第一章(04) 来てる
* * *
やはり、夕方までにココプ村には着かなかった。
道をそれて、森の中へ。そうすれば夕方までに着く予定だったが、森に入ったところで、陽は沈んでしまった。パウの進みが遅いためだった。
仕方なく、野宿することにした。火を起こして簡単に夕食を済ませる。必要ないかも、と思っていたものの、準備しておいてよかったと、アーゼはパンをちぎった。
だが、故郷の村のある方を見つめる。大丈夫だろうか。母親もひどく心配しているに違いない。
パウと一緒に行こうと思わなければ今頃――いや、しかし――。
少し強い風に、森がざわめく。気持ちの悪いことに、何の生き物の声も聞こえなかった。聞こえるのは、目の前の焚き火が爆ぜる音だけ。
「――その剣」
と。
焚き火の向こう、足を投げ出すようにして樹に背を預けていたパウが、不意に口を開いた。
「お前、随分いい剣を持ってるんだな……あんなど田舎なのに、珍しいな」
アーゼが傍らに置いた、剣を見据えて。
「ど田舎ってお前な……その通りだけどよ……」
アーゼはわずかに目を据わらせた。けれども剣を手に取れば、少しだけ鞘から抜いた。
銀の刃が、炎の赤色に輝く。
「お前の剣なのか?」
そう尋ねられたものだから、
「……いや、正しくは俺の親父のだ。傭兵だったんだよ、結婚して、お前の言うあんなど田舎に移り住む前はな……」
「……それもただの傭兵じゃなさそうだな、ただの傭兵でも、そんなにいい剣は持ってない……何か手柄でもあげて、もらったものなのか?」
その言葉に、アーゼは驚いて目を丸くした。その通りだった。
「……ていうか、これがいい剣だって、お前、わかるんだな」
剣を鞘に納めれば、透き通った音がした。
「……親父は死んだ。村を守ろうとしてな」
そうしてアーゼは、元のように剣を傍らに置いた。
パウが首を傾げた。
「腕のいい剣士のはずじゃなかったのか? そんな剣を持って」
「――腕のいい剣士でも、かすり傷で死ぬことはある……相手のナイフに、毒が塗ってあったんだ」
――それは、自分がまだ子供の頃の出来事だった、と、アーゼは話した。
このあたりは、田舎といってもいい場所。そしてロッサ村は、近くの他の村と比べて小さく、戦う道具も技術もない。
だから、大きな盗賊団に目をつけられた。
けれども、元傭兵の人間が一人、村には住んでいたのだ。それもただの傭兵ではなかった。
元傭兵は一人、剣を振るって盗賊達に立ち向かった。たった一人でも、数十人いる敵へと。
それで村を守った。いくらかものを奪われてしまったし、怪我人も何人か出てしまったが、大きな被害から村を守ったのだ。
だがまだ終わりでないことを、元傭兵はわかっていた。たった一人の人間に、それもこんな村の人間にやられて、盗賊達が黙っているわけがない。その通りで、一度撤退した盗賊達は、躍起になってもう一度村を襲うことを考えていた。
もう一度盗賊達がやってくる前に、元傭兵は自ら敵の拠点に乗り込んで、二度と村を襲えないようにしようと考えた――村の人々の反対を押し切って。再び、一人で。
「――まあ、勝ち目のない話だと、誰もが思うだろうよ……でも、やり遂げたんだ、親父は。たった一人、敵のキャンプに乗り込んで、全員をとっちめた……」
強い風に、焚き火が揺れた。と、アーゼが左腕を指で撫でた。
「でも、本当に最後のことだったらしい、盗賊の一人のナイフが腕をかすめたのは。それで……治療も間に合わなかった」
ぱち、と焚き火が鳴く。剣はもの言わずに横たわっている。
「……それで、親父の代わりに今度は自分が村を守るって、張り切ってるわけか」
パウはすっと森の闇へと視線を投げた。
しばらくの沈黙が流れた。風は弱まることがなく、空を見れば雲一つない。木々の緑の向こう、月ははっきりとしてそこにあった。明るい夜だった。
やがて。
「……なあ、俺のことを話したんだ。俺も、お前に聞きたいことがある、答えてくれるか?」
ふと、アーゼは口を開いた。パウがアーゼへ顔を向ける。
