第22話 ダラムサラ
その日の深夜、二人は羽田にいた。
いつものことながら、休む間もなく次なる目的地へ向かう。
「すぐ行かないとだめなのか」
さすがにヒューストンは疲労の色を隠せない。
空港内にある日本ならではの『温泉施設』はすこぶる快適だった。できれば、そのままその温泉付きのホテルに泊まりたかった。
「しかたないじゃない。デリーの乗り継ぎが一番スムーズなのがこの便なの。デリーで一泊するの無駄じゃない」
いや、一泊しよう。
「そうだ、写真撮らなきゃ」
なんだ、今さら記念写真か。
「あった、あった」
ビクトリアはモノレールの駅の方へ少し歩くとグリーンのカーテンがかかった小さなボックスの中に入っていく。
あー証明写真か。ロンドンで見たことあるぞ。アメリカにはなかったけど。
でも何で証明写真。
「あなたも撮って」
言われるがままにボックスに入るヒューストン。何やら虚しく光るフラッシュが数回。
「さあ、行きましょう」
ホテル併設の商業施設に直結している空港ターミナル。そこからバンコク行のタイ国際航空機に乗り込む二人。残念ながらビジネスもなんとファーストクラスも満席。
「どれくらいかかるんだ」
「乗り継ぎも入れて十五時間くらい」
ここで一泊して明日の直行便に乗ればよかったのに。そうすれば、デリーでもゆっくり一泊だったんだろうに。
とりあえず寝るぞ。ヒューストンはシートに深く座りアイマスクを着けて早々に目を閉じた。
「起きて」
ビクトリアに揺り動かされて目覚めると、既に着陸した機は駐機場(エプロン)に向かってゆるゆると移動している最中だった。
バンコク、夜明け前のスワンナプーム国際空港に到着した二人。ボーディングブリッジを通ったときに一瞬熱気を感じただけで、広々としたターミナルの中は空調が利いていて、何の問題もない。そのまま国際線の出発ゲートへ向かって乗り継ぎ便を待つ。スワンナプーム国際空港でのちょっとした乗り継ぎにはトランジットビザはいらない。
「朝飯はどうする」
「さっきの便で軽く出たわ。寝てたから断っておいた。なかなかおいしかったわよ」
なんだって?ご親切なこった。
確かタイ国際航空の機内食はうまいと評判だったはず。
二時間半ほど待ってデリー行きに搭乗。この便もタイ国際航空。荷物はないので乗り継ぎでロストバゲージになる心配もない。
幸いなことに機内で軽食が出た。ありがたい。インドに着いてからは食べ物に気を付けないといけないしな。
四時間半ほどでインディラ・ガンディー国際空港に到着。
空港内の独特の香りに包まれて、インドに来たという実感が湧く。
入国ビザはいつの間にか電子申請で取得済み。デンバーのホテルでビクトリアがパスポートを出せだのなんだの言って何やらやっていたのを思い出した。
乗り継ぎもビクトリアが言っていたとおりたいした待ち時間はなかったのだが、イミグレーションを通って国内線ターミナルへの移動にはちょっと手間取った。
胴体に社名が大きく朱色で書かれたスパイスジェットに乗って、ダラムサラへ。
珍しくLCC。駐機場に待っているのはプロペラ機。
インドの航空会社は遅延が当たり前という噂を聞いたことがあるが、ありがたいことにほとんど定刻に出発。
一時間ちょっとのフライト。やがて窓からはヒマラヤの峰々が見えてくる。
ダラムサラ近郊のカングラ空港に着いたのは昼の一時過ぎ。
そこからタクシーで一気に標高二千メートルのマクロード・ガンジへ。
チベット亡命政府が置かれた山間の街、ダラムサラ。そのさらに高地に位置するマクロード・ガンジ地区。街中をエンジ色の袈裟を着た僧侶が行き交う所。
そう、ダライ・ラマに会いに行くのだ。
「ダライ・ラマってそんなに簡単に会えるのか」
「会えないわよ」
「どうするんだ」
「法話会に申し込むわ」
法話会。ダライ・ラマによる無料の講演会。
「登録に行くわよ」
予約制なのか。
「法話を聞く人は、法王の身の安全を守るために登録をしなければいけないのよ」
二人はセキュリティオフィスに行く。行列だ。遅々として進まない人の波。どうにかこうにかようやく窓口へ。
「写真出して」
「何だって?」
「登録に必要なの」
写真って。ああ、羽田で撮った、あれか。
ところが、写真を取り出してる間に、受付の人に写真を撮られて、ペラペラの入場許可書にぺたりと貼られてしまう。
背後に並んでいる人たちが写ったまま。いいのか、こんなんで。
そんなことを気にする間もなく登録料を支払っていざ法話会へ!って、いつなんだ。
「三日後よ。さあ、場所取りに行きましょう」
場所取りって?
