第21話 東京

 ヒューストンは、久しぶりに訪れたデンバーの街を独りあてもなく散策したいと思っていた。

 クアーズ・フィールドは変わらずに倉庫街の中に赤いレンガ造りの古色然とした姿で鎮座している。その周りの、昔住んでいた頃のままの懐かしい街並みを見ながら、通りを歩きたかