第一章(05) だから手伝ってくれ

「――アーゼ!」

 視界の端で、白い輝きが炸裂した。直後に細い輝きが飛んできて、グレゴの身体に突き刺さる。

 グレゴが耳障りな悲鳴を上げて体勢を崩す。はっとアーゼが我に返って見れば、白い水晶のようなものがグレゴに刺さっていた。不意に空気に溶けるようにして消え失せれば、残ったのはどす黒い血が溢れる大きな傷だけ。まるで腐っているかのような嫌な臭いのする血で、地面に滴れば真っ黒な染みを作った。

 視界の端で、また白い光が輝く。

「ぼうっとするな!」

 パウが手に魔法陣を構えていた。再び水晶が放たれグレゴを狙うものの、当たることはなかった。その身体をかすめて暗闇に消えていく。

 ぱっとグレゴは飛び立った。空からパウを睨みつける。だがパウはグレゴへと再び魔法陣を構える。魔法陣はゆっくりと展開していく。小さな円から、徐々に大きなものへと、回転しながら変化していく。けれども。

 威嚇するかのような声が宙で響いた。そしてうるさいほどの羽ばたき。グレゴはその口を大きく開けて、パウに向かって急降下する。けれどもパウは動かない、魔法陣の展開を続ける。

 だが展開は間に合わなかった。グレゴを前に、パウの表情が焦りに歪む――。

「――お前こそ余裕ぶってんじゃねぇぞ!」

 剣を抜いたアーゼは、迷いなく間に割り込んだ。パウの魔法の白い輝きに、剣は鋭く輝く。その輝きを、向かってくる敵へと滑らせれば、刃は巨大蠅の顔を切り裂いた。

 グレゴはぎぎぎっ、と悲鳴を上げて地面に転がった。だがそれも一瞬だけ、続いて放たれたパウの水晶を、いとも簡単に避けた。

 どろりとした血に汚れたグレゴの瞳は、怒りに輝いているかのようだった。

 否、その輝きはどこか貪欲で、感情よりももっと本能に近い何かを秘めているようで。

 涎と血が混じって地面に滴った。グレゴは再び鳴き、羽を震わせる。

「……まずは動けなくする、いいな? とにかく弱らせて、動けなくするんだ」

 グレゴはその巨体をふわりと宙に浮かせた。それを見据えながら、パウが次の魔法を構える。

「じゃあ、狙うのは羽、次に脚だな……」

 アーゼも剣を構える。しかしその刃は、ひどく震えていた。それでも、握る手に力が入るのをパウは見た。

 グレゴが大きな声を上げる。威嚇の声。羽をより音を立てて震わせたかと思えば、宙を滑って二人へ突っ込んできた。

 瞬時に二人は脇へ避けた。パウは右へ、アーゼは左へ。

 すぐに行動を起こしたのはパウだった。間髪入れず振り返れば、グレゴの背に水晶を放った。だが当てられない。水晶はグレゴの頭上を通過して暗闇へ。そしてグレゴはその水晶を気にせず旋回すると、パウへ突っ込んでいく。

 パウは慌てなかった。手を正面に突き出せば、小さな魔法陣をいくつも出現させる。そこから小さな光の球をいくつも放つ。けれどもそれも全く当たらない。一つがグレゴの顔に当たったものの、大した怪我も負わせられず、怯ませることもできない。

 寸前までグレゴが迫ってきて、パウは慌てて走り出す。だがグレゴは機敏で、パウを突き飛ばした。

「パウ!」

 アーゼの悲鳴が響く。撥ねられたパウの身体は、ずしゃりと地面に落ちた。グレゴはそのすぐ目の前に着地する。

「パウ」

 ミラーカの声が聞こえた。少し離れたところにいたミラーカは、駆け寄るようにパウへと羽ばたく。それはアーゼも同じで、アーゼは剣を構えるとグレゴへ走り出した。そしてまさにいま噛みつこうと、パウを見下ろしていたグレゴの身体を、切りつける。

 グレゴは短い悲鳴を上げて、アーゼへ振り返る。その隙に、身体を起こしていたパウが後ずさりをして距離を取った。

 グレゴはパウを気にすることなく、アーゼへ威嚇の声を上げる。口を大きく開けて、そして羽を震わせて音を立てる。

 一瞬、アーゼは怯んでしまった。しかし。

 ――びびってる暇なんてない!

