第二章(04) あいつが街を襲ったグレゴか


 * * *


 十分な睡眠はとれなかった。

 ……健全な身体、健全な魂でこそ、秘めた魔力を最大に扱える。

 魔術師にとって寝不足は大敵だった。けれども、もう眠っている時間はない。

 ――そもそも、あの事故の後遺症で、以前よりもずっと魔力が扱えなくなっているのだ。寝不足による不具合なんて、比べればとるに足らない。

 何よりも今は、あの街が再び襲われる前に、グレゴを仕留めないと。

 ――森の中。ミラーカが先をふわふわと飛んでいく。まるで導くかのように。

 わかっているのだ――この先に、グレゴがいる、と。

 青い蝶を追って、パウは杖をつきながら、遅くも進む。街の住人達によると、グレゴはこの森に消えていったという。だがまだ近くにはいないようだ、輝く羽を持った蝶は、未だ喋らない。

 それでも、朝日が木漏れ日となって差し込む森の中、不意に、妙なにおいが鼻をついた。

 顔を歪めてパウが見れば、動物の死骸が落ちていた。鹿だ。大きな鹿。足がなく、はらわたが出てしまっている。足から腹を噛まれたような欠損だった。

 グレゴの仕業だと直感でわかった。けれども妙だった。

「……ここのグレゴは、食べるのが下手なのか?」

 ココプ村には死体が一つもなかった。残さずグレゴが食べたのだろう。

 だがこの森には、一部だけがかじられた動物の死体が残っている。思い返せば街もそうだ、死人も多かったが、怪我人も多かった――かじられたが、生き残った人々が多かったのだ。

 おそらく、この森に潜んでいるのであろうグレゴは、食べるのが下手だ。よく食い残している。

 一言でグレゴといっても、それぞれ違いがあるようだ。ココプ村にいたグレゴと、その後ロッサ村を襲ったグレゴの大きさも違っていた。

 ――俺が最初に見た蠅化グレゴは、幸いとろい性格だったみたいだしなぁ。

 そう思わず考えてしまう。個性や特徴がそれぞれあるのか、と。

 それもそうか。

 ……元は人。人と同じで、違いがあってもおかしくはない――。

 さらに進んでいくと、奇妙に折れた木々が見えてきた。

「……野菜好きなのか? 食べるのがやっぱり下手なのか?」

 見れば、鳥の死骸や小動物の死骸も転がっている――木々の緑を喰らう際に、一緒に噛んだのか、それとも逆か。いや、いままで見てきたグレゴは、植物よりも、血の通った生き物を好んでいた。おそらく、動物を食べようとして木々も。

 血肉を求めたのならば、街を襲った理由にも見当がつく――街なんて、餌場と同じだ、人が集まって生活しているのだから。

 やはり、一刻も早く殺さないと。

 おそらく、底なしの飢えを抱え続けているのだ。だからグレゴは、あらゆるものを喰らう。あらゆるものの血肉を、魂を、生命の力を求める。

「――こっち」

 唐突に、ミラーカが慌てたように羽ばたき始めた。急いでパウも追う。

「近いのか?」

 尋ねても、ミラーカは答えてはくれなかった。ただ、急ぐ――この蝶も、飢えているのだ。

 けれども。

「――こっちに来てる、危ない」

 それは、初めて聞く、ミラーカの言葉だった。そんな風に、はっきりと危険を伝えるなんて。やはり、どこか片言な話し方だが。

 少し驚いて、パウは立ち止まってしまった。ミラーカは急に進行方向を変えたかと思えば、逃げるように羽ばたいていく。とっさにパウも、その青い輝きを追って進んで。

 刹那。風を切る音。緑を裂いて、黒い突風が吹いた――ちょうど、先程までパウとミラーカがいた宙を、呑み込むように。

 風の衝撃に半ば倒れるようにしてパウは飛び込んだ。背後で衝撃音、続いてめきめきと音がする。

「……あいつが街を襲ったグレゴか」

 振り返った先、勢いを殺せず、大木に突っ込んだ巨大な蠅の姿があった。

 巨大といっても、比較的小さなグレゴだった。口も小さい、だから食べるのが下手だったのかもしれない。けれども羽だけは大きく見えた。身体に対して、随分と大きい。

 その羽を小刻みに動かして、グレゴは大木から剥がれるように離れた。樹は折れて倒れてしまったが、グレゴは宙に留まりながら、ぎいぎいと声を上げてパウを睨みつける。

 すぐさまパウは手を構えた。放ったのは、魔力を凝縮させて固めた水晶。風を切って、飛んでいく。

 けれどもグレゴは、滑るようにして横にずれて避けた。水晶は後ろの樹に刺さり、消える。 

 パウは間髪入れずに水晶を放ち続けた。もう一度。またもう一度。きらめきが宙を切り裂く。流れ星が昇るかのように、空へ飛んでいく。だが――黒い巨大な影は捕らえられない。

