第13話 透明少女雪音ちゃん


 冬森雪音は感情をどこかに置いてきたような、透明な少女だった。

 綺麗な花を見ても感激せず、評判の映画を観ても感動すらしない。

 テストで満点を取っても喜ばず、転んでケガをしても決して泣かない。

 もちろん、そんなんだから友達なんて一人もおらず、血の繋がった家族ですら雪音のことが理解できず、腫物を扱うかのように接するしかできなくなっていた。



――私は、どうしてみんなと違うんだろう。



 みんなは喜び、怒り、泣き、笑う。でも、自分はそれができない。人として当たり前のことが、何故かできない。笑おうと努力しても楽しい気持ちが分からないから笑えないし、泣こうと思っても悲しい気持ちが理解できないから涙も出ない。

 いつでもどこでも無言で無表情。無駄に顔立ちが良いせいか彼女の不気味さは常人の比ではなく、彼女が孤立するのにそう時間はかからなかった。

 人と話すこともなく、本を読むこともない彼女は、ずっと空を見て過ごしていた。——だが、流れる雲を見ていても、彼女の心は岩のように不動だった。



 そんな彼女に転機が訪れたのは、中学二年生に上がったばかりの時だった。



 大学生の兄から借りていた参考書を彼の部屋に返しに行った雪音は、兄の部屋にあるパソコンの画面に何かが表示されているのを見つけた。

 普段なら特に興味も抱かずに無視するところだが、何故かその時だけは画面の中の世界のことが気になってしまった雪音は、兄がいないのをいいことにパソコンを覗き見させてもらうことにした。

 そこに映し出されていたのは、小説だった。

 本をほとんど読まない雪音でも稚拙だと分かる程にぐちゃぐちゃな文章。誤字脱字は多く、とてもじゃないが出来が良いとは言えない代物だった。

 だけど、とても不思議なことに。

 雪音は、その出来損ないに興味が引かれてしまっていた。

 本能の赴くままに小説を読み進める雪音。少ない地の文のせいで内容を理解するのには手間取ったけれど、雪音はいつの間にかその小説に夢中になっていた。

 その後、兄が部屋に戻ってきてしまったので小説を読むのを途中で切り上げることになってしまった雪音は、父からパソコンを借りることにした。——小説を読みたいからパソコンを貸してほしい、と雪音から言われた父はコーヒーを服にぶちまけるぐらいに驚いていたし、その日の晩御飯は家族揃ってのごちそうだった。



 雪音は件の小説を一から読み始めた。



 その小説はとあるゲームを原作とした二次創作で、ゲームの中に入ってしまった主人公がそのゲームの知識を駆使して必死に生き残ろうとするが、何故か原作キャラクターたちに勘違いされまくってどんどん事件の中心人物になっていってしまう――そんな物語だった。

 雑な展開、無理のある構成、誰が喋っているのか時々分からなくなるレベルの書き分け……でも、作者さんがとても楽しそうに書いていることが激しく伝わってくるその小説に、雪音は気づけば夢中になっていた。

 学校が終わると家に直帰し、食事と風呂の時間以外は全てその小説を読むことに費やす生活。同年代の友達と遊んだり部活に励んだりなどの中学生らしい青春ではなかったが、その小説を読んでいる間は世界中の誰よりも充実していたし、その小説を読み始めてから人並みに感情を表現できるようになった雪音の家族関係は徐々に修復していき、次第に誰よりも幸せな生活を送るようになっていた。

 そして半年後、雪音はようやく、その小説を読み終えた。

 すでに完結済みの小説ではあったが、三〇〇ぐらいの話数があったので、とても時間がかかってしまった。

 最終話を読み終えた時、雪音はどうしようもない満足感と達成感、そして抑えきれない胸の高鳴りを覚えた。



 ——この想いを、作者に伝えたい。



 雪音はそのまま小説の感想投稿フォームを開き、想いの丈を思い切りぶつけた。文章なんて国語の授業ぐらいでしか書いたことがなかったので支離滅裂にはなってしまったけれど、それでも、雪音は半年分の感想をそこに書き殴った。

