第14話 劣等生以上、出来損ない未満な僕
「先輩は今、小説を書いてて――心の底から楽しいと思えていますか?」
瞬間。
心を見透かされた僕は、自分の喉が完全に干上がるのを感じた。
「……先輩がプロデビューしてから、私はずっとあなたのことを見守ってきました」
雪音ちゃんの声に鼓膜が怯え、ぬるい汗が僕の頬をゆっくり伝っていく。
「プロデビューしてからというもの、先輩はいつも愚痴ばかりでした。編集部がクソ、絵師がクソ、自分の作品が売れない世の中はクソ。毎日毎日、毎日毎日毎日、毎日毎日毎日毎日……愚痴ばかりを零す先輩を見ていて、私はとても悲しい気持ちになりました」
雪音ちゃんはベッドの上で足を抱える。
「気づけば、二次創作の方も更新されなくなっていました。おまけに先輩のデビュー作は一巻打ち切りで、更に新作が出る気配は微塵もありません」
「…………」
「この時、私は気づきました。——このままだと、もう二度と先輩の小説を読めなくなってしまう、と」
相槌を打つ余裕なんてなかった。
彼女の淡々とした語りを聞いていると、強大な罪悪感と後悔が僕を縛り付け、喉を震わせることすらできなくなっていくのを感じた。
「先輩の小説が読めなくなるなんて嫌だ。執筆を楽しめなくなっている先輩なんて見たくない。私を救ってくれた憧れの人を救うにはどうしたらいいんだ。あの人の小説をまた読めるようにするには、どんな選択を取ればいいんだ。……私は必死になって考えました」
「……それで、僕にラノベ作家を辞めさせることを思いついた、と」
「はい。ラノベ作家さえ辞めてしまえば、もう先輩は苦しまなくて済む。またアマチュア時代のように小説を楽しく書いてくれる。出版社の都合なんて関係なく、自分のペースで小説を投稿してくれる……と私は思いました」
雪音ちゃんは膝の間に顔を埋めながら、
「だけど、問題がありました。先輩を辞めさせようにも、私には先輩との繋がりがない。ツイッターのDMで『ラノベ作家辞めろ』と送ったところでどうせ相手になんかしてもらえない。……何が何でも先輩に会う方法を探さなくてはならない」
地獄から響いてくるような雪音ちゃんの声に、僕は思わず寒気を覚えた。
しかし、そんなことなど知りもしない雪音ちゃんはゆっくり顔を上げると、僕を真っ直ぐ見つめてきた。
「そんな時、私の下に一本の電話が入りました」
「電話……?」
「それは、第十三回雷撃大賞の大賞受賞を知らせる電話でした」
それは、ラノベ業界では珍しく二年に一度しか開催されない、我がレーベルの新人賞の名前だった。
おそらく彼女は僕に近づくために新人賞に応募する、俗にいうワナビ生活を送っていたんだろう。そしてちょうど良く、大賞を受賞した。
「そこからは、先輩も知っての通りです。向島さんからあらかじめ先輩の特徴を教えてもらい、受賞者代表の挨拶で壇上に登った時に先輩を探し、ラノベ作家を辞めさせると宣言する。そして向島さんから教えてもらった先輩の住所を頼りに家に押しかけ、ラノベ作家なんていう辛いだけの仕事よりも私に甘やかされながら毎日小説を書いて過ごした方が幸せだと思ってもらう……それが、私が考えた計画です」
雪音ちゃんはベッドから立ち上がり、僕の前まで歩み寄ると、何の躊躇いもなく僕に抱き着いてきた。
「何でラノベ作家を辞めさせようとしてくるのか。先輩は何度も私にそう質問してきましたね」
「う、うん……」
「私はね、先輩。先輩がプロの小説家じゃなくたっていいんです。いいえ、むしろプロじゃない方がいいんです」
僕の背中を、雪音ちゃんの指が静かに這う。
「アマチュアの時のように定期的に小説を投稿してほしい。二次創作家時代のように小説を書くことを楽しんでほしい。先輩の小説をいつも、いつでも、いつまでも、私に読ませてほしい。……私に色を与えてくれた小説を、私の為だけに書いてほしい」
