第二章 贖いの誓い
第二章(01) あれは、グレゴ、というんだよ
ぶにぶにとした体表には、整列した黒や茶色の斑点。てらてらと濡れたように輝いた身体をもつそれは、ガラスの向こうで這っていた。
姿形、まさに芋虫と言っていい、それ。
「――師匠、これは、何ですか?」
芋虫が特別苦手というわけではなかった。それでも、パウは嫌悪を覚えて顔を歪めていた。
何故ならその芋虫のようなものは――人よりも大きかったから。
牛ほどはない。しかしまるまる太った豚ほどはある。果たしてこれを「芋虫」と呼んでいいのか、わからなかった。小さければ何とも思わなかった。しかしこれほどに大きいと――恐怖や嫌悪を覚えても仕方がなかった。
その上。
――ガラスの向こう、活発に這っていた一匹が、別の活発な一匹にたどりついた。
ぐちっ、と音が聞こえた。
寒気の走るような音で、パウは身を竦めた。芋虫もどきが別の個体に噛みついたのだ。
噛まれた方はぎぃぎぃと悲鳴を上げて暴れ出す。頭を振って悶えるものの、噛みついている方は食いついたまま。
芋虫もどきの口は、どうも通常の芋虫と違っているようだった。噛みついた一匹は、隙を見てさらにぐち、ぐち、と噛み千切り肉を喰らっていく。
ぽたぽたと、芋虫もどきの体液が垂れていた。赤みがかった黒の体液は、人間の血に少し似ていた。顔を汚しながら、芋虫もどきは芋虫もどきを食べ続ける。悲鳴は絶えることがない――。
「……うっ」
吐き気を覚えて、パウはガラスから離れた。
「大丈夫か? ……ここに座りなさい」
そう言って近くの椅子へ座らせてくれたのは、師である魔術師――ベラーだった。
光に当たれば銀に見える灰色の髪は長く、向かって左側には三つ編みが垂れている。端麗な顔は優しそうで、その通り優しい師であり、紺色の瞳は心配の色に染まっていた。
「……すまない、少し刺激が強すぎたね」
耳の一方には『千華の光』の耳飾り。
パウと同じく、かつて若くして『千華の光』になった才能のある魔術師。その人のよさからも人望が厚く、まだ若いものの、年寄りの魔術師達にすら文句を言わせない男だった。
「すみません、師匠。自分が少し、情けないです……」
腰を下ろして、少しだけ休んだパウは、改めてガラスの向こうを見つめる。
ガラスの向こう。すでに芋虫もどきの半分がなくなっていた。驚異的な速さで、もう一匹の芋虫もどきは、同じ芋虫もどきを食べている。
だが捕食されている方は、まだ生きていた。未だに悲鳴を上げて、悶えている。
「……あれは、グレゴ、というんだよ」
ベラーは教えてくれた。
グレゴ、とパウは呟いた。ベラーは続ける。
「不死身の芋虫でね……その上何でも食べてしまうんだ。どうしようもない怪物だよ……だから私達はここで、あれの研究をしているんだ。人々のために」
「――人々のため?」
ぎぃっ、と芋虫もどき――グレゴが悲鳴を上げた。だがその悲鳴も遠く、パウにはベラーが頷くのだけが見えた。
「不死身で何でも食べてしまう……そんな生き物が、ある日突然人々の生活する場に現れたら、どうなってしまうと思う? それ以前に生態系を壊す生き物であるし、謎の多い生き物なんだ……だから研究をしているんだよ」
ベラーは再びガラスへと向かえば、グレゴ達を見据えた。
向こうはグレゴの体液ですっかり汚れてしまっていた。またグレゴがグレゴに噛みつけば、飛沫がガラスに飛んだ。
怯えてパウはまた身を竦めてしまった。ベラーは笑みを浮かべていた。
「……君が『千華の光』になって私の元を離れてから二年。君の活躍は、私もよく耳にした。この研究所の上の魔術師達も」
そして、パウを見て、
「だから、今日は君をここに連れてきたんだ。君は優秀な魔術師だ、ぜひ、研究を手伝ってもらいたい」
「……俺が、ですか?」
思いがけない言葉に、パウは驚いた。
「ああ。パウ、君だよ。一緒に研究してくれないか? 人々のために」
人々のために。
人々のために――師匠と一緒に。
……師匠は、喜んでくれるだろうか。
優しそうな紺色の瞳と目があった。すると、ベラーはまた微笑んで。
「どうしたんだい、パウ……少し難しいかな」
「い、いえ!」
慌ててパウは立ち上がった。その勢いにベラーが驚いて一歩下がったが、パウは姿勢を正した。
後ろに流した黒髪。人々のための魔術師になると誓い得た耳飾りが、はっきりと輝いた。赤い双眸は、敬愛する師を見つめる。
「やります。やらせてください、師匠」
それはまだ、パウが事故に巻き込まれる前の話。
グレゴの真実を、この研究所の真実を、そしてベラーの正体を知る前のことだった。
* * *
妙な臭いが、風に乗って流れてくる。
眼鏡の向こう、赤い瞳をパウは細めた。
ふわふわと飛ぶミラーカは何も言わないが。
「……ただの火事じゃない」
そう呟いたパウの先には、黒い煙を立ち昇らせた街があった。まだらに雲がある昼の空を、黒く染めようとするかのように煙は濃い。
街に近づくにつれ、パウは歩みを早めた。といっても、杖をついているために、そこまで急ぐことはできなかったけれども。
ミラーカはやはり何も言わない。青い羽を羽ばたかせ、ついてくる。
――グレゴはいない、ということか。
そして門をくぐって、街の中へ。
すすり泣きが聞こえた。怒声と、絶望の声も。痛い痛いという悲鳴。
崩れた家。すっかり燃えて跡形もなくなった建物。未だ炎に包まれている店。
舗装され整えられていた街道は抉られ、血が広がっている。
小さくても、綺麗だと、かつて聞いたことのあったその街。