その黒髪ですっかり隠れた、顔の右側――右目。
「……お前、不自由してるのは右足だけかと思ったけど……右目、見えてないんだろ?」
「……」
眼鏡の向こう、かすかにパウは目を細めた。それが答えだった。
「やっぱり見えてないんだな?」
なんとなく、そんな気がしていたのだ。足を悪くしているために、歩き方がおかしいのだと思っていたのだが、それにしては妙にふらついているし、先程も樹にぶつかりそうになっていた――。
右足も悪くして、右目も見えていなくて。
「……なあ、お前、本当にその怪我は何なんだ?」
尋ねれば、パウは逃げるかのように、再び暗闇に視線を投げた。
呆れてしまう。こちらは話したのに、やはり自身のことは話さないなんて。
思わずアーゼは深く溜息を吐いた。その溜息は、夜の闇に嫌なほどに響いた。
果てに。
「……なあ、俺はお前を信用していいのか?」
それは、不安からくる確かな言葉でもあったが、嫌味でもあった。
――やはりパウは何も答えなかった。のそのそと横になったかと思えば、準備してあった毛布に身を包んだ。寝るつもりらしい。傍らに置いてあった荷物に、青い蝶、ミラーカもとまる。
仕方なく、アーゼも眠ることにした。横になり、毛布を被る。
信用していいのか、わからない。けれども。
――妙な安心感はあるのだ。
それは多分、一人ではないから。
父親と同じほどに、自分が強くないのはわかっている。だから父親と同じように一人で物事を成すのは難しいと、心の奥底では、わかっていた。
だから。
「――裏切られた」
と。
「――爆発に巻き込まれて、がれきの下敷きになった」
その声に、アーゼは寝返りを打つ。そうして見たパウは、こちらに背を向けていて、もう何も話そうとしなかった。
* * *
――うるさい。
ぱち、とアーゼは目を覚ます。何か、うるさい。
あたりは暗く、まだ夜中のようだった。焚き火の炎は心地よさそうに踊っていた。
「――……」
声が聞こえた。誰かが、何かを言っている。見れば。
「何だこいつ……」
毛布にくるまったパウが、何かぼそぼそと言っているようだった。弱々しい声で、苦しそうな声を漏らしている。
「――……」
――うなされている。
アーゼはしばらくパウを見つめていた。パウはこちらに背を向け、毛布にくるまって丸まっている。どこかすすり泣いているかのようで、止むことがない。少し待っても、終わらない。
「……おい、おい!」
大丈夫なのだろうか。アーゼは立ち上がれば、パウの肩を叩いた。
「――違う、俺は、正しいことを、したくて」
しかし、それだけではパウは起きなかった。うなされ続けている。
「――師匠、どうして」
「……おい!」
だからアーゼは、少し強めに肩を叩いた。
瞬間、その手を払うようにして、パウが起き上がった。ぎょっとしてアーゼをしばらく見つめる。アーゼも驚いてその場に凍りつく。と、しばらくして、パウは額のかすかな汗を手で拭えば、眼鏡をかけて、不機嫌そうに、
「何だよ……起こすなよ」
「……いや、お前、うなされててうるさいから」
一体何の夢を見ていたのだろうか。アーゼが言えば、ふと、パウは真顔になった。やがて、
「――あー、悪かったな。でも叩き起こすなよ、全く……」
パウは再び眼鏡を外せば、横になった。しっかりと毛布を身に纏う。
アーゼは、パウを見つめたまま。
「……お前、大丈夫なのか?」
身じろぎせずにアーゼがパウを見据えていると、彼はわずかに振り返って、まだそこにアーゼが起きていることを認めた。
「……寝ろよ、お前。寝不足はよくない」
そう返ってきたが、質問は無視された。仕方なく、アーゼも自分の寝床へと戻っていった。ぐちゃぐちゃになった毛布を広げて、再び寝入ろうとする。
変な夜だ、と思っていた。仰向けになれば、長く息を吐く。
――その視界の端で、青い光が舞っていた。
「……ちょうちょ、お前も寝ろよ」
パウの青い蝶。夜中であるものの、いまのやりとりに起きてしまったのか、ひらひらと羽ばたいている。焚き火の上をぐるぐる。燃えてしまいそうで、少し不安だ。