 よく敵を睨む。その動きを、予測する。

 改めて、パウは息を止めて水晶を放った。と。

 ――閃光が、オイルのように輝く薄い膜を、捕らえた。

 耳をつんざくような悲鳴。片方の翼を貫かれたグレゴは、ふらふらと宙を漂い、果てに地面に落ちた。そこへパウは、また水晶を放つ。

 水晶の切っ先は、迷うことなく敵を捕らえた。輝きはグレゴの身体を貫く。黒い血が飛沫となってあたりに飛び散った。異臭も強く漂う。

「――よし」

 片目の視力が復活することはない。もう片目の視力も、眼鏡で矯正はしているものの、怪我を負う前とはやはり違う――それでも少しだけ、狙いになれてきた。

 なれてくればこちらのもの。扱える魔力も大幅に落ちてしまった上に、体力もなくなってしまったが、それでも手数と技術で――。

 パウが大きな魔法陣を出現させれば、その輝きは赤色を帯びた。中央から溢れ出たのは、深紅の炎。蛇のようにうねって、グレゴに飛びかかる。

 そして炎上する、黒い影。黒い血が蒸発して、より黒い煙が上がった。その煙すらも、炎は焼くようで。しかし。

 殺意のこもった蛮声が上がった。そして炎の中にある黒い影は、その炎を纏ったまま――パウへと突っ込んできた。

 いまだ再生していない羽を動かして。口を大きく開いて――。

 考えるよりも先に、パウは瞬間移動魔法でその場を離れた。グレゴは止まることを知らない。旋回すれば、現れたパウへともう一度突っ込んでいく。だからパウは威嚇するように水晶を放ったものの、

「――嘘だろ……!」

 グレゴは避けることなく、正面から水晶を受けた。水晶はグレゴの頭に刺さった。けれども止まらない。まるで痛みを知らないかのように、わずかに怯んだだけで、グレゴは飛んでくる。

 とっさにパウはもう一度瞬間移動魔法でグレゴから距離をとった。軽く息を乱しながら敵を見据えれば、羽の怪我や頭の怪我が再生している様子は薄い。だが、どうも燃えている、といった様子はうかがえない。炎を纏っているといった具合だ――あのグレゴは燃えにくいのか。その上、おそらく痛みを感じていない。衝撃に悲鳴を上げることはあるが、痛みをものともしていない――。

 グレゴの突進を、パウは横に避けた。もう、すぐに瞬間移動魔法を使う余裕は残っていない。だが振り返りつつ、新たな魔法を放つ。

 イメージしたのは、鎖。そして構えた手の前に魔法陣が現れ、飛び出したのは、想像した通りの鎖。

 鋭い穂先はグレゴの漆黒の身体を目指して鳥のように飛び、突き刺さった。返しのついた穂先は、簡単に抜けることがない。パウはもう片手で魔法の柱をイメージし作り出せば、鎖の根本をそこに繋げた。

 飛んでいたグレゴが、ぎぎっ、と短い悲鳴を上げて地面に落ちた。鎖に繋がれ、それ以上飛べなかったのだ。ところがまだ飛ぼうとする。鎖を引き千切らんと、狂ったように飛び回る。炎はすっかり消えていて、傷も癒えはじめていた。それでもまだ血は滴っていて、暴れるほどに、雨のように地面にぼたぼたと垂れていた。

 しかし鎖を結びつけた柱は、びくともしない。鎖も千切れることはない。

 これがパウの実力だった。

 落ち着いてパウは魔法陣を展開すれば、グレゴへと構え狙いを定める。大丈夫、これなら一人でも戦える――。

 その時だった。

 ぶちぶち、と嫌な音。身の毛もよだつような音。

 鎖が千切れた音でも、柱が折れた音でもなかった。

 ――グレゴの肉が、千切れた音だった。

 糸を引いて、グレゴの肉が千切れた。噴き出す黒い血とともに、鎖の穂先が刺さったままの肉がぼとんと落ちる。

 そしてグレゴは、痛みにもだえる様子もなく、突進してきた。

 予想もしていなかったことに、パウは反射的に水晶を放ってしまった。水晶はよそへと飛んでいき、グレゴに少しもかすらない。

 パウには避ける余裕もなかった。

 だが。

 ――鉄と鉄がぶつかるような、どこまでも空気を震わせる音。

 パウの目の前に現れた、半透明の板。それが、グレゴの突進を食い止めた。

 寸前で、パウは盾を作り出したのだ。

 しかしグレゴは食い下がったまま。羽をさらに震わせる。黒い血がより噴き出た。

 刹那。半透明の盾に、亀裂が入った。そして短い悲鳴を上げて砕け散る。

 ――襲い来る衝撃。浮遊感。

 パウの身体はいとも簡単に吹っ飛ばされた。木々の緑を越えて、空へ。

 一瞬の気絶。けれども宙で、すぐに我に返る。全身が軋んでひどく痛むものの、瞳は自分を追って羽ばたくグレゴを捉えていた。

 無意識にパウが放ったのは、いくつもの光の球。水晶よりも密度の低い魔力の塊であるそれは、あたかも蛍のように、ふわりとグレゴに飛んでいく。まるで意思を持っているかのように、標的へと向かうそれ。と、グレゴが慌てて速度を落とす。けれども光球は追ってくるものだから、巨大な蠅は地面の方へと飛んで逃げていく。

 なるほど、直線に飛ぶ水晶と違って、ああいったものには、苦手なのか。

 そう、考える。と、重力に身体が引っ張られ始めて。

「パウ」

 青い蝶の声が聞こえた。

「パウ、落ちるよ」

 言われて気がついた。

「――!」

 地面が遥か下にあることに。

 ――吹っ飛ばされたとき、そのまま崖の先まで飛ばされたのだ。

 木々の生い茂る地上は、遙か彼方。このまま落ちたら、ひとたまりもない。

「くそ――」

 地上に向かって、手のひらを構える。

 風が頬を切るように冷たい。マントのはためく音がうるさい。

 吸い込まれるように落下していく。頭から落ちていく。

 ――しかし、こんなところで死ぬわけにはいかないのだ。

 ――魔法陣から噴き出したのは風。

 森の緑色に、落ちていく――。

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