「っ」
「だから、私は、あなたにラノベ作家を辞めてほしいんです」
これってそんなにおかしな望みですか――僕の耳元で、彼女はそう囁いた。
「……君の気持ちは、分かったよ」
「っ! じゃ、じゃあ……」
「だけど、それならどうして、君はラノベ作家を辞めそうになっていた僕を励ましたりしたんだ? あのまま放っておけば、甘言を囁いておけば、僕がラノベ作家を引退していたかもしれないのに」
「……あれは、私も失敗だったと思っています。あそこで先輩を堕としておくべきだったと、今でも後悔しています」
雪音ちゃんは一歩後ろに下がり、僕に顔を見せる。
今にも泣きそうで、それでいて辛そうな笑顔だった。
「——でも、憧れの人が落ち込んでいるんだから、放ってなんかおけないじゃないですか」
「雪音ちゃん……」
「自分でもちぐはぐだと分かってはいたんです。先輩を辞めさせたいくせに先輩のサポートばっかりしている自分が矛盾しているってことぐらい、ずっと分かっていたんです。……でも、私は先輩を放っておけなかった。落ち込んでいる先輩の心に付け込むような真似は、できなかったんです」
雪音ちゃんは俯く。長い前髪から覗く彼女の瞳には、儚げな悲哀が刻まれていた。
「……ですが、先輩にラノベ作家を辞めてほしいという私の想いは変わりません。今のように苦しみながら、辛そうに小説を作り出そうと藻掻く先輩を、私は見ていられません」
「…………」
「ラノベ作家なんてやるだけ無駄だ。私に甘やかされながら好きな時に好きなだけ小説を書ける生活の方が今の地獄よりも何百倍もマシだ。……あなたがそう思ってくれるまで、私は絶対に諦めません」
そして雪音ちゃんは先ほどとは違う、決意と熱意の炎を湛えた瞳で僕を見据えながら、
「私は絶対にかつての先輩を取り戻してみせます。その為ならどんなことでもするし、どんなに恥ずかしくても先輩を甘やかしまくります。——それが、私の覚悟です」
そう、言った。
あの後、雪音ちゃんはすぐに帰宅した。
僕が動揺しまくっている今こそがチャンスなような気がするが、彼女もいろいろと疲れていたんだろう。また出直します、と言ってそそくさーっと僕の部屋から出て行った。
そして一人残された僕はベッドの上に大の字になって寝転がりながら、ぼろ部屋の天井を虚ろな瞳で見上げていた。
「……かつての僕を取り戻す、か」
彼女の言う通り、昔の僕は創作を心の底から楽しんでいた。
感想なんて雪音ちゃんからのもの以外ほとんどもらったことはなかったし、PV数から察するに読者自体もそこまで多くなかった。ただの自己満足で書いていただけで、得るものなんてあったかどうかも怪しいレベル。
でも、楽しかったんだ。
僕の頭の中にある妄想を小説として表現する行為が、とてもとても楽しかったんだ。
「……何で今は楽しくないんだろ」
そんなの考えなくても分かってる。あまりにもしがらみが多すぎて、楽しむ余裕がなくなってしまっているんだ。
自分の書きたいものじゃなく、読者の求めるものを書かなくてはならない窮屈さ。
昔のように思いついたものをすぐに小説にするのではなく、企画会議に通るための小説を練り上げないといけないという世知辛さ。
そんなしがらみが、僕から楽しむ余裕を奪ってしまっているんだ。
「僕自身が楽しくないのに、楽しい小説なんて書ける訳ないよね……」
……このままだと、きっと雪音ちゃんに負けてしまう。
作家としての実力という話ではなく、心の話。
今のままの自分でいたら、いつかきっと彼女の甘やかしに屈し、ラノベ作家を辞めるという道を選んでしまうかもしれない。
それだけは、嫌だ、
せっかく叶えたこの夢を、そう簡単に諦める訳にはいかない。
「じゃあ、そのために、僕はどうするべきなのか」
向島さんから企画の立て方について教えてもらった。