まるでお伽噺のようだった。
「――大丈夫か!」
子供の悲鳴が聞こえ、パウは足を引きずるようにして走り出す。
「ひぅ……お母さん……お父さん……!」
少女ががれきの山に寄りかかるようにして座っていた。頭から血を流していて、片腕には大きな火傷を負っていた。また足にも何か大怪我を負っているようで、血にまみれていた。
「大丈夫だ、まず足を見せろ……」
足をよく見れば、噛まれたような跡があった。そこから出血していた。
手を添えて、パウは治癒の魔法をかける。魔法陣から放たれる光が、傷をゆっくりと癒していく。少女は驚いて泣くのを止めた。その間にも、徐々に傷を塞ぎ、痛みを取り除いていく。
「よし……」
そうして傷を塞いで、血を止めていく。
だがこれは応急処置の魔法だ。仮止めにすぎない、数日は安静にしてもらわないと。その上、少女はまだ、いたるところに怪我をしているのだ。
どこか安全な場所は。そう見回していると。
「――おい! ここにも怪我人がいるぞ!」
男が一人、やって来た。大きな怪我はしていないものの、擦り傷や汚れにまみれている。と、遅れてきたもう一人の男が気付く。
「あんた……『千華の光』か! よかった……!」
「治療できる場所は?」
尋ねれば、男は少女をゆっくりと抱き上げながら、
「病院は無傷で残ったんだ! 助けてくれ……!」
言われなくともそうするつもりだった。
「その子の足は応急処置をした、ただ魔法がほつれるかもしれないから、気をつけてくれ」
男に案内され病院に向かう。もう一人の男は、他の怪我人を助けに街を進んでいった。
病院は何人もの怪我人で溢れていた。ベッドはもちろん足りず、外までにも人が横にされていた。
男は外に敷かれたシーツの上に、少女をおろした。
「……妙な蠅が、街を襲ったんだ」
と、彼は言う。
「妙な蠅だった。大きくて、人に噛みついて……建物を壊して……めちゃくちゃにされたんだ……!」
パウは下唇を噛んでいた。
――間に合わなかった。
「ああ! 痛い……痛いぃ……」
そこで一段と大きな悲鳴が聞こえた。反射的にパウは立ち上がり、そちらへ急いだ。
先には、脇腹を真っ赤に染め横たわる女と、その女の怪我を手当てしようとしていたのだろう、ガーゼを持った男が彼女に寄り添っていた。
「我慢して! いま手当てをするから……」
「痛い……触らないで……」
男がそう言うものの、女は泣き叫び続けている。逃げようと身動ぎすると、さらに出血がひどくなり、服を赤に染めた。
「――落ち着け」
パウはそこに割り込んだ。すぐさま治癒の魔法を施す。女は最初こそ怯えたものの、痛みが薄れていくのに気付いたのだろう、叫ぶのを止めてじっとその光を見つめ始める。
治療には、思った以上に時間と魔力を費やした。どうやら傷は深かったらしい。
「……数日動くな、完全に治ったわけじゃない」
やっと終わって、額の汗を拭いながらパウが言えば、女は頷いた。
「あ、ありがとうございます……僕じゃあ、どうしようもできなかった……!」
礼を言ったのは、手当てを試みていた男だった。そこでパウは気がついた。
「お前も怪我してるのか?」
「あっ、これは……」
男が何か言う前に、パウは彼の右手首を掴んでいた。
「……切断は治せない。治癒魔法は、回復を促し一時的に治すだけだから……」
男の血に汚れた右手。その小指が、中途半端な長さになっていた。しかし、よく見て、パウは瞬きをした。
「……ん?」
「これは前に『指贈り』で切ったものですから、大丈夫です。心配してくれて、ありがとうございます」
聞き慣れない言葉だった。と、男は今し方治療をした女に尋ねる。
「ミカグを見ませんでした? 多分、あなたと一緒にいたと思うんですけど……」
落ち着きを取り戻してきた女は、頷いた。
「ええ、ええ、蠅に襲われるまで、一緒に仕事していたわ……で、でもあの子……あの子も、蠅に……噛まれて……」
「ミカグも蠅に噛まれたんですか! ミカグは……生きてるんですか?」
そこで足を止めたのは、新しい包帯を持って駆けていた少女だった。すっかり泣き腫らした顔でも、はっとして男を見つめた。男も気付いて彼女を見つめ、尋ねた。
「……君はミカグの知り合い? ミカグは……ここにいる?」
……少女は唇を震わせ、何も言わなかった。
やがて、最初に向かおうとしていた方とは別の方へ駆け出す。そしてまるでついてこいというように、立ち止まり、振り返る。
男は少女を追って駆け出す。パウも続いた――見届けなくてはいけない気がした。受け止めなくてはいけない気がしたのだ。
少女はついに立ち止まる。そこには布で隠された女が横たわっていた。顔も、身体がどうなっているのかも、わからない。しかし布をかけられ隠されていても、その形が妙でパウにはわかった――片腕と、片足がない。
そして、動かない。
「そんな……そんな……!」
男はその遺体に寄り添った。涙が、血で汚れたシーツに落ちた。
「ミカグ……ミカグ……ああ……これは……」
と、残っていた片腕、その手が何か小袋を握っていることに気付いて、男はついに声を上げて泣き始めた。
「約束を守れなかった……! 君は待っていたのに……! もう少し早く帰ってきていれば……! どうして……どうして……!」
死人は生き返らない。男は小袋を握ったままの遺体の手を、包むように握りしめていた。
小指の切れた手で。
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