 それは決して勇猛さから来るものではなく、怯えから来るものの方が大きかった。それでも、アーゼは剣を宙に滑らせた――狙うはグレゴの細い脚。まずは、動きを止めなくては。

 ――脚の一本が、夜空に打ち上げられた。グレゴの悲鳴が響き、噴き出た黒い血が辺りを染める。

 脚は見た目通り、丈夫ではなかった。

「よし……っ!」

 この調子で脚を切り落とせれば、グレゴの体勢を崩せる。そうしたら、急いで羽を――。

 思ったよりも、グレゴは弱かった。図体こそ大きく、その牙も凶悪だが、それだけ。

 勝てる。楽勝だ――。

 そう思った、次の瞬間だった。

 ぎぃん、と音がした。剣を握る手が激しく震えた。

 二本目の脚を切り落とそうと滑らせた刃。その刃がグレゴに噛みつかれ、止められていた。

 直後に、激しい衝撃が全身を襲った。剣が手から離れる。そして背中に再び衝撃。全身に痛みが走った。地面に倒れ込む。遠くで剣が音を立てて落ちた。

 体当たりをもろに食らったのだ。そして樹に打ちつけられた。

「くっそ……」

 全身が痺れるように痛いものの、アーゼは地面に手をついて身体を起こそうとする。剣は近くに見当たらない――離れたところに、転がっていた。

 と――大きな影が覆い被さる。腐ったような臭いのする液体が、すぐ横に垂れた。

 見上げれば、そこにグレゴがいた。口に収まらず外に出た牙が、月光に鋭く光る。

 その顔に、傷は一つもなかった――おかしい、先程確かに、切りつけたはずなのに。

 息を呑んでアーゼは凍りついた。

 見れば、グレゴの身体のどこにも傷はなかった。先程パウが魔法で傷つけたはずの身体も。そして自分が切り落としたはずの脚も、何事もなかったかのようにそこにあった――血の跡だけが、残っている。

 どういうことだ――背筋に寒気が走る。

 ――不死身。

 パウが魔法を放つのが見えた。けれどもどの水晶もグレゴには当てられず、ひゅんと宙を切っていくだけ。そしてグレゴはもうよそを見ない――痛みに未だ起き上がれない、確実に喰える獲物だけを見ている。

 くそ、とパウが声を漏らしたのが聞こえた。それと同時に、グレゴが大きく口を開けた。

 その、漆黒の口の中。

 ――直前、倒れたアーゼの傍らに、パウが現れた。アーゼの服を掴んだかと思えば、光を纏って、二人は跡形もなくその場からかき消える。

 グレゴは宙を食むしかなかった。いたはずの獲物が消えてしまい、辺りを見回す。と、その隙に、今度は地面に転がった剣のもとに、パウはアーゼを連れて姿を現した。かと思えば、剣を手にした瞬間、また光を纏って姿を消す。その次の瞬間には、パウはグレゴから少し離れた森の中に姿を現した。けれどもそれも一瞬だけでまた消え、そうしてパウはアーゼを連れて、点滅しながら逃げていく。

 残されたグレゴは静かに辺りを見回して、見失った獲物を探していた。

 しばらくして、近くの茂みでがさりと音がした。兎だった。いままで隠れていたものの、静かになったために、出てきたのだろう。グレゴに気付けば、一目散に森の闇の中へと走っていく。グレゴはそれを追って羽ばたき、姿を消していく。

 パウはしばらく進んだところで、移動を止めた。まだ森の中、肩を貸していたアーゼをどさりと落とし、手にしていた剣も滑らせるように落としてしまうと、そのまま地面に両手をついて肩で息をする。それはひどく苦しそうだったが、アーゼは。

「お前……そういうの使えるなら……早く使っておけよ……」

「……瞬間移動は……簡単じゃ、ねぇんだ、よ……一瞬で、動くんだぞ……?」

 パウは咳込んで、その場に座り込んだ。顔を見ればひどく疲労していた。心配するかのように、青い蝶が周りを飛んでいる。

 その時、ぼんやりと辺りを照らす月光が陰った。森が風に揺れる。

 アーゼとパウは息を殺して身構えた――グレゴが頭上を飛んでいる。

 しかしグレゴが二人に気付くことはなかった。しばらく獲物を探して上空を旋回していた巨大な影は、やがてココプ村の方へと飛んでいった。


 * * *


 その後は、また少し離れたところで二人は休んだ。怪我は大したものではなかった。打撲こそして痛みはあったものの、どちらも骨折はしていない。そしてその打撲も、パウが魔法で治療した。魔法の光に照らされると、腫れはひいて、痛みも消え去った。

