第一章(02) なかなか無謀な奴だな


 * * *


 フィオロウス国、『青の花弁』地方。

 その田舎といっていい場所にある小さな村――ロッサ村。

 普段は穏やかさに包まれた村だが、その日、空気は張りつめていた。立ち話をする女達は不安に眉を顰め、また馬鹿にするような笑みを浮かべ、じいと一軒の家を見つめる。子供達も、今日は駆け回らずに、母親の服を掴んでいた。

「――じゃあどうするんだ!」

 と、見つめるその家から、外まで声が響いてきた。

 声の主は、村の青年、アーゼ。短いものの、少しくせのある金髪。緑色の目は大きいものの、猫のような鋭さがある。

「何もしないって言うのか!」

 アーゼは再び声を張り上げれば、ばんとテーブルを叩いた。この村議会に殴り込んできた時と同じように。村議会の人間達は、びくりと震えて息を呑む。そして気まずそうに黙る。何も言わない。

「……ココプ村から逃げてきた奴は言ったんだろ?」

 だからアーゼは、溜息を吐いた。

「馬鹿でかい蠅が村を壊滅させたって! もし、そいつが隣のここまで来たら……!」

「でも!」

 と、村議会の一人が声を上げる。村で教師をしている男だった。

「……私達には戦う術がないよ、アーゼ。魔法道具なんて高価なものはもちろん、まともな武器も腕もない。それに……そんな巨大な蠅、聞いたこともないよ……もしかすると、幻覚か何かかもしれないよ?」

「――ココプ村は壊滅した、蠅に奪われたとあの男は言ったが……実際どうだか見てないしなぁ」

 そう言ったのは、猟師の男だった。

「俺も、長く猟師をしているが、人よりもでかい蠅なんて、見たことも聞いたこともないぞ。それに人を食うなんて……熊や狼じゃあるまいし……」

「もしかすると、魔法か何かのたぐいかもしれないですな」

 と、言ったのは木こりの男。彼は穏やかに笑っていたが、自身でそう言って、視線を落とした。

「……もしそうなら、それこそかないやしないわな。わしらには。猟師でも、難しいだろう?」

「相手は蠅らしいが……見たことない相手を相手にするのは、何でも難しいな!」

 そう、猟師の男の笑い声が響く。だからアーゼはより声を張り上げて。

「本当だったら笑い事じゃないぞ! 逃げてきた奴を見ただろ! あんなに憔悴して……!」

 そこでゆっくりと、村長が顔を上げた。アーゼを見据える。

「……正気じゃなかったな」

「ああ、正気じゃなかった!」

 そうなってしまうほどの何かが、ココプ村で起きたのかもしれないのだ。だが。

「……だから、あいつが言っていることも、狂言かもしれないぞ、アーゼ」

 そう言われてしまうと、アーゼは言葉を詰まらせてしまった。

 ――早朝、山菜を採りに出かけた村の女が見つけたその男は、半ば発狂していた。身体は擦り傷だらけで、足を震えさせていた。ぎゃあぎゃあと叫ぶものの、助けを求めて駆け寄ってきたために、この村で保護したのだった。

 そしてその男は言った。自分は隣村のココプ村の人間であること。故郷ココプは、巨大な蠅の襲撃を受け、壊滅したこと――。

「祈るしかないかねぇ」

 誰かが言った。

「そんなのはあいつの嘘だって。本当だとしても……こっちに来ないようにって」

 祈るしかない――。

 見れば、村議会の誰もが、頷きあっていた。

「もしかすると、あいつ、狂ってるからココプを追い出されたのかもしれないぞ?」

 そんな声も聞こえる。

「だとしたら……いい迷惑だな。何かやらかすかもしれないぞ。それなら、その前にここから出て行ってもらうしかない……」

 皆、何もしたくないのだ。平和を信じて、しがみついていたいのだ。

 はあ、とアーゼは溜息を吐いた。

 ……もし、蠅の話が本当だったのなら!