 書いた感想を何度も何度も読み返し、修正し、深呼吸と共に送信した。

 この小説のおかげで自分は一人前になれたと。

 あなたのおかげで私は幸せになれたと。

 溢れて溢れて止まらないこの想いが作者さんに届くようにと一生懸命お願いしながら、雪音は感想を書き送った。

 返信は、すぐにやってきた。

 破裂しそうなぐらい脈動する心臓を抑えながら、雪音は返事に目を通した。

 そこには短く、こう書かれていた。



 ——ありがとう。喜んでもらえて、本当に、本当に嬉しいです。



 嬉しいのはこっちの方だ、と雪音は思った。

 そして同時に、生まれて初めて自分が嬉しいという気持ちを抱いたということに、雪音は気づいた。

 たった一つの小説が、私に嬉しさを教えてくれた。

 たった一つの小説が、私の人生を変えてくれた。



 ——私も、こんな小説を、書いてみたい。



 他人に感動を、感激を、そして感謝を与えられる小説を書いてみたい。

 この人みたいに、楽しみながら小説を書いてみたい。

 こんな私でも、他人の人生を変えられるような小説が書けるんだって、証明したい!



「……私は、あなたみたいな小説家になってみせます。今すぐは無理かもしれないけれど、絶対に追い付いてみせるので……待っていてくださいね、明智雅先輩☆」


 無理かもしれない、無謀かもしれない、無駄かもしれない。

 でも、全力で頑張ろう。

 何もなかった透明な私に色を与えてくれたあの人の隣に、自信を持って並び立てるように―――。





「——という訳です。はい、雪音ちゃんが明智先生のファンになった経緯話、これにてしゅーりょーでーす」

「……………………」

「うん? どうかしましたか明智先生? 顔が真っ赤ですけど?」


 ……こ、こんなの、照れるなって方が無理じゃない!?

 雪音ちゃんが僕の小説のおかげで救われた!? 僕の小説に憧れて、僕の隣に並び立てるように頑張った!? そ、そんなことを言われて、「ふーんそうなんだ?」とか言える訳ないよねぇ!?

 っていうか、僕の処女作に来た感想って一件しかなかったはずなんだけど、まさかそれが雪音ちゃんからだったとか! 凄く長くて熱意のある感想だなあってすっごく嬉しくて舞い上がっちゃった記憶が未だに鮮明に残ってるんだけど! 何なの、本当に何なの!?


「あのー……明智先生?」

「ひゃわあああい!?」

「え、何なんですかその悲鳴。今の感動的な過去話を聞いてどうしてそんなリアクションができるんですか……?」

「だ、大丈夫! 気にしないで! ちょっと恥ずかしすぎて死にたくなってるだけだから!」

「私の過去話なのに何で明智先生が恥ずかしがってるんですか? 意味分かんないんですけど」


 可愛らしく呆れる雪音ちゃんから目を逸らしたくて仕方がない。今の僕の精神状態じゃあ、照れ臭すぎて彼女を直視なんてできない。……でも、膝枕状態だから逃げられない! 助けて心晴! 穂乃果さん! 僕、今ちょっと嬉しすぎて死にそうです!


