第二章(05) 人間の末路なんだよ


 * * *


 ――身体を芯から震わせるような轟音が聞こえる。

 ――全身に、まるでのしかかってくるような鈍い痛みがあった。

 ――どうも、足がおかしい。

 声を漏らして、パウは目を開けた。視界がぼやける。痛くて完全に目を開くことができない。それでも自分が俯せに倒れていることだけは、わかった。

 一体何が。自分は何をしようと。頭の中も、ぼやけている。

 そうだ、師匠に、蝶になったグレゴを見せたくて。

 だが――何が起こった?

 息を吸い込めば喉が鳴った。と、苦しくて咳き込めば、より全身が痛んで、身体を見れば。

「……あ?」

 瓦礫に埋もれてしまっていた。

「なん、だ……?」

 血のにおいがした。それは自分の血で、頭から出血していることに、ようやく気がついた。ぽたぽたと、床に垂れている。

 耳を澄ませば、悲鳴と炎が燃えさかる音が聞こえた。

 そうしてやっと、理解した。

 ――研究所が、崩壊している。

 目の前を見れば、血に染まった紙が落ちていた。蝶になったグレゴについて、いままでまとめてきたものだった。宙を漂っているものもあり、炎に触れると、あっという間に燃えて消えていく。しかし、いまはそれどころではなかった。

 一体何が起きている。何か爆発したのか。

 まずはここを抜け出さないと。パウは瓦礫の下から這い出ようと、床に両手をついた。だが全身が痛んで、そしてあたかも何か引っかかっているかのように、抜け出すことができなかった。力めば、出血ばかりがひどくなって、頭の怪我からより深紅が流れ出た。

 思いついて、パウは瓦礫に向かって手を構えた。自分が動けないのなら、瓦礫の方を動かせばいい。魔法で吹き飛ばしてしまえばいいのだ。

 けれども、出現した魔法陣は、まるで水に落ちたインクのように宙で滲んで形を成さない。

 果てに空気に溶けるようにして完全に消え失せてしまった。

 怪我のために、魔法がうまく使えなくなっていたのだ。

「くっそ……」

 諦めてパウは、何とか力尽くで這い出ようと、もう一度床に手をついた。しかし全く動けない。身体が痛むだけ。加えて出血のためか、再び頭の中がぼやけてくる。

 そうしていると、どこかでまた爆発が起きたのか、崩壊したのか、再び世界は大きく揺れた。

 このままでは。さらに施設が崩れたのならば、生き埋めになってしまう。

 ――ぼやけた視界の中。先にある廊下。そこを人影がよぎった。

「師匠!」

 よくは見えなかったが、パウにはわかった。

「師匠……!」

 通り過ぎかけた人影は、呼び声に立ち止まった。じっとこちらを見るかのようにしばらく動かなかったものの、やがてゆっくりとやってきた。

「ああ、パウ……」

 ベラーはパウの前に屈み込めば、血で頬に張りついた髪を耳にかけてくれた。

「一体、何が……! 助けてください……」

 パウは師匠を見上げた。しかし――ベラーはすぐには、動かなかった。じっとパウを見下ろして、無表情のまま。

 再び、どこかで悲鳴が上がる。と。

「――ベラー様!」

 廊下から、一人の魔術師が。それはパウと同時期にこの研究に参加した、まだ若い魔術師だった。彼は。

「一体何が起きているのですか――」

 刹那。ベラーは振り返ることなく、手をひらりと上げた。その指先に立つようにして魔法陣が現れ、鋭利な水晶が放たれた――こちらに来ようとしていた魔術師の胸に、突き刺さった。

 一瞬の出来事だった。防ぐ間も与えられなかった魔術師は、膝から崩れ、動かなくなった。

「なに、を……」

 ベラーが、仲間の魔術師の命を奪った。

 何かの間違いかと、パウは思った。

 しかし敬愛する師は無表情のままで。

「君を助けることはできない。パウ」

 いつもの優しい笑みに、おもむろに表情は変わる。

 この場に似合わない笑み。いつも見ていたはずなのに、得体の知れなさがあった。

「君は用済みだ。ここで死んでもらおう」

 ――何を言われているのか、わからなかった。

 ――幻聴かと思った。悪い夢を見ているのかと思った。

「師匠……?」

 ……唖然としていると、ベラーはふふ、と笑って、溜息を吐いた。

「――何もわかっていないのだね。君は本当に純粋で……盲信的だ。言われたことを信じ切って……本当に、都合のいい子だった」

 手を伸ばしてくれば、血に汚れた頬を撫でてくれた。

「君は私にとって、最高で、最悪の弟子だった……せめて、自分が何をしていたのか、最期に知っておきたいだろう? 教えてあげよう……悔いて苦しんで死んでくれたのなら、私の気分も少しは晴れる……」

 パウは何も言えなかった。

 ――自分の中で、何かがゆっくりと崩れていっているような気がした。

 ベラーは言う。

「……君は、本当にグレゴが自然に現れるものだと信じていたのか? 現れても私達が大事になる前に手を打っているから、皆に知られていないのだと、本当に信じていたのか? 皆に知られたのなら混乱が起きるから、外に漏らしてはいけないと、本当に信じて黙っていたのか? ……おかしな話だと、少しも思わなかったのか?」

