ペトリコール

おかけん

ペトリコール

 彼女曰く、この世に存在するすべての物質や事象には匂いがあるらしい。

 もうすぐ中学生という時節、一度だけ説明してくれたことがあった。

 「例えば雨の匂いだ。雨は空から水滴が降ってくる現象だが、当然水には匂いなんてものはない。それは生活していれば誰だって気が付くことだ。しかし雨が降るたびに、同じような匂いがすることにも誰だって当然気が付く。

 雨の匂いはペトリコールなんて呼ばれたりもするが、これは地面や石に植物の出す油が吸着し、それが湿度に合わせて発する匂いだ。

 ほかにもいろいろ要因はあるけれど、つまりは雨そのものが匂いを持つわけでもなく、ましてや空から匂いを運んでくるわけでもない。まったく関係のない地面から雨の匂いが発生するんだ」

 この説明を聞かされた時は深く納得していた記憶があるが、今思い返すと納得するのは正直難しい。雨という現象に匂いがあるのは当然わかるが、水に匂いがないということについては一切触れられていないからだ。

 森羅万象に匂いがあるというが、水には匂いがないといった。

 日常目にする水は当然のことながら何らかの物質と混ざりあい存在している。

 蒸留水というものを昨年の授業で使った。その時その匂いを確認しようとしたが、理科室特有の薬品のまじりあったような不思議かつ強い臭いに阻まれ確認できなかった。

 超純水を差し出し「これの匂いは」と尋ねたら、いったい彼女はどう答えるだろうか。

 ふと開け放たれた窓の外へと意識を向ける。グラウンドで集団行動の号令を叫ぶ体育教師の声に乗って、雨の匂いが教室になだれ込んでくる。

 高校に入学してからおよそ二か月。天気予報が梅雨前線の動向を伝える季節となった。


 この地域では高校進学に際して三つの選択肢がある。一つは偏差値と治安のそれほど良くない高校。二つ目は偏差値そこそこの自称進学校。そして多くの生徒がたどる田舎の外の高校への進学だ。

 外の高校への進学に際しては、毎日長い通学時間を必要とする実家暮らしと、夢の一人暮らしという選択肢が与えられる。

 もちろん仕事に就くという選択肢もないわけではないが、昨今高校生という選択肢を捨ててまで中卒で働き始めるというのは少数派だろう。

 実家から出る気は毛頭ないし、朝日とともに目を覚ますのもどうにも気に食わなかった。ゆえに比較的治安のよい県立矢田高等学校を受験し、高校進学というイベントを無事に終えた。

 特段勉強ができるわけでもなく学習意欲があるわけでもない。ただ授業は淡々とこなし課題も滞ることなく提出する。普遍的な生徒として一般的な交友関係の下、何の変哲もない日常を送っていた。


 授業終了のチャイムが流れだす。ちらりと腕時計に目を向けると、針は三時三十分を指していた。

 教師が授業終了を告げ、号令係が促されるまま仕事を果たす。

 教壇に立つ初老の男は、起立したままの生徒たちを一度見渡す。そして授業前に集めた課題プリントの束を小脇に持ち退室し扉を閉める。扉が枠を叩く音がすると同時に椅子が床をこすり、授業終了を明確に示す。

 数学の田辺は授業終了の号令後も、彼が教室を出るまで起立していないといけないという独自ルールを設けている。

 彼の最初の授業の終わりに、ほかの授業と同じく号令直後にそれぞれ思うように動き出すと、彼は二度手をたたき「私が教室を出るまでは起立したままでいるように」と宣った。そして二度目の授業終了時にこのルールがしっかり守られるようになる原因が発生した。


 一度目の授業を欠席した生徒が、田辺が教室を出る前にガタガタと椅子に座ったのだ。

 反抗精神旺盛な高校生とはいえ、まだ入学したばかりのひよこ達だ。座った彼を除いてすべての生徒は多少姿勢が崩れているとはいえ起立はしていた。それは僕、伊丹壮志そうしも同様だった。

