第二章(03) こんなにわくわくしたの、多分初めてなんだ


 * * *


 かつて、魔法と魔力について教えてもらった際に言われた――魔力とは世界を変える「鍵」であり、可能性の力である、と。

 神は世界を創った後に去った。だから魔法というのは、神なき世界で未来を切り開くための力と言われていた。

 魔法には、大きく分けて二種類がある。

 一つは「魔力そのものを武器や道具として使う」魔法。魔力とは液体に似ていて、固めて武器として使ったり、また形を想像し、造形したものを道具として使ったりできる。これが、主に魔術師が何かと戦う際に使う魔法。

 もう一つは「魔力であらゆる事象に干渉し変化させる」魔法。

 これが治癒の魔法であり――呪術や変化の魔法だった。

 魔力は液体のようで、インクのようでもあった――対象に、魔力で起こしたい事象を刻み込むのだ。

 もっとも、何でもできるわけではない。鍵穴を見つけても、正しい鍵でないと開くことができないように、その魔法が効果を出せる隙間を対象に見つけなければいけないし、見つけたとしても正しい鍵、あるいは開きたい場所に繋ぐ鍵が作れなければならない。

 ――自室にグレゴを持ち帰ってしまったパウは、ひたすらにそのグレゴに後者の魔法を施した。変化に、変化を重ねさせる。

 研究所内といっても、秘密の研究故に施設にある設備は使えない上に、パウも表での研究がある。全てが終わって眠る前に、毎日こつこつと、そのグレゴの研究、実験を進めた。

 やはりグレゴだ、暴れて襲ってくることは何度もあった。その度に魔法の鎖で縛って押さえつけたが、魔力の気配やグレゴの声、物音でばれたのではないかと、ひやりとした時がないわけではなかった。それでも誰にも気付かれなかったのは――単純にパウの魔術師としての技術が高いためだった。

 グレゴの気配や声、それに魔力を隠す魔法を、部屋に施していたのだ。

 研究所には、ベラーをはじめとした、パウよりも腕のある魔術師が多くいた。だが、誰にも気付かれなかった。

 そうして、こそこそと研究を進めていって、やがて、最初はまるまる太った豚のようだったグレゴは――本物の芋虫のように、小さくなった。

 なんとか隠し続けているが、こんなに大きいとやはり管理に困る――そう考えて、パウはまずグレゴを小さくできないか試し、成功に至ったのだった。

 とはいえ。

「……何がどうしてこうなったのかわからない」

 円柱状のガラスケースの中。とりあえず入れてみた木の枝を、小さなグレゴは這って登っていた。まさにただの芋虫。その前で、パウは何枚もの紙を手に、肘をついて頭を悩ませていた。

 何が決め手になって、このグレゴが小さくなったのか。それがわからないのだ。

 あらゆることを、半分はまじめに、そして残り半分はグレゴという未知の生き物が相手故に遊びながらやったために。

 一応、いつ自分が何をしたか、いつこのグレゴが何をしていたか、どうなっていたか、という記録はつけている。つけてはいるのだが。

 ――ある日から突然徐々に小さくなっていったわけだから。

 ――何かが遅れて効果を見せ始めたか。それとも相乗で?

 ――繰り返しかけた魔法もある。一回では効果を見せなかったが数回目で何かが作用した可能性も……。

 その上、ずっとこのグレゴを観察していたわけではない――自室にいない間、このグレゴは何をしていたのか、どんな変化があったのか、誰にもわからない。

 しかし、確認できた範囲のことは、全ては記録してある。施したことも全て記録してあるのだ、手間はかかるが再現は可能であるはずだ。 

 そして――ここまでが限界かもしれない。パウはそう感じていた。

 もうそろそろ、ベラーに言わないと。

 隠そうと思えば、隠し続けられるだろう。だが、これ以上の研究は、やはり、ちゃんとした設備をもって研究するべきだ。

 何はともあれ、あの巨大な芋虫もどきを、ここまで小さくできたのだ。

 もはや無害……とはまだ言い切れない。小さくなってもグレゴは飢えていて凶暴だ、そしてやはり死なない。小さくなった後、パウは火であぶってみたり、毒を与えてみたりしたが、やはりグレゴは死ななかった。死を得られる生き物にはできなかった。

 だがあの巨大な姿の時よりも、ずっと無害だ。枝をよじ登っている姿なんて、まさに芋虫。誰も不死身だとは思わない。よく食べるだけの、気性が荒い芋虫だと思うだろう。

 けれども結局、パウはベラーに報告できなかった。

 というのも――ある日から、グレゴは弱ったような姿を見せるようになったのだ。

 しばらくの間、パウはグレゴに何もしていなかった。もう報告しなくてはいけない、これ以上、余計なことをするべきではないと考えて。だから何かをしたためではない。しかし小さくなったグレゴは、ある日から動かなくなり、パウが生きた小さな虫や新鮮な葉物、果てには自分の指を目の前で振っても噛みつかなくなった。

 一体どうしてしまったのだろうかと、心配になった。それでも、四六時中グレゴを見守っているわけにはいかない。日中は自室を留守にしなければならなかった。

 そしてある日、自室に帰ってきた時。

 あの小さなグレゴは。

「……蛹だ」

 白い蛹になっていた――蝶の蛹だ。

 だからベラーに報告できなくなった――この先、もっとすごいことが起こるとしたのなら、いまは黙っておきたくなった。

 驚かせたかったのだ。師匠を。

 その上、ベラーは最近忙しいらしく、なかなか声をかけづらいというのもあった。

 パウは、この蛹が羽化するまで待つことにした。

 確認できた範囲ではあるものの、経過はしっかり記録しているのだ、その時に渡せば、問題は少ないだろう。

 グレゴが蛹になってからは、自室に帰れば毎日見つめて羽化を待った。

 あのグレゴがこんなに小さくなって、蛹になって。この先は一体どうなってしまうのだろうか。

 もう予想ができない。予想ができないからこそ――より惹かれてしまう。

「なあ、早く出てきてくれよ?」

 気付けば声をかけるようになっていた。それほどに待ちわびていた。

 だが、なかなか羽化する様子を見せなかった。最初のうちは、もぞもぞとかすかに動いている様子を見せていたのだが、それがすっかりなくなり、やがて白色だった蛹は、徐々に明るさを失っていった。まるで石になっていくかのように灰色になっていき、果てに――炭のように黒くなってしまった。