「座る場所を確保しておくの」
今からか?
『ツクラカン・コンプレックス』と呼ばれる場所へ。そこには法王の住まいもある。
すでに法話会の会場、寺院の敷地内にはブルーシートが敷かれ、その上に何か文字が書かれた紙が貼られている。どうやら国別に座る場所が決められているようだ。
なぜ?
「それぞれに通訳の人が付いてくれるらしいわ」
さすが。ワールドワイドだ。
「場所取るわよ」
座り続けるのか?
そんな疑問はどこ吹く風、ビクトリアは自分の名前を書いた紙を「英国」の紙の隣にべったりと貼る。
「さあ、ホテルに行きましょう」
相変らず手回しのいいことで。
今回のホテルは、また随分と質素。
いつもなら、その界隈で一番いいホテルを予約しているのに。
「法話会に行きやすい所がいいでしょう。法話会の当日はものすごい人だから」
よく考えてらっしゃる。
法話会まで三日。どう時間をつぶそうか。
遅い昼食でも取ろうかとホテルの外に出る。街は思いのほか開けていて、狭い路地に様々な店が営業している。人通りも多く、車やバイクがひっきりなしに行き交っている。
「ビーガンじゃないものがいいわね」
それは同感。朝もろくに食べていないし。
店を物色。道のそこここには驚くほどバラエティーに富んだレストランやカフェが軒を並べる。チベット料理、インド料理、中華にイタリアン。日本食まである。
すっかり観光地の様相。
「イタリアンにしましょう」
ビクトリアはピザとパスタのメニューがある店に入るとテラス席へ。
テラスからはマクロード・ガンジの街が一望できる。
ビクトリアはパスタ、ヒューストンはピザを注文。アルコールはどうかとメニューを見るとしっかり載っている。ヒューストンはビールを頼んでご満悦。
それなりに満足のいく食事ができたところで、まだ時間を持て余す。
「どうする」
「もう一度寺院に行きましょう。何か面白い話が聞けるかもしれないわ」
二人は再びツクラカン・コンプレックスへ。
ツクラカン・コンプレックスのカラフルな装飾を施された門を入ると、大きな石のモニュメントと、そして『チベット博物館』がある。故郷を追われたチベット人の思いの詰まった建物。
さらに進めば寺院、『ナムギャル僧院』が見える。
そこここに『マニ車』と呼ばれる経典を収めた大きな円柱形の仏具があって、僧をはじめチベットの人々がそれを回す。一回回せば収められた経典を唱えたことになるという。
三々五々、思い思いに散策を楽しんでいる観光客と思しき人々。
あちこちと歩き回っていたビクトリアが何かを見つける。
「チベット名をつけてくれるんだって」
どうやら、ダライ・ラマの弟子たちが観光客にチベット風の名前を授けているらしい。
「私たちもつけてもらいましょう」
こういうものには興味がないのかと思ったが、やはりまだ子供だ。
いくばくかの金(お布施か)を払い授かった名前は『テンジン』と『デキ』。
『テンジン』はチベット族にはよくある男の名前。ダライ・ラマも確か『テンジン』という名前だった。あとで聞いたところによると『仏の教えを司る者』とかいう意味らしい。
