第一章(03) よろしく頼むぜ、『千華の光』


 * * *


 フィオロウス国は六つの地方に分けられる。

 まずは東西南北。東の『青の花弁』、西の『赤の花弁』、南の『緑の花弁』、北の『白の花弁』。

 そして大陸の中央部分は『黄の蜜』と呼ばれ――大陸から南東に離れた場所、そこに浮かぶ島を中心とした地方『虹の風』がある。

 『虹の風』地方。またの名は――魔術文明都市地方。

 その別名の通り『虹の風』地方には、デューと呼ばれる魔術文明都市がある。

 魔術の才がある者は、皆そこで、魔法の扱い方を学ぶのだという。そして人々のための魔術師として成長する。

 そのごく一部。実力もあり功績もある魔術師は、デューから認められ、称号とその称号を示す耳飾りが、与えられるのだという。

 それが『千華の光』と呼ばれる魔術師だった。

 ――そんな魔術師が、この村に。

 信じられなかったものの、確かにあの耳飾りは、かつて本で見たものと、全く同じだった。

 あの『千華の光』が、村に来たのだ!

 家に着くなり、アーゼはどたどたと自室へ向かった。さっと旅の支度をする。適当な道具、必要なものを簡単にまとめる。

 ココプ村は、そう遠くはない。はっきり言って、水さえあれば問題はない距離だ。けれども、念のため食料もいれておく。何があるか、わからないのだから。

 最後に。

「……」

 壁に掛けてあった剣と、対峙する。鞘に入ったまま、あたかも眠るかのようにそこにある剣。父親が遺したもの。

 ――村を守るために、剣を振るった。そして死んだ。

「……大丈夫だ」

 アーゼは剣を手に取った。腰に身につける。

「今度は俺が、村を、みんなを、守るから……」

 剣は、思ったよりも重たく感じられた。

「アーゼ」

 と、名前を呼ばれて振り返れば、開け放ったままだった扉に、母親の姿があった。艶の少ない長い金髪を緩く結んでいる。色あせたワンピースは土に汚れていた。

「みんなから話を聞いたわ、アーゼ……本当に、ココプに行くつもりなの?」

 母親は眉を寄せて、祈るかのように両手を胸の前で組んだ。

「もし、本当に大きな蠅がいたら……」

「本当にいたら大変だから、行くんだ」

 アーゼは母親の前に立つ。

「でも、一人で行くんでしょう? 危ないわ、母さんは、不安だわ」

「……いいや、一人じゃない。『千華の光』の魔術師が一緒に行くことになったんだ!」

「……『千華の光』?」

 そう、あの『千華の光』が共に行くのだ。

「ああ、ちょうど今日、この村に着いた旅の人で……だから、大丈夫!」

 アーゼは玄関へ向かう。その後ろを、母親が不安そうについてくるものだから、振り返れば。

「……母さん、ここに座って……ちゃんと休んだのか?」

 一室に入り、椅子に母親を座らせた。

 母親を見れば、その表情は不安そうなままだった。

「アーゼ……本当に大丈夫なの?」

「大丈夫だって」

 母親の前に膝をついて、アーゼはその顔を見上げた。

 少しだけ体の弱い母親。どこか疲れた様子もうかがえる。それでも母親は、確かにこちらを見下ろしていた。

 アーゼは微笑んだ。

「……すぐに戻ってくる。俺は、何か起きる前に、村を、母さんを守るんだ。それで……また畑仕事、手伝うからさ。だから」

 母親はしばらくの間、黙っていた。じっと息子を見つめて、乾いた唇を動かさない。

 果てに、微笑んだ。

「――随分父さんに似てしまったわね……ちゃんと、帰ってくるのよ」

「ああ!」

 そうしてアーゼは、再び玄関に向かえば外へ出て行った。

 日の光に、目を細める。向かうは村の出入り口。人々の視線を感じるが、気にはしない。

 仮にあの蠅の話が嘘だったとしても。自分のやっていることが大袈裟だったとしても。

 村を守るために行動を起こしたのだ。笑われても、それでよかった。

「兄ちゃん、本当に魔術師なのー?」

「弱そうー」

 村の出入り口に着くと、そんな無邪気な子供達の声がした。それから。

「うるさいな……ほら、あっちいけ」

 あの『千華の光』の青年の声が。

 変なのー、変な人ー、と、集まっていた子供達は広場へ戻っていく。まだ少し離れたところでは、村人達が不思議そうにその青年を見つめていた。だがその青年、パウは気にしない。彼はアーゼに気付けば、その鋭いまなざしを向けた。