「――パウ」
蝶は焚き火の上を何周かした後、今度は横になったパウの上を、蝶であるのにまるで蜂のようにせわしく羽ばたく。
「パウ」
何度かパウの身体にとまって、起こそうとするかのように。
「パウ」
それはただならない事が起きているかのようで。
ゆっくりとアーゼは身体を起こした。青い蝶は繰り返す。
「パウ」
「……何だ、ミラーカ」
四度目の呼びかけで、やっとパウがミラーカを見つめた。
蝶は言った。
「来てる」
たったそれだけを。強い風に、煽られながらも。
パウは、その言葉の意味を考えようとするかのように、ミラーカを見つめたままだった。しばらく経っても、固まったまま。
「……何がだ?」
痺れを切らしてアーゼは尋ねる。蝶は一体何を言おうとしているのだろうか。そしてパウは何を考えているのか――。
「――隠れるぞ!」
次の瞬間、突然パウが叫んだかと思いきや、立ち上がった。荷物をかき集めるようにしてまとめ、杖を手に取る。
「お、おい……」
あまりにも突然のことに、アーゼは目を丸くして彼を見上げることしかできなかった。
と、刹那、パウは焚き火に手をかざしたかと思えば、その手の平の前に小さな魔法陣が現れた。直後に魔法陣から輝く水晶が飛び出し、焚き火に刺さる。すると火は水晶の光に包まれるようにして消えた。煙も出ない。あたりが闇に包まれる。
「おい!」
何を考えているのかと、アーゼは叫びながらも荷物をまとめる。パウを見れば、ミラーカを連れて急いで森の中を進んでいる。
「急げ! 焚き火で場所がばれてないといいが」
「待て、何が来てるんだ!」
慌ててアーゼはパウを追った。パウは杖をつきながらも、急ぎ足で進んでいく。
「不意打ちを狙いたかったが……どうだか!」
けれども何が起きているのか、アーゼにはわからなかった。
何が来ているというのだ。何をしようというのだ。
「頼む、説明してくれ、何が来てるんだ!」
そこでやっと、パウが振り返った。
「何って――」
――より強い風が森を撫でた。木々が折れるのではないかと思うほどにしなって、勢いにアーゼもパウもよろめいた。
風ではない。何かが真上を飛んでいった。一度通過したそれは、再びこちらへと飛んでくる。木々を押し分け、こちらへと――。
「避けろ!」
パウに叫ばれずともわかっていた。アーゼは彼と共に横に飛び退けば、暗闇から突進してきたそれを避けた。それは、ざっと地面を滑って着地する。
――それは熊よりもずっと大きい図体だった。ぎぎぎ、と、不快な鳴き声を上げて、優しいはずの月光にぎらぎらと輝く羽を震わせる。巨大な複眼もぎらついていて、あたりを見回していた。
あまりにも大きいが、その姿が何に近いかと言えば――蠅。
ところがその口は、蠅とは構造が違う――牙のようなものが見えた。
「は……?」
呆然として、アーゼは声を漏らしてしまった。暗闇で姿の全てはわからないものの、目の前にいるのは、確かに蠅に似た巨大な何かだった。
その「蠅」はのそのそと振り返る。そしてその目で、アーゼを認めて。
――これが。
――これがココプ村を襲った奴?
気付けばアーゼの身体は震えていた。
相手にするには、敵はあまりにも大きかった。そして、得体が知れなかった。
――これが?
悪寒が走る。想像もしていなかった。想定の範囲を越えていた。
巨大な蠅のようなそれ――グレゴはアーゼを見据えたまま、ぎぎ、とまた鳴く。まるでアーゼの恐怖を察知したようで、ゆっくりと迫ってくる。暗闇であるはずなのに、そのひどくぎらついた目。牙の見える口からは、涎が垂れている。
「おい!」
パウの声が響く。
けれどもアーゼは剣を抜けなかった。剣は、腰の鞘に納まったまま。
動けなかったのだ。すぐそばまで「蠅」――グレゴが迫ってきても。
……腐臭がした。見上げれば、複眼がこちらを見下ろしていた。
牙のある口が大きく開き、深淵が見える――。
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