「だって、師匠が、そう……」

 ベラーがそう言ったのだ。ベラーだけではない、ほかの上位の魔術師達も。

 確かに妙だとは思った。けれども――師匠のベラーがそう言ったのだ。

 敬愛する師である、彼が。

「ふふ、君は本当に……ああ、だから研究に誘ったのだけれども……でも君の生み出した魔法薬のおかげで、我々は大きな成果を得ることができた……」

 ベラーの言葉は優しげな声であるものの、淡々としていた。

「……君の魔法薬のおかげで、グレゴが進化したのだよ。あの魔法薬のおかげで……グレゴが大人しくしている間に、より調べることができた。それだけではない、あの魔法薬をベースに新たな魔法薬を作ってね。そして……あの虫けら達は新しい姿に進化した……」

 新しい姿。

 まさか、あの蝶のように? しかしこの騒動は一体。

「――けれども、進化したグレゴは、私達の想像以上に凶暴だった……そのせいで一匹が抜け出して、設備を破壊して……この有様だよ。壊された魔法機器の暴走による爆発で、全てが台無しだ。進化した検体十二匹も、逃げ出してしまった……」

 つまり、この爆発は、この崩壊は、グレゴによるもの、というのだろうか。

「この研究所は終わりだ」

 ベラーは続ける。

「研究協力には感謝する……不老不死への道は、まだ得られなかったけれども」

「……ふろう、ふし?」

 聞き慣れない言葉が出てきた。鸚鵡返しにパウは呟いた。

 ――またどこかで起きた爆発に、地響きのようにあたりが揺れた。誰かの断末魔が、聞こえる。

 パウ、と師匠が諭すように名前を呼ぶ。

「グレゴとは――元は人間なのだよ」

 人間。

 あの巨大で気味の悪い芋虫が、元は人間――。

 すっと顔が青ざめていくのがわかった。決して、出血のためではなかった。

 もし、それが本当だとしたら。しかし本当に人間なのだろうか。

 あれはそんな風には見えなかった。そんな風には見えなかったからこそ――様々な「実験」をしたのだ。

「あれはね、パウ」

 まるでパウが絶望するのを、喜んでいるかのように、ベラーは口の端をつり上げた。

「あれは不老不死のための研究材料として使われた、人間の末路なんだよ」

「……どう、いう……?」

 共食いをしあっていたグレゴの姿が思い出される。何をしても死なない巨大な芋虫もどき。共食いでしか死ぬことはない。魔力、魔法が複雑に絡まった、謎の生き物――。

「どうしても、芋虫のような姿になってしまうのだよ。人間を不老不死にしようと、魔法を施し続けると……何度やっても何をやっても、最後には理性を失い他者の魂に飢えた芋虫になってしまう……」

 ベラーは微笑んでいた。まるで、人を人と見ていないかのように。

「それでも、まだ利用できるかもしれなかった……グレゴは確かに不死のようなのだから。その上、非魔術師を滅ぼす兵器になり得るかもしれない……だからまだ、研究を続けていたのだよ」

 非魔術師を滅ぼす兵器。それは。

 ――魔術師でない人間を、滅ぼす。

 魔術師は、人々のための存在であるのに。

 ベラーの耳では『千華の光』の証である耳飾りが輝いていた。

 パウは、声も出せなかった。

 ――正しいことを、していると思ったのだ。

「……嘘、ですよ、ね……?」

 やっと絞り出した声は震えていた。

「師匠……そんな話、は……」

 信じたくなかった。

 けれども、自らの血にまみれた手は、固く握られていた。瓦礫やガラスの細かな破片が肉に食い込もうが、それでも力は抜けない。血が、新たに滴る。

「――君は本当に優秀だった。我々『遠き日の霜』の思想にあわない魔術師でも、優秀であれば、不老不死研究のことは伏せて、研究に参加させる――その中でも、パウ、君は本当に優秀な魔術師だった……」

 ベラーはゆっくりと立ち上がる。

「きっと、君は将来、私以上の魔術師になれたのに」

 手についたパウの血を、宙で払う。瞳が冷たさを纏った。

「――ああ、君の正義感は、本当に残念だったよ。我々魔術師とは、選ばれた人間であるのに。進化のためには、無能は、劣等種は、捨てなくてはいけないのに……私は君の、そこが嫌いだった……」

 そこまで言って、ベラーははたと顔を上げた。何かを感じ取ったかのように、視線をよそに向ければ、どこか満足そうに溜息を吐いて、元の微笑みを浮かべたのだった。

「そろそろ行かないと……君のように何も知らない者は、ここで全員死んでもらうよ」

 そしてパウを押しつぶしている瓦礫の向こうを見れば、より目を細めて微笑む。

 ――奇妙な音が聞こえた。何かの鳴き声のようだった。

「一体残っていたか……見てごらん、パウ」

 ベラーがそれを指さす。天井が崩壊して、その瓦礫に半分ほどが埋まってしまった廊下の向こう、奇妙で巨大な影が見えた。

「君のおかげで、グレゴは進化した……手懐けることはまだできなかったけれども……より凶暴に、機敏になったよ」

 それは蠅のような姿をしていた。漆黒の胴体。透明な羽。足は細いものの、しっかりと胴体を支えている。けれども口には牙があった。背筋の凍るような鳴き声とともに、涎が溢れ出ている。

 あの巨大な芋虫もどきが進化したものとは、思えなかった。

 巨大な複眼がこちらを捉える。と、口から涎とともに、何かがぼとんと落ちた――人間の腕。

「――それじゃあ、私は行くよ」

 かつ、と足音が聞こえる。だがパウは、蠅になったグレゴから、目を離せないまま。

「さようなら、パウ」

 やっとベラーの方を見た頃には、その姿は瞬間移動魔法で消えてしまっていた。

「――師匠……!」

 上擦った声はもう届かない。しかしその声に反応するように、巨大な蠅が、のそのそと這ってくる――。

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