「……じゃあ、俺が確認しにいく」

 果てに、アーゼは申し出た。和気藹々と世間話が始まった部屋は、ぴたりと静かになる。

「俺がココプまで行って、あいつの言ってることが本当か、見てくる。それでもし、本当だったなら……あいつは蠅が村を占拠したって言ってた、だから……俺が退治する」

 空気が急に冷え込む。まるで自分が何か間違いを起こそうとしているようで、アーゼが皆を見れば、皆は目を丸くしてこちらを見ていた。

 アーゼは続けた。

「……で、もし蠅の話が嘘で、あいつがココプ村を追い出された奴なら……もうそれで十分だろ? 向こうで何をしでかしたか聞いて、相当やばい奴だったらここから出て行ってもらえば――」

「家に戻りなさい、アーゼ」

 言葉を遮ったのは村長だった。虚を衝かれて、アーゼは瞬きをする。

 改めて見れば、皆、どこか緊張した顔をしていた。

 そうして、やっと、気がついた。

 ――知りたくないのだ。もし、本当だったのなら、と思えば。

 皆、怯えている。

「わしは長く生きてきたが……巨大な蠅なんて、聞いたことがない。ましてや、村を壊滅させ、人をあそこまで追い込むものなんて」

 村長は、諭すような柔らかな笑みを浮かべた。

「……だからアーゼ、余計なことはしなくていい。大人しくしていなさい」

 そうして皆、神妙な表情を浮かべるのだった。それ以上は、何も言わないで。

 ――誰も「そんなのは嘘だ」と笑い飛ばさないのには、理由があった。

 ここ数日、森の動物達の様子がおかしかったのだ。妙に大人しく、潜んでいて、怯えている。

 この動物達の異変と、巨大蠅の話、無関係とは思えなかったのだ。

「……いいや、行ってくるぜ」

 アーゼは腕を組んだ。

 可能性がないわけではないのだ。

「嘘ならそれでいい。本当なら――この村だって襲われる可能性があるんだ、その前に、仕留めないと」

「――そうやってお前の父も死んだんだぞ」

 と。

「大人しくしてるべきだ、アーゼ、無理はするもんじゃない。それに、変に刺激するもんじゃない」

 そう、猟師が溜息を吐いた。反射的に、アーゼは彼を睨みつけた。

「……あの時親父が村を守ろうとしてなかったら、どうなってた?」

 そうして、アーゼは背を向けると、扉へ向かっていった。

「……俺一人でも確かめに行く。もし本当にいたのなら、退治しないと」

「待て、アーゼ! 危険だ、大人しくしているべきだ――」

 村長が椅子から立ち上がる。けれどもアーゼは振り返らなかった。扉を開ければ部屋の外へ。そして玄関へ向かい、家の外へ。

 ばたん、と乱暴に扉は閉められた。


 * * *


 アーゼが外に出ると、そこに集まっていた村人の何人かが、あたかも腫れ物を前にしたようにそそくさと離れていった。その光景に、アーゼは一瞬ぎょっとしてしまったものの、深く溜息を吐く。

 そして去らずに残っていた村人達は、アーゼの元に集まってくる。

「アーゼ、大丈夫かい?」

 老婆が尋ねてくる。続いて、赤ん坊を抱いた婦人も。

「無茶をするものじゃないわ……あなたが戦うと言ってくれて、嬉しいけど……もし本当に大きな蠅がいるのなら、危険だわ。ココプ村は、この村よりも大きくて、戦うことも得意だったみたいだし……そんな村が……だから」

 どうやら、話は外に漏れていたらしい。広場を走り回り始めた子供達が「蠅だって! 大きな蠅! アーゼお兄ちゃんが見に行くって!」「俺も見に行くー!」「潰しちゃえー!」と騒いでいた。

「……アーゼ、蠅の話が本当だったのなら、一人で行くのは危ないよ」

 そう一歩前に出たのは、同い年の青年だった。

 彼は、だから自分も一緒に行く、とは言わない。

「……この村で剣を使えるのは、君だけ。戦えるのは君だけで、度胸があるのも君だけだ。でも……危ないことはしないほうがいいよ、嘘かもしれないなら、そう思って、それでいいじゃないか」