「待たせたな」

 アーゼが言えば、樹に寄りかかっていたパウは、身体を起こして溜息を吐いた。

「じゃ、行こうぜ。案内してくれ」

 アーゼは頷けば、先へと歩き出す。隣村へ、向かう。

「……ココプまでは半日でいける。夕方には着くはずだ」

 ――一人で行くことを決意したけれども。

 仲間がいるのは心強い。それも、実力のある魔術師なのだから。

 そこでふと、思い出す。

「ああ、俺はアーゼ。よろしく頼むぜ、『千華の光』」

 振り返って、微笑んだ。

 パウからは何の返事もなかったものの、アーゼは先を見据えて、歩みを進めた。一歩一歩、先へと進んでいく。

 だから、身につけた剣を、パウがじっと見つめていることに、気がつかなかったのだ。


 * * *


 黄緑色の丘は、風に撫でられ輝いて波打った。薄い雲が太陽にかかれば、世界はわずかに光を失うものの、その瞬間はよりよく姿形が浮かび上がり、再び日光が世界を照らしはじめると、あらゆるものが輝き出す。

 絵画の中のようにのどかすぎる風景の中を、アーゼはパウと歩いていく。

「お前、蠅の話を聞いてここに来たって言ったけど」

 アーゼは振り返らず尋ねる。

「……その蠅について、何か知ってるのか?」

 アーゼの後に続いて杖をつくパウは、その言葉に一瞬歩みを止め、わずかに俯いた。しかしアーゼは気付かず、進みながらも黙っていると、声が返ってきた。

「――あれは、グレゴって言うんだ」

「――グレゴ」

 ぴたり、と足を止めて、アーゼは振り返る。

 巨大蠅を「グレゴ」と呼んだ魔術師は、少し離れたところで、変わらず杖をつきながら進んでいた。

「そう。グレゴ。何でも喰う、でかい蠅だ……とにかく何でも喰う。何かそこにあれば喰う。特に生き物を好んで喰う……」

 かっ、かっ、かっ、と、杖をつく音が、隣を通り過ぎていく。パウはアーゼを追い越せば、立ち止まることなく、ゆっくりでも先へ向かっていく。そしてその背を、青い蝶が花弁のように舞いながら追っていく。

「……でもって不死身だ。困ったことに」

「――ちょ、ちょっと待ってくれ」

 思わず、アーゼは焦ってしまった。慌ててパウを追えば、その前に立つ。

 緩い風が、笑うかのように流れていった。

「――でかくて人を喰う蠅っていうのは……本当にいるんだな?」

 しばらくの間、正面からパウを見据えて、やがて尋ねる。

 本当にいるのならば、退治しなくてはいけないと思ったけれども――本当にいる、そう、全て信じていた訳ではなかったのだ。

 しかしパウは言った。グレゴ、と。

「何なんだ、そのグレゴっていうのは……動物、なのか?」

 続けてアーゼは尋ねるものの、パウは無言で頭を横に振るだけで、それ以上何も答えなかった。また、杖をつきながら歩き出す。

「ほら、早く案内してくれ……この道をまっすぐ進めばいいのか?」

 だからアーゼは、また彼を追いかければ、その隣に並んだ。

 『千華の光』の証である耳飾りがよく見えた。

「もしかして、デューか、他の人間の指示で、お前はグレゴを探しに来たのか?」

 と、アーゼは思い出す。『千華の光』というのは、人々のための魔術師だ。人々のために物事を成し得ることが使命であり、自らの意思で動くこともあるが、個人の依頼や、それこそ魔術文明都市デューからの任務、またそれ以外の街や村の依頼によって、行動することもある……。