一方『デキ』は幸福という意味だとか。
まあ、立派な名前をもらえて良かったとしよう。
名前をつけてくれたお弟子は英語ができるらしく少し話をする。
曰く、ダライ・ラマ法王の法話はすばらしく、常に皆の平安を願ってくださっている、と。
「『輪廻転生』についてはどう思うの」
ビクトリアはお弟子に、単刀直入に質問をぶつける。
「生を受けたすべてのものは生まれ変わり、生まれ変わる。野にいる山羊があなたの母かも知れず、空を飛ぶ鳥があなたの父かも知れない」
「二人ともまだ元気よ。まあ、それはいいとして、人間は人間に生まれ変わるんじゃないの」
「そのカルマによって人にも動物にも生まれ変わる」
「動物が人間に生まれ変わることもあるの」
「世に人が増え続けているのは、動物が人に生まれ変わっているからに相違ない。ゆえに、世の中には争いが絶えない」
「動物から人に生まれ変わったものは攻撃的だとういうの」
「そうではない。人として求むべき徳に未だ至らないところがあるからだ」
「それなら、人として生まれ変わり続けるものが増えれば争いはなくなるの」
「そうとは言えない。そのもののカルマによる。今世でどれだけ徳を積むことができるか。それゆえ何度も生まれ変わる」
ビクトリアは少し押し黙る。
「うちの猫が死んじゃったのよ。生まれ変わっているのかしら」
「生まれ変わっているだろう。生き物は皆生まれ変わる」
「どこに」
「それは分からない」
ビクトリアは寂しそうに微笑むとお弟子に礼を言い、別れを告げた。
それからの二日間はとりあえずの観光。
歩いていける滝やら丘やらに行ってみる。
どこへ行ってもいらっしゃるのは観光客の皆さん。
みんな、時間を持て余してるのか。
そんなことはないか。「観光」に来てるんだ。
それにしても体力には自信あったんだけど、さすがに二千メートル越えの高地は堪える。どうにも息が切れる。ヒューストンにしてこうなのだから。
「大丈夫か」
ヒューストンは、目的地の雄大な景色を、虚ろな眼差しでぼんやり見つめているビクトリアを気にかける。
「頭痛い」
高山病だな。
「帰るか」
「歩けない」
そう来たか。
タクシーに乗れるところまでは大分かかる。しかたない。
ヒューストンはかがんでビクトリアに背を向ける。
「乗れ」
「いやよ」
ヒューストンはビクトリアに背を向けて黙ってしゃがみ続ける。
ビクトリアは一つため息を吐くと、だるそうにヒューストンの首に腕を回し、その背中に体を預ける。耳元でビクトリアの少し苦し気な吐息が繰り返される。ビクトリアの髪の甘い香りの陰で汗ばんだ身体の香りが鼻をくすぐる。
ゆっくりと立ち上がるヒューストン。
軽いもんだな。
まだ華奢なビクトリアの体を背中に感じながら、ヒューストンは丘の道を下る。背後には雪をかぶったヒマラヤの山並みが真っ青な空を背景に広がっている。
いよいよダライ・ラマの法話の日。
改めてツクラカン・コンプレックスへ。
「ラジオを借りるわよ」
なんだって?