雪音ちゃんから僕に足りていないものを教えてもらった。
心晴から僕が作家として生き残るための道を示してもらった。
そして、今の僕には、外伝小説か新作かという二つの選択肢が与えられている。
「……もう落ちるところまで落ちてるんだから、多少の無理は必要だよね」
僕は、どうするべきなのか――いや、僕はどうしたいのか。
示された道を前にして……僕の中には、とても我儘な考えが生まれていた。
「厳しい道だ。そう簡単には成し遂げられないバカみたいな選択だ」
でも、ラノベ作家として生き残り、さらに自分を納得させるには、もうこの方法しかない。バカでマヌケで愚かな選択だが、だからこそ、僕に相応しい。
「心が折れそうになったら雪音ちゃんに甘やかしてもらおう。雪音ちゃんは『そんなことのために甘やかしてるんじゃない』って拗ねるだろうけど、まあ、そこは憧れの人からのお願いってことで許してもらいたいな」
自分勝手上等だ。そもそもラノベ作家なんて、どいつもこいつも我儘で自分勝手な奴ばかりなんだから、僕が少しぐらい自分勝手になったって問題はないだろう。
「穂乃果さんには、僕の選択に全面的に協力してもらうようにお願いしよう。どうせ恩を売りまくってるんだ。こういう時こそ貯めに貯めた恩を返してもらわなくっちゃ」
返してもらうために売っていた恩ではないけれど、手段なんて選んでられない。使えるものはすべて使う。そうじゃないと、この試練は乗り越えられない。
「よし。そうと決まれば早速向島さんに連絡しなきゃだ」
ベッドから飛び上がり、パソコンデスクへと歩を進め、スマホを充電器から抜く。素早くスマホのロックを解除し、電話帳から向島さんを選び出し、迷うことなく電話を掛ける。
電話はすぐにつながった。
『はい。雷撃文庫の向島です』
「お疲れ様です、明智です。今、お時間大丈夫ですか?」
『ちょうど休憩中なので問題ありませんが……どうかされたんですか?』
「いや、その、先日の返事をしようと思いまして」
『……なるほど』
向島さんの声が低くなった。どうやら僕の決断を真面目に聞こうとしてくれているようだ。茶化されないと分かっただけで、ちょっと安堵する自分がいた。
『それで、明智先生の答えは?』
僕は深呼吸で自らを落ち着かせ、心臓を服の上から掴みながら彼女に言う。
「外伝小説を書きながら、新作の企画も考える。——それが僕の答えです」
『…………………………………………はぁぁぁぁぁぁぁぁ』
向島さんはそれはもう盛大に溜息を吐いた。
『明智先生。私は前に言いましたよね? 新作は諦めて外伝小説を書けと』
「そうですね」
『なのにどうしてどちらもやろうとしてるんですか? そんなの、どっちつかずな結果にしかならないに決まってるので、マジでやめてほしいんですが……』
「そう言われると思ったので、僕なりの覚悟をここで示そうと思います」
『覚悟、ですか?』
「はい」
それは、ただの思い付きだ。バカでマヌケで無謀な、とてもじゃないが策とは呼べない代物だ。
でも、僕はこの策にかけるしかない。そうじゃないと、きっと、向島さんを説得することはできない。
「一週間以内にあなたを唸らせる企画を作ってみせます。もしそれが成し遂げられなかったら新作は諦め、外伝小説に集中することにします」
『??? それのどこが覚悟なんですか? 普通に新作を諦めただけじゃ――』
「諦めるのは、新作だけじゃありません」
『……はい?』
多分、電話の向こうで僕が今まで見たことないような顔をしているであろう向島さんに、僕は自分のバカな覚悟について堂々と告げる。
「もし一週間以内に新企画であなたを唸らせられなかったら、僕は外伝小説を最後に――ラノベ作家を引退します」
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