 だがその問いにも、パウは答えなかった。ただ先を見据えて、歩き続ける。

 ……あまり喋りたがらない性格なのだろうか。何か、妙な気がした。

「まあ……いいさ」

 果てにアーゼは溜息を吐いて、先を歩き始める――話したくないのなら、それでもよかった。妙な感覚は、残ってしまうけれども。

 それにしても、巨大な蠅というのは、本当にいるのだ。自然と口を固く結ぶ。剣の重さを、より感じる。

 その時だった。

「ふふふ……」

 唐突に、少女の笑い声が、背後から聞こえた。

 ぎょっとしてアーゼが振り向けば、先程と全く変わらない様子で歩くパウの姿だけがあった。少女の姿なんて、どこにもない。

 緊張のあまり、幻聴が聞こえたのだろうか。そう思っていると、パウの背後から、あの青い蝶がふわふわと羽ばたいてきた。

「ふふ……」

 その蝶から、声がする。蝶が笑っていた。

「……その蝶、喋るのか。びっくりした……」

 一体何の声かと思った。アーゼは苦笑いして、青い蝶を指さす。すると蝶は怯えたかのようにパウの肩に留まった。

「……こいつはミラーカ」

 短く、パウは答えてくれた。

「あんたの使い魔か何かか? そういえば魔術師って、そういうものが作れるらしいな?」

 そこでアーゼは尋ねて見たものの、やはり、パウはそれ以上喋らなかった。口を閉ざして、また宙を羽ばたきはじめたミラーカを見つめている。

 ――やりにくい。

 正面を向けば、アーゼはわずかに苦い顔をしてしまった。空気の悪さを感じる。

 しかしパウは、間違いなく信頼できる人間なのだ。何せ、あの『千華の光』なのだから。彼がいてくれたら、巨大な蠅グレゴも、怖くはない。一人で立ち向かうわけではないのだから。その上、彼はグレゴについて知っているようであるし。

 心強いパートナー。そう、間違いなく。

 けれども――進むうちに、その信頼も揺らぎはじめたのだった。

 しばらくの間、無言で二人は進んでいたが、やがてアーゼは気がついた――パウの進みが、遅いことに。

 ふと、振り返れば、距離が開いているのだ。少し離れたところでは、パウが杖をつきながら、不慣れな様子で必死に進んでいる。

 そして登り道に入れば、パウはさらに遅れて。

「……」

 アーゼが振り返れば、パウの姿は小さくなって、離れた場所にあった。黄緑色の丘陵の中、濃い紫色のマントを身に纏った黒髪の青年が、あたかも青い蝶に応援されるようにして、ひいひいと丘を登ってきている。

 ……巨大蠅は、凶悪だと聞いた。そして隣村までの短い旅は、まだ少ししか進んでいない。予定ならば、もう半分近くまで来ているはずだったのに。

「なあ! お前! ちょっと遅すぎないか?」

 言葉を柔らかにしたつもりだったが、アーゼのその声は鋭く響いた。そして表情は歪む。苛立ちを、隠しきれない。

 それも仕方がなかった。

 心強い仲間ができたと思ったらこの様子で――足を引っ張っている。

 不安が鎌首をもたげて、苛立ちが渦巻く。

「……っさいな」

 丘の下から、疲れているものの、苛立たしげな声が返ってくる。パウがこちらを見上げる。

「俺だっていま必死なんだよ! こんな怪我さえなければ……おまけにまだ慣れてないんだ、くっそ……」

 後半はぼやくようだった。パウは足下を見れば、また杖をついて坂道を上り始める。どうやら右足が悪いと思われる、その歩み。

「……もしかして、その足の怪我、グレゴにやられたものなのか?」

 思って、アーゼは首を傾げた。

 あの巨大な蠅が姿を現したのは、おそらく最近。それまでにそんな話はお伽噺にもなかった。そしてパウのあの様子。グレゴを探しているという彼のあの怪我は、最近のものなのだろうか。そう考えれば何か関係がありそうだったが、パウは答えてはくれなかった。

「……休憩!」

 丘を登りきって、追いついて、彼はそこにあった木陰に、座り込んだ。

 そうして息を整えているものだから、アーゼは唖然として彼を見下ろした。

「休憩って……」

 今この瞬間にも、本当にいるという巨大蠅が、村を襲うかもしれない。そう思うと、休憩している暇なんてないのに。

「ふざけんなよ……休憩なんてしてる暇あるか! 行くぞ!」

 叫べばパウに背を向ける。しかしパウは、

「おい、焦るなよ……余裕のない奴ほど、へまするぞ」

「……」

 あたかも、馬鹿にするかのような言葉。振り返り、きっとパウを睨めば、彼は自分の周りを舞うミラーカを見つめていた。

 ココプ村までは、半日で着く予定だった。

 ……ここでパウを置いていってもよかった。

 しかしそうすると――一人になる。

 ――この調子なら、どうやっても、一日かかる。

 苛立ちの溜息を吐いて、アーゼも木陰に座り込んだ。そして水筒を取り出し一口水を飲めば、またパウを睨む。

 パウの耳では、あの黄色の光が輝いている。

 だが、ふと、考えてしまう。

 彼のこの態度。この……足の引っ張り具合。

 ――本当に『千華の光』なのだろうか。

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