「法王の法話を通訳してくれるのよ。FMラジオで聞けるの」
至れり尽くせりだな。
ビクトリアはチベット博物館横の商店に入るとテキパキとラジオを借りる交渉をする。
「電池買ってきて」
ビクトリアは店を出てくるなりヒューストンに一言。
「電池持ってる人に貸すシステムなんだって」
電池なんてどこで売ってるんだ。
法話を聞きに来た周りの観光客にくっついて行って、門の外の店でなんとか電池を手に入れ、無事ラジオを借りると、ナムギャル僧院の法話会場へ向かう。
天井の高い僧院の広間。中二階のベランダの壁一面に、奇怪な図柄の『曼陀羅』の描かれた布が下がっている。
会場は既に床に座る人々でいっぱい。
ビクトリアが貼った場所取りの紙も、もはやどこにあるのかすら分からなくなってしまっている。そもそも、そういうシステムだったのかどうか。
とりあえず、場所が空いていそうなところへ行き、人と人の隙間になんとか潜り込む。
「通訳なんていないじゃないか」
「大丈夫でしょ。そのためのラジオだし」
座った場所は東洋人の集団の中。英語の通訳をしてくれそうな人物はどこにも見当たらない。
直に床に座るのには慣れていない。足の置き場に苦労する。周りの東洋人はうまい具合に足を組み合わせて座っている。真似をしようとすると、後ろにひっくり返りそうになる。
ビクトリアはと見れば、膝を抱えてちんまりと丸くなっている。しかたない、そうするか。
会場の正面に目を向けるときらびやかな祭壇が設けられていて、おびただしい数の供物が積み上がっている。
向かって左には大きな仏像が祭られている。
待つこと十数分、大勢の弟子たちを伴って海老茶色の法衣を纏ったダライ・ラマが登場。ダライ・ラマは一段高い重厚な玉座に足を組んで座り、弟子たちは、その周りを幾重にも取り囲むように座す。
しばらくして、弟子たちが経文を唱え始める。低い抑揚のない詠唱がマイクを通して会場内に重々しく流れていく。
経文の詠唱が続く中、弟子たちは着々と法話の準備を進める。ダライ・ラマにインカムを付け、演壇にお茶を用意する。
法話を全世界に発信するために、会場内にはビデオクルーがスタンバイしている。
やがて、経文の詠唱が終わり、ダライ・ラマが口を開いた。
ダライ・ラマの法話は、経典を解釈し、ヨガによる養生を勧め、そして日々の過ごし方を語って終わった。
法話の後は、信徒たちがダライ・ラマに次々と歩みより祝福を受けている。
ビクトリアとヒューストンは二時間近く丸くなって床に直に座っていたために、ひどく背中が痛んで、立ち上がるのにもひと苦労だった。
「とりあえずホテルに戻りましょう」
ホテルに着くと、二人ともベッドに身を投げてしばらく動けずにいた。
日が傾きかける頃になって、ようやく身動きができるようになると、夕飯を食べにホテルの外に出る二人。
「法話、ネットで見ればよかったんじゃないか」
チベット料理はなんとなく敷居が高いような気がして、中華を食べさせる店に入ってすぐ、ヒューストンは不満を口にする。
ビクトリアは知らんぷりをして、メニューを見ている。
グーグル先生に尋ねれば、ネット上にダライ・ラマの法話がいくつもアップされているのが分かる。
「ダライ・ラマに会ったっていうより、見たってとこだな」
ヒューストンは、まだぶつぶつと不平を言う。
「うるさいわね。分かってるわ」
ビクトリアは顔も上げずに、もごもごと、ヒューストンに反論する。
「どうするんだ。ここにいても、もうすることも無いだろう」
ビクトリアは相変わらず黙ったまま。
しかたがないのでヒューストンもメニューに目を落とす。親切なことに英語で品名が書いてある。餃子でもつまみに、何か飲むか。
ビクトリアは何かの麺を頼む。あとは相変わらず黙ったまま。これまでは驚くほど押しの強かったビクトリアが、ここにきて珍しく行き詰まっている。
しばらくして料理がテーブルに並べられる。
無言で食べる二人。
ヒューストンは手持無沙汰のまま、なんとなく頼んでしまったビールとも何とも形容しがたい地元の酒を早々に飲み干してしまった。
「ビールを」
店の者に追加を注文すると、ほどなく見慣れたビールと思しきものが運ばれてくる。
「今日は、法王さまの話を聞いてきたのかい」
追加の注文をしたからか、店の者が愛想よく英語で話しかけてくる。
「うん、まあそうだ。ずいぶん離れたとこからだけどね」
「直接お話しはしたかい」
「いやいや、すごい数の人だったから。信者でもないし」
「おそばに行って祝福してもらえばよかったのに。せっかく遠い国から来たんだろ」
「そんな簡単にそばには行けないよ」
「そうかな。だったら、個人謁見でも申し込むかい」
「なにそれ?」
ビクトリアが唐突に会話に割り込んでくる。
「個人的に法王さまにお会いしたいってお願いするのさ」
「どこに申し込むの」
「実のところ、法王さまの個人謁見は、今は中止されてるんだけどね」
「なんだ」
「でも、知り合いのリンポチェに聞いてみてあげてもいいよ」
「本当に?ぜひお願い」
ビクトリアは目をキラキラさせている。
なんかうさん臭い話じゃないか?
