 と、その漆黒の巨躯に近づく輝きがあった。

 ――あの蝶だった。

 はっとして、パウは逃げることを忘れてしまった。

 美しい蝶は、どこも怪我をしていない。いま研究所がこんな状況であるのに。ガラスケースが割れた際に、怪我をしてもおかしくはなかったのに。

 蝶は。

 ……蝶はグレゴにとまった。細い足で、ふわりと。

 その次の瞬間、グレゴが急に暴れ出した。足をばたつかせ、羽を震わせる。狂ったように悲鳴を上げる。まるでひどく怯えているようだった。

 しかしそれもほんの数秒の間だけ。とたんにグレゴは、ねじのきれたおもちゃのように、大人しくなった。大人しくなって、ぴくりとも動かず、果てに――もともと腐っていたかのように、巨大な蠅は溶けていった。身体が崩れる。液体になる。そして消えていく。

 何が起きたのか、パウにはわからなかった。

 溶けた。消えた。

 ――死んだ?

 思い出す。たった一つ、グレゴを消せる方法を。

 ――共食い。

 青い蝶――その姿に進化したグレゴは、花でも探すかのように、宙を舞っている。

 食べたのだ。あの蝶が。あの蠅を。

 機嫌良さそうに羽ばたく蝶を、しばらくの間、パウは眺めてしまっていた。と、蝶はふと、目の前まで降りてくる。

 喰われるかもしれなかった。

 しかし恐怖心は一つもなかったし、その時「蝶に喰われる」なんて、少しも思わなかったのだ。

 ただ、目の前の輝きが美しくて。

「――ふふ」

 声が聞こえた。笑い声だった。蝶の声だった。

「ふふふ……」

 蝶が笑っている――喋っている。

 自然とパウは、手を差し伸べた。すると蝶はとまってくれた。

 何よりも美しいものが、いま、この手にあった。

「――ミラーカ」

 と。蝶は言う。

「ミラーカ」

 ――その意味に、パウは最初、気付けなかった。首を傾げるも、美しさと愛らしさに微笑みを浮かべていた。

 だが悟って、青ざめた。

 名前――名前だ。この蝶の名前。

 ――元は人間なのだ。

「ミラーカ」

 蝶はその名を言い続ける。おそらく、人間だった頃の名前を。少女のような声で。

「ミラーカ……」

 かすれた声でパウがその名前を呼べば、蝶は手から離れてふわふわと羽ばたきはじめた。

「ミラーカ」

 相変わらず、名前を囁きながら。

 ……やっとわかって、パウは口を開いた。

「パウ」

 彼女は名乗り続けている。その意味は――きっと、名乗り返してほしいという意味だ。

「……パウ」

 ようやく蝶は「ミラーカ」以外の言葉を話した。

「パウ」

 どこか、嬉しそうに。満足したように。

 世界が揺れたのは、それからすぐの事だった。

 轟音があたりを満たし、かき乱す。壁や天井に亀裂が入る。

 そして次の瞬間、どこまでも続く暗闇と、静寂が訪れた――。


 * * *


 生き残れたのは、間違いなく運が良かったからだろう。

「パウ」

 呼ばれて目を覚ませば、手に青い蝶がとまっているのが見えた。それから見えたのは、自分の上で重なり合った大きな瓦礫。けれども自分は潰れてはいなかった――運良くできた瓦礫の隙間にちょうどいたのだ。

 だから死なずに済んだ。相変わらず視界はぼやけている上に、全身、特に足が痛いけれども。

 蝶――ミラーカはパウが目覚めたことに気付けば、ふわふわと飛びはじめた。瓦礫の隙間を縫うように、先へ、先へ。パウも追って這う。

 光が見えてきた。

 朝日だった。その中へ。眩しい中、立ち上がる。

 そしてパウが見たのは――全てが崩れた世界だった。

「……そん、な」

 研究所は完全に崩壊していた。前を見ても、後ろを見ても、左右を見ても、何も残っていない。あるのは瓦礫だけ。瓦礫と――その下からちらほら見える、人の死体だけ。

「……誰か」

 瓦礫に埋まっていた男の元に、ふらふらと寄る。触れると冷たかった。だから別の者のところに向かうものの、その人物もすでに血塗れで、息をしていない。

 朝日に照らされる中、しばらくパウは生き残っている人間を探した。

「……みんな、死んだ、のか……?」

 だが運良く生き残っていたのは、確かに自分だけだった。ほかの者は死んでいた。下敷きになって死んだのだろう者や、真実を知っている魔術師に殺されたのであろう者。そして身体の一部が噛みきられたように欠損して死んでいる者もいた。

 誰も、生きていなかった。いるのは、自分一人だけだった。

 ……ゆっくりと、全身の力が抜けていった。膝をつく。

 もう、どうしていいのか、わからなかった。

 ――それでも、立ち上がれたのは。

「パウ」

 青い蝶が、名前を呼んだからだった。

「行こう」

 青い蝶のグレゴは、どこかへと飛んでいく。少し離れたところで、宙に留まる。

 だからパウは、歩けたのだ。

 あの美しい輝きが、呼んでいるから。

 何でもよかった。

 何かに、すがりつきたかった。

 そうでないと、もう動けなくなってしまうような気がして。

 凶暴さも敵意も一つも見せない蝶は、まるで道を照らすかのように先へと進む。

 導かれ、ひどくゆっくりではあるけれども、パウは研究所跡から歩き出した。緑の生い茂った道なき山道を、蝶を追って下りていく。

 研究所は山の中腹に隠れるようにしてあったため、整えられた道はなかった。けれども心なしか、ミラーカは比較的なだらかな場所を選んで進んでいるようだった。途中、川に出る。そこで青い蝶は、まるで休めというように石にとまったものだから、パウも座り込んで、少しだけ休憩をした。

 全身は軋んだように痛みを帯びたままだった。特に足が痛くて、視界も妙にぼやけたまま。いまさら治癒の魔法を施したところで、どうにもならないことは明らかだった。時間が経ちすぎてしまった。

 だが痛みを和らげる魔法だけは施した。蝶がどこに行こうとしているのか、どれくらい自分を歩かせるつもりなのかは、わからない。しかし歩いて冷静になったことで、やっとパウは自分の身をどうにかしようと思えたのだ。

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