「そうだよなぁ、だいたい……人を食うでかい蠅かぁ……妙な話だよな」

 と、別の青年が言い、それで全てが終わったというように、その場から去っていく。農具を手にしたままここに来たらしい彼は、畑仕事に戻っていくのだろう。

 徐々に村人達は戻っていく。それぞれの仕事へ。それぞれの家に。

「……アーゼ、村を守りたい気持ちはわかります。あなたのお父様がそうだったのですから」

 最後に、医者が。

「けれども、家に戻るべきでしょう……きっと、お母様が心配しているでしょうから」

 思い浮かんだのは、せっせと畑の世話をする母親の姿だった。

 だが、医者が戻っていった病院に、隣村から逃げてきたという男は、確かにいるのだ。巨大な蠅に襲われ、村を失い、仲間も食われてしまったと言った男が。

 気付けば、広場はいつも通りに戻っていた。子供達が走り回り、隅では女達が世間話をしている。まさに穏やかな光景。

 もう一度、アーゼは溜息を吐いた。

 ――例の巨大な蠅は、人を食うというのだ。

 それならば、次に狙われるとしたら、すぐ近くにあるこの村に間違いないだろう。

 倒さなくては。握り拳に力が入る。

 ――しかし。

 ……村人が言った通り、ココプ村というのは、このロッサ村よりも大きく、盗賊や害獣と戦うのも、この村より長けている村のはずなのだ。

 そんな村を壊滅させた敵と、一人渡り合うなんて。

 腕に自信がないわけではなかった。だが。

 ……それでも、行くしかないのだ。

 そうしてアーゼも、広場から歩き出す。旅の準備をするために。剣を取りにいくために。

 その時だった。

「――お前、なかなか無謀な奴だな」

 聞き慣れない声だった。

 顔を上げると――普段と何も変わらないと思っていた広場の隅の柵、そこに、紫色のマントを身に纏った影が、そこにあった。

 歳は自分と同じくらいだろうか。髪は黒色。顔の右半分はその黒髪ですっかり隠れてしまっている。眼鏡をかけていて、見える片目は赤く、鋭い。そして片手には補助の杖。

 そこにいたのは、間違いなく村人ではない青年だった。驚いてアーゼは、しばらく身構えて彼を見つめていた。やがて、我に返って。

「あんた……旅の人か? 珍しいな、こんな田舎に……」

 いまはそんな話をしている場合ではないのだが。紫のマントの青年は尋ねてくる。

「で? お前、隣の村まで行くのか?」

 どうやら彼も、他の村人達と同じように話を聞いていたようだ。

「……ああそうだ……旅の人、悪いけど……話を聞いていたのなら、いまこの村にいない方がいいかもしれないぞ」

 そうアーゼは忠告した。だがその青年は、柵に寄りかかっていた身体を起こせば、杖で地面をとんと突いた。

 一匹の青い蝶が、彼の周りを舞った。それは見たこともないほど美しい蝶で、思わずアーゼは目を見張った。きらりと光を返す、神秘的な青。

「俺は、そのでかい蠅がこの辺りに出るって聞いて、ここまで来たんだ。ちょうどよかった」

 蝶は、青年の肩に花弁のようにとまる。

「隣村に行くっていうのなら、連れてってくれ。俺はパウ。頼んだぞ」

「連れていってくれって……」

 仲間が増えてくれるのは嬉しいが、アーゼは苦い顔をするほかなかった。

 何せ、相手は突然現れた謎の旅人で――蠅は凶悪だというのに、パウと名乗ったその青年は、どう見ても戦いが得意であるようには見えない。身体は細く、武器を持っているようにも見えない。

「あんた何者だよ……」

 そう、怪訝な顔をした時だった。

 パウの片耳にある耳飾りに気付いたのは。

 それは、まるで蜜を固めて作ったかのような黄色の宝石の耳飾り。よく晴れた今日、日の光に、きらりと輝いた。

 アーゼは息を呑んだ。

「お前……まさか『千華の光』なのか?」

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