「本当に大丈夫ですか? なんか今にも火を噴きそうなぐらい真っ赤ですけど……」

「べっ……別に何ともないし!? 別に嬉しいとかないし!? ありがとうとか思ってないし!?」

「本当にどうしたんですか明智先生……リアクションが大げさすぎてちょっとキモイですよ……?」


 なんか理不尽にディスられた。

 でも、おかげでちょっと心が落ち着いてきたぞ。後輩からの罵倒で落ち着く自分が情けなくてしょうがないけども。

 深呼吸と共に胸を撫で下ろし、僕は彼女の顔を見上げる。


「でも、凄く驚いたよ。まさか本当に雪音ちゃんが僕の小説を読んでくれてただなんて」

「……私としては、せっかく感想を書いてあげたのに私のことにピンとすらきていなかった明智先生ふざけんなむかつく死ねー、って感じですけどー」

「いや、あの感想、確か匿名だったよね……? 気づけって方が無理あるよね……?」

「あの感想に込められた熱いパトスから私を連想できないなんて小説家失格なのでは?」

「理不尽すぎる!」


 それはもう小説家じゃなくて超能力者とかそういう類ではなかろうか。

 雪音ちゃんはわざとらしく肩を竦めると、


「ま、明智先生に憧れて頑張った結果、明智先生なんて目じゃないぐらいの高みにまで上り詰めてしまった訳ですけどね」

「天才すぎる……」

「どうですか? 自分の小説の読者に抜かされる気分はどうですか? ねえねえ? 悔しいですか? やるせないですか?」

「ぐっ……こいつ本当性格悪いな……」


 ニヤニヤニマニマと僕を煽ってくる雪音ちゃんに怒りが湧いてきそうになるものの、ギリギリのところでそれを抑え込むことに成功する。

 その後、僕は身体を少し起こし、彼女の頭を軽く撫でた。


「いろいろと言いたいことはあるけど、まずは、うん。——ありがとう」

「—————————。い、いきなり何なんですか? 私を甘やかしたところで意味なんか……」


 彼女の目から一粒の涙が零れた。


「ぁ……れ……? なん、で……?」


 彼女の涙腺が決壊するまで、そう時間はかからなかった。

 ぽろぽろと、大粒の涙が頬を伝い、そして布団を濡らしていく。目はどんどん腫れていき、唇は小刻みに震え始めていた。

 彼女は、とても頑張ったのだ。

 僕と並び立てるように、僕に認めてもらえるように。

 なら、僕は彼女を褒めなくちゃならない。

 僕の小説を読んでくれた大切な読者であり、僕に憧れてくれた大切な後輩である、冬森雪音のことを、思う存分褒めなくちゃならない。

 だって、きっと、彼女はそれを待ち望んでいるだろうから。


「僕みたいな底辺作家が偉そうに言えたことじゃないけど……よく頑張ったね、雪音ちゃん。おめでとう」

「ぇ……っ、ぁ、あぁぁ……」

「そして、もう一度、ありがとう。あの時、君が書いてくれた感想は、僕にとって本当に大切な宝物になってくれてるよ」

「っ……ぁ……ず、るい、です……ずるいですよぉ……せんぱいの、ばかぁ……」


 嗚咽を零し、子供のように泣きじゃくる彼女の頭を撫でながら、僕はただただ静かに微笑んでいた。






「ぐすっ……先輩に情けない姿を見られてしまいました。屈辱です。ちょっと切腹してもらってもいいですか?」

「お礼言っただけで腹切り要求されるとかちょっと世の中理不尽すぎない?」

「後輩を泣かせた罰です」


 んべっ、と舌を出す雪音ちゃん。でも、目が思いっきり腫れてるからただの強がりにしか見えないんだよなぁ。

 僕は彼女の涙でぐしょぐしょになった敷布団を丸めて洗濯籠にシュートしつつ、


「ま、その話は置いておくとしてさ」

「絶対に忘れませんからね覚悟しておいてくださいね」

「置いておくとして! 君の話を聞いた上で、気になることが一つあるんだけど」

「気になること、ですか?」

「うん」


 可愛らしく首を傾げる雪音ちゃんに、僕は言う。



「僕の大ファンのくせに、どうしてラノベ作家を辞めさせようとしてくるの?」



 彼女と出会った時から同じ疑問を抱いていたが、彼女が僕の大ファンと知った今、彼女の行動の理由を知りたいという欲求が以前よりも強く激しいものとなっていた。


「好きな作家がプロになったら普通は応援するものじゃない? それなのに、君は全力で辞めさせようとしてくる。——それはどうしてなの?」

「……逆に、聞かせてもらいますけど」


 雪音ちゃんは僕の目を真っ直ぐ見つめながら、


「先輩は今、小説を書いてて――心の底から楽しいと思えていますか?」


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