「お前……色々出来るんだな……魔法はグレゴに全然当たってなかったけど」

 素直にアーゼは驚いた。先程の瞬間移動魔法といい、治癒魔法といい、彼は色々とできるのだ。

「魔法でその目とか足とか治せないのか?」

 ふと、尋ねてみれば、パウは淡々と返す。

「治癒の魔法の根本は、回復を早めることだ。元に戻してるわけじゃない……完全にダメになったところは無理だ……死んだところは、生き返らない」

 そうして、焚き火を作らず眠って、日が昇った。

 ココプ村に着くのは、恐らく昼前。そう考えながら、アーゼは歩き出す。後ろにはパウが続く。

 今日も良く晴れていた。日の光は心地良く、風は清々しい。森を抜けて草原に出れば、土と緑と花の匂いを含んだ風に出迎えられた。まさに穏やかな世界だった。

「――奴が飛んでいったのは、隣村のある方なんだろ? そこを拠点にしてるんだろう」

 けれどもアーゼの背後でパウは言う。

「グレゴはとにかく飢えている。昨日森まで来たのは、恐らく食い物を探しに来たからだろうな。まあ結局ありつけないで戻っていったみたいだが……」

「――そのうち遠出して、俺の村に来る可能性は、十分にある」

 間違いなく、グレゴはロッサ村にも来る。ココプ村とロッサ村の半ばにある森にまで来たのだから。食べ物がなく村の近くまで来てしまう熊のように、あのグレゴも食べ物を求めてそのうち村に来てしまうに違いない。

 自然と握り拳を作っていた。口を固く結ぶ。

 けれども――顔を上げられなかった。

 昨晩見た、巨大な影を思い出す。その、ぎらつく不気味な瞳。凶悪な牙。得体の知れないもの。負傷させたはずであるのに、怪我は跡形もなく消えていた――。

 あれを、退治する?

 できるのか?

 気付けば肩が震えていた。

 圧倒的な、敵。そして――無力だった自分。いまも怯えてしまっている自分。

 拳に、より力が入った。

「――びびってんのか?」

 と。

「そういや昨日もびびってたな」

「……うるさいな」

 きっ、と、アーゼはパウを睨んだ――パウに怯えた様子は、一つもなかった。

 その赤い瞳に見つめられると、頭が少し冷えた。怒りを捨て、素直に吐露する。

「……敵があんな奴だとは思わなかった」

 そう、思っていなかったのだ。それだけではない、旅に出る際、そんなものはいないかもしれないと、わずかだが思っていたのだ。

 あんな巨大で、不気味で、得体の知れないものが存在するなんて。

「――帰るか?」

 と、パウは調子を変えずに尋ねてくる。

 帰るか、なんて。ぎょっとしてアーゼは瞬きをした。

「びびって下手こいて無駄に死んだなんてことになったら、俺が困る」

 パウは無表情だった。苦しい顔も、怒ったような顔も、何もない。しかし赤い瞳がつと横を見て揺れた。

「……俺は誰かが死ぬのが、嫌いだ」

 その言葉に、アーゼは立ち止まってしまった。

 ……帰れば、もうあの巨大な蠅と戦わなくて済む。

 しかし、それは。

 ――自分だって、誰かが死ぬのは嫌だった。

「――帰らないさ」

 前を見る。腰に手を伸ばせば、そこには剣があった。村を守るための、剣が。

「あんな恐ろしい奴だからこそ……村に来る前に、俺が倒さないと」

 そう、誓ったのだ。村を守る、と。

 逃げやしない。それに――一人ではないのだから。

 少なくとも相手を負傷させることはできていたのだ。だから勝機がないわけではない。

 だが問題がある。

「しっかし、あの蠅の怪我の治り具合はなんだ? あいつ……もしかして魔法でも使ってるのか? あれじゃあ……」

 問題はそこだった。傷を負わせても、すぐに治ってしまっては。そもそも。

「……あれ、殺せるのか?」

「――グレゴは不死身だ、言っただろ」

 淡々と、パウは返した。優しい風が、何も知らない様子で流れていく。その風に、ミラーカが遊ぶようにして舞っていた。

 不死身――アーゼは怪訝に顔を歪めたものの、確かに血の気がひくのを感じてしまった。

「じゃあ……どうやって……」

 策はあるのか、手立てはあるのか。

「――弱らせれば、俺が殺せる」

 ふと、眼鏡の向こう、パウの目が細くなる。片耳にある耳飾りが揺れた。

 『千華の光』。それは実力と功績のある魔術師の称号。証。

「……だから手伝ってくれ、弱らせて、動けなくするんだ」

 その言葉は、頼みであったものの、ひどく力強く聞こえた。

 不意に、ミラーカがパウを追い越し、アーゼまでもを追い越して先へ飛んだ。

「――いるよ」

 草原の向こうに、何かが見えてきた。

 それは、荒れ果てた村。

「あそこにいるよ……」

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