 生徒たちの視線は一点に集中する。

 扉に手をかけた田辺は振り返ると目じりを吊り上げ、握りこぶしで扉を殴りつける。

「立っていろと言っただろうが。先週行ったことも覚えられんのか」

 田部は怒鳴ると、生徒たちの視線の先にいる彼をにらみつけ座席表を確認し、座った生徒を呼ぶとそのまま教室を後にした。

 連れていかれた生徒いわく、怒った田部は古風な体育教師に負けず劣らずな唐変木な邪知暴虐の王だったそうだ。

 前回の授業を欠席していたと伝えると、休んだ日の授業内容はクラスメイトに聞いておくのが当然だとだけ言われたそうだ。

 実のところ彼は授業内容を友人に確認していた。といっても初回の授業ではあったため、それほど多くを伝える必要はなかった。ただその友人が一言「先生が退室するまで起立」という一言を伝え忘れていただけであった。


 「相も変わらずおっかないね、あの田辺という教師はさ。授業中ずっと上の空だった君のことをずいぶんと睨んでいたよ」

帰り支度をしていると、二度目の授業で怒鳴られた生徒、辻井浩太こうたが目の前に現れた。すでにかばんを担いで帰宅準備万端という様子を見るに、この授業前からかばんの中に教科書類を放り込んでおいたのだろう。

「で、今日は何に意識を吸い取られていたんだい。やっぱり雨かい。それとも体育の合田の声かい」

 再び声をかけてくる。顔を上げ彼を見上げると、やはりニヤニヤとからかいを込めた表情をしていた。

「いや、傘を忘れてきちゃったからね。そのことを後悔していたんだよ」

彼の推測を否定し、そして付け加える。

「田辺のルールを伝え忘れていたことは、そろそろ許してくれてもいいんじゃないかな」

「壮志がそれを僕に伝えなかったという些細なことは気にも留めていないさ。なんたって君は伝言するたびに何かを伝え忘れるんだからね」

三年来の友の戒めともなると耳が痛い。

「それよりも僕がいまだに不満を抱いているのは、青春を謳歌すべき高校生活最初の三日を、我が家のベッドの中で過ごしてしまったことさ」

 彼は入学式の前日に不幸にもインフルエンザに罹患してしまった。そのおかげで水曜日の入学式はもちろん、授業初めの金曜日にも病欠をしていた。その金曜日に始まった授業の中に数学があったのだ。

 発症から五日かつ解熱後二日の条件を満たし、嬉々として初登校してきた辻井浩太が目にしたのは、すでに仲のよさそうな面々で固まった新たな同級生たちの姿だった。

 「浩太ほどの図々しさとコミュニケーション能力があれば、入学式後三日間のハンディなんてすぐに覆せたんじゃない?

 むしろ同級生との関りを積極的に避けているように見えるんだけど」

「そうかもしれないね。それよりいいのかい。傘を忘れてきた人間には厳しい雨模様になってきたけれど」

 彼は握った拳の親指を突き立て窓の外を指す。

 すでにしとしとと雨が降り出し、遠方の風景は雨粒であろうものに白く濁らされていた。

 今は傘を差さずともなんとかなりそうだが、遠くの雨雲がこちらに向かってくることを考えると浩太の言う通りかもしれない。

 親に迎えに来てもらうため、かばんから携帯電話を取り出す。すると浩太が「待った」と手のひらをこちらに向ける。

「僕の傘を貸してあげよう。一つしかないから相合傘になってしまうけど、僕は気にしないよ」

 かばんから折り畳み傘を一つ取り出し差し出してくる。それを受け取りありがとうと伝え、さらに一言追加する。

「傘立てに見覚えのある傘があるように見えるけど、あれは誰の傘だったかな」

 教室の隅の傘立てからはみ出たカラフルな持ち手に目を向ける。

「ばれてたか。それじゃ帰ろうか、そろそろ雨脚が強くなってきそうだ」


 「それにしても田舎というのはどうにも不便だね。電車なんてものは通ってないし、バスの路線もあまり親切とは言えない。今日みたいな雨の日なんかは、傘をさして歩くか車で迎えに来てもらうしかないんだからね」

 子供を迎えに来たであろう車が頻繁に行き来する道路の側を並んで歩いていると、浩太が話し出した。

「まあ雨の日は妙にしんみりした壮志が見られるから、特段嫌っているわけではないけどね」

 なかなかな言い草だ。そもそも雨の日に特別心が沈むといったことはない。……ないはずだ。

 そんなことはないと反論しようとすると、またしても浩太が話し出した。

「雨と言えばペリトールだね。それが原因じゃないかな」

「違う違う、ペトリコール。それにそれは匂いの名前で心に働きかけたりなんか……」

思い当たることがないといえば嘘になる。むしろ原因ははっきりしている。雨の匂いで必ずと言っていいほど思い出す彼女。

 天地万物全てに匂いがあると豪語していた彼女は、雨の匂いに強烈な印象を残して突然いなくなってしまった。今日の授業中も、傘のことなんて頭の片隅にすらなかった。ましてや合田の叫び声に日常を感じていたわけでもない。

 最後に彼女は「いつかまた」とほほ笑んだ。もうすぐ中学生となろうというのに、年甲斐もなく泣きじゃくる子供の手を握りながら。

 そのいつかはいつ来るのだろう。年を経るたびにいつかがとても遠くに感じるようになってしまう。


 ……し、そうし。

 少しばかり。そう、ほんの少しばかり心と思考を目の前の光景から乖離した場所に向けていた。

 浩太の呼び声にふと現実世界に目を向けると、突然目の前にコンクリートの柱が現れた。

 「せっかく親友を助けるべく、名前を連呼してあげたというのに。なかなかどうして、きみはしこうのうずにはまりこみいやすいにんげんのようだね。まったくもって君は思考の渦に飲み込まれやすいね」

 言葉の端々に嘲笑のような雰囲気を感じたのは決して気のせいではないだろう。

 片手をつい今しがた衝突した電柱につき、立ち上がりながら額の中心をさする。気にするほどでもないが、ひりひりと熱を持っている気がする。

 親友がいのない親友をキッと睨む。

「なんだいそのおでこは。君の平凡な顔にいいアクセントが付いたじゃないか」

今度ばかりは殴ってやろうかと思った。しかし彼がかばんから消毒液を取り出し差し出してくる。こういうところがどうにも憎めない。

 「ありがとう」

ポケットティッシュを取り出し額の下にあて勢いよく消毒液を噴射する。途端赤くなっているであろう部分が先ほどまで以上に熱くなってきた。垂れてきたアルコールがツンと鼻を刺激する。

 返した消毒液をかばんの中にしまい込むさまを見つつ、浩太のかばんの中はどうなっているのかを推測してみた。やはり入ってる教科書が俺のものより少ないのだろう。

 古臭く感じる黒いビジネスバックを閉じ前を向き直った浩太は、これまた使い古された手のひらを握りこぶしでポンと叩くという動作で何かを思い出したことを表す。

「そうだった。今日は敬愛する先生の新刊が出るんだった。それじゃ僕は本屋に寄ってから帰るからこの辺りでお別れとしよう」

 そういうと手を振りながらもと来た道を戻ってゆく。この辺りの本屋と言えば大手ショッピングモールチェーンの建物の中にあるあそこしかない。それは学校から見ると浩太の家とは真逆に位置している。

 親友が「また明日会おう」と手を大きく振りながら叫び建物の角を曲がったところで、小さく掲げ左右に揺らしていた手を下げ帰路に立ち戻る。


 浩太が言うように、高校生となった今でも雨というものに、というよりは雨の匂いに強く意識を握られている。それもこれも小学校を卒業する時、忽然と姿を消した彼女、宗和雨音あまねが原因だった。

 忽然と言えば語弊があるかもしれない。彼女は姿を消すことを事前に私に伝えていた。ただそれは姿を消す前日だったから、語弊があるというのも少し違うかもしれない。

 当時小学六年生だった僕と中学三年生だった彼女は、毎日のように放課後になると彼女の家で遊んでいた。遊ぶといっても宿題を手伝ってもらったり適当に雑談をしたりするだけだった。ただそれが無性に楽しかった。

 彼女は高校生になった僕が思い返しても中学三年生にしては大人びて見えた。


 明日が小学校生活最後の一日であるという日、いつものように彼女の家で雑談を楽しんでいた。

 まもなく、防災無線から夕焼け小焼けが流れ出す時間となってた。話に夢中になりすぎていたためその時気が付いたが、開け放たれた窓から仄かに雨の訪れを感じさせる空気が流れ込んできていた。

 やはりその時も私は傘を持ってきていなかった。ランドセルを家の玄関に放り込み外に駆けだしたときには、空には雲もなく雨が降る気配が微塵もなかったからだ。

 「傘持ってきていなかったよね。送って行ってあげる」

 彼女は立ち上がると、開け放たれた窓を閉めいつも通りにカーテンで覆う。光をそれほど遮らない薄めのカーテンなので部屋が少し薄暗くなる。

 彼女は部屋を出る前にいつもカーテンを閉じる。しかしその日は少し違った。いつもであれば彼女がカーテンを閉めると同時に夕焼け小焼けのメロディが町中に響き始め、そして一言「さぁ、帰ろうか」と告げるのだ。

 しかし彼女がカーテンを閉めてもあの聞きなれたメロディは流れてこないし、彼女も口を開かない。時計を見ると五時まであと五分ほど時間があった。部屋を一瞬静寂がつつみ、不規則な雨の音と一秒ごとに聞こえるカチカチといった音だけが室内にこだまする。

 何秒立ったのだろうか。彼女が口を開く。

「実はね。明日引っ越すんだ」

 突然の告白だった。この意味を最初は理解できなかった、いや理解を拒んだのだ。しかし少しづつ言葉の意味を理解し始め、じわりと涙がにじみだしたのを覚えている。

 中学生になっても、彼女は近くにいるものだと漠然と考えていたからだ。今思えば頭の良かった彼女が外の高校に入学することは至極当然のことで、別段おかしなことはなかった。

 しかし当時の私がそんなことを知る由もないわけで、ただ明日から彼女に会えないということだけが頭の中を支配した。

 そんな私に彼女がいつもの調子で話しかけてくれていたことは覚えている。しかし彼女が私に何を語りかけてくれたのかは毛頭記憶にない。私がひとしきり涙を流しそれなりに話が聞ける程普度に落ち着いたころには、五時を十分ほど超えていた。

 すると私が泣き止んだのを見計らってか彼女はすっと立ち上がり一言。

 「さぁ、帰ろうか」


 玄関を出ると雨の匂いがした。私に続いて玄関から出てきた彼女はそれに気が付くと大きく深呼吸をする。手には一本の傘が握られていた。

 傘を開き私を招き入れる。傘の下に入るといつもならば心の踊る雨音のリズムが聞こえた。その日は雨音がただの雑音として耳に入り、ただでさえ重たい気持ちをより一層押さえつける。

 会話はなかった。会話がなくなると決まって話しかけてくれていた彼女も、その日ばかりは終始無言だった。

 気が付くと家にたどり着いていた。帰りに要した時間は永遠だったような気もするし、刹那だった気もする。

 早く家に入ってしまおう。早くこの悲しみから逃げよう。そう考えて握った手を離そうとした。しかし手が離れることはなくむしろ彼女によって強く握られた。

「あまねえ?」

どうしたものかと彼女に尋ねる。すると彼女が傘を手放し私の背中に手を回す。そうして耳元であの言葉をささやく。

「壮志君。またいつか」

 それだけつぶやくと彼女は私から離れ、地面に転がっていた傘を拾う。そうして一度私に笑いかけると一目散に駆けていった。

 悲しそうな笑顔だった。

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ペトリコール おかけん @kento-oka

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