 漆黒の蛹は動くこともない。まさか、死んでしまったのだろうか。

「なあ……動いて見せてくれよ。まだ生きてて、羽化するんだって、見せてくれよ……」

 不死であるグレゴに死が与えられるのはいいことだが、これではその先を見られない。

 その先を、見たかったのだ。

 魔法でグレゴの様子を見ようにも、いまどうなっているのか、見ることができなくなっていた。蛹になっている間に、グレゴにかかっている魔法の構造は、パウが想定していたよりも遙かに複雑になっていたのだ。もう何もわからない。

「……頼むよ」

 蛹が黒に染まって五日経った夜。やはり変化のないそれを前に、パウは机に突っ伏した。

 蛹はうんともすんとも言わない。

「……こんなにわくわくしたの、多分初めてなんだ」

 そうしているうちに、寝落ちてしまった。

 ――夜中に目を覚ましたのは偶然か。それとも、何かの運命だったのか。

 ふと、パウは目を覚ました。反射的に時間を確認すればまだ夜で、机ではなくベッドで寝ないと、と、身体を起こした。

 その時に、気がついた。

 黒くなって死んでしまったのかと思っていた蛹が、もぞもぞと動いていることに。

 寝ぼけ眼をこすって、パウはまじまじと円柱状のガラスケースを見つめた。目の錯覚なんかではない。ガラスケースにいれた枝、そこに張り付いて立っている蛹が、震えるように動いている――。

 慌ててパウはペンと紙を手にした。

 と、ぴしり、と。

 蛹の頭が、裂けた。ゆっくりと、花開くかのように、開いていく。

 ――黒い頭が、出てきた。

 芋虫の頭ではない。

 それは紛れもなく――蝶の頭。

 息を呑んで、パウはそれを見つめていた。記録をつけようと握ったペンも、動かさずに。

 おぼつかない足取りで、蝶は蛹の中から這い出てきた。足に力が入らないのか、うまく枝を掴めないのか、まるで転ぶかのように体勢を崩しながらも、長い触覚をぴんと立たせる。伸びていた口をくるくるとまとめて、そうして、黒い身体と、これまた黒く小さく折り畳まれた羽が出てきた。

 蝶はなんとか身体の全てを蛹から出せば、その場にとどまった。震わせるかのように、羽をかすかに動かしている。腹も見ればうねるように動いていて、確かに生きていた。

 紛れもなく、蝶だった。グレゴが、蝶になった。

「……すごい!」

 我に返って、パウは記録を取り始めた。その特徴を記し、行動も記していく。感想も勢いで書いてしまい混じってしまうものの、抑えられる余裕なんてない。

 夜の闇のような羽は、だんだんと開いていく。まるで呼吸をするかのように動いていた。やがて完全に開ききって、夜色の蝶が現れた。

 蝶は枝に掴まったまま、大きく羽ばたく。模様も何もない、真っ黒な羽。と。

 その時、パウは見た。

 黒かった羽。黒曜石のようなその色。それが光を帯び始めたのだ。

 それは、どこまでも深い、青色。

 ――あたかも、世界の端から夜が明けてくるかのようだった。

 その輝きは、宝石よりも美しかった。きらめく海よりも、星の輝きよりも。

 神秘的で、寒気を覚えるほどの青色。いままで見てきた中で、間違いなく一番美しいものだった。

「……」

 息が止まる。

 瞬きをすれば、涙がこぼれた。記録をつけていた紙に落ちた。

 あの巨大で不気味な芋虫が。

 こんなに美しい生き物に。

 ――ベラーが忙しいのは、十分にわかっていた。おまけにいまは夜中だ。

 それでもパウは涙を拭えば、いままでの研究の記録と、蝶をいれたガラスケースを抱えて、ついに自室の外に飛び出したのだった。

 もう黙ってはいられない。

 ベラーに見てもらいたかった。この美しい生き物を。一刻も早く。

 共有したかった。この感動を。この美しさを。

 褒めてもらいたい、という気持ちや、怒られるかもしれない、といった不安はなかった。そんなものは、いまはどうでもよかった。

 とにかくいまは、宝物を分けたかった。

 けれども、いくらベラーの部屋の扉をノックしても、扉は開かなかった。

 ――もしかして、研究室の方に?

 そう思って、パウはベラーの部屋から離れ、研究室の方へ向かっていった。

 ……ガラスケースの中。枝に掴まったまま大人しくしていた蝶が不意に暴れ出したのは、ちょうどその時だった。

 突然せわしなく羽ばたき始めた。青い羽は瞬くように輝く。

 あまりにも暴れるものだから、パウは心配して立ち止まった。

 刹那。

 ――妙な気配。妙な空気。妙な感覚。

 思わずパウは振り返った。その瞬間。

 ――耳を貫くかのような轟音。全身の骨が折れてしまうのではないかと思うほどの衝撃。

 身体はいともたやすく、吹っ飛んだ。

 そして世界が崩壊していくような音。ガラスの割れる音――。

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