「あの話、信じてるのか」
その晩、ホテルの部屋に戻ったヒューストンはビクトリアに問いかける。
「信じてないわよ」
言下に却下。そりゃそうだ、冷静に考えれば。
「会う約束したじゃないか」
「とりあえず高僧に会えるかもしれないじゃない。何もしないよりはましでしょ」
ちょっとは信じてるのか。
まあ、身ぐるみはがされるようなことはないだろう。とりあえず付き合ってやるか。
翌朝、店の者に指定された場所に行く。
ツクラカン・コンプレックスの門の近くのカフェ。
赤と青に塗り分けられたひさしの中に入る。開け放たれたガラスの扉。店内は大きな窓からの明かりで居心地の良い明るさ。
まだ客はあまりいない。
それらしき人影はないので、外から見て目立つように入口近くに席を取る。
しばらくして法衣を纏った僧が店に入って来る。
僧は並んで座る二人を見て頷くと、向かいの席に腰を下ろす。
二人は握手をしたものか逡巡し、けっきょく軽く頭を下げる。
僧はにっこりと微笑み会釈を返す。
「法王さまにお会いしたいとか」
僧は流ちょうな英語で言葉を発する。
「残念ながら、法王さまは、今は個別にお会いすることはしていない。ご高齢なものだからね。もちろん、お体はすこぶるお元気だが」
僧は店員にお茶を注文する。何も頼んでいなかった二人も慌てて同じ物を頼む。
僧は運ばれてきたお茶をおいしそうに一口飲む。
「さて、私でお答えできることなら、お話しを伺うが」
その落ち着いたたたずまいに、少し気後れしている様子のビクトリア。
「生まれ変わりについてお聞きしたいの」
僧はもう一口お茶を飲むと、少し考えるように間を置いて話し出す。
「あなたがたにとって、生まれ変わりという考え方が受け入れられるものなのか、そこからお話を進めた方がよろしいかな」
ビクトリアは黙ったまま次の言葉を待つ。僧は続ける。
「あなたがたの信じる教えでは、人は死して審判を受け、その上で永遠に神の国に住まうことを願う。そこにあるのは常に『自己』であって、その『自己』は未来永劫存続していく」
僧は、そこで微笑みを浮かべてビクトリアの目をじっと見つめる。
「いかがかな
一方で生まれ変わり、輪廻というものは、今ある自らは、移り変わっていくものの一つの姿であって、変わることのない『己が姿』というものはない。変わらないのは、そのかりそめの姿の中に宿る『魂』だと考えている。お分かりか?」
ビクトリアは黙って頷く。
「『魂』そのものは変わらないが、それがこの世に形を成して現れるとき、その姿は千変万化だ。『魂』はこの世の生を繰り返し、繰り返すことで、カルマを解消し、その輪廻のくびきからの解脱を図る」
「解脱するとどうなるの」
「涅槃に至る」
「涅槃は天国っていうこと?」
「あなたたちの教えでいう『天国』とは違う。涅槃は場所ではない。境地だ。涅槃に至れば魂の輪廻は終わる」
「涅槃に辿り着くと魂はどうなるの」
「そうさな、彷徨う魂はなくなる」
ビクトリアは少し考える。
「輪廻って悪いことなの」
「そうだな。輪廻からの解脱が魂の目的だ」
「でも、あなたは『活仏』なんでしょう」
「いや、そうではない。私は修行を積んだ者に過ぎない。活仏であるのは法王さまだ」
「ダライ・ラマ法王は解脱しないの?」
「法王さまは衆生を救うために何度でも生まれ変わる観音菩薩の化身だ」
ビクトリアは、今一つ腑に落ちないような顔をして押し黙る。
「さて、お茶も飲み終えた。そろそろお勤めの時間になる」
ヒューストンは慌てて店員を呼んで勘定を済ませる。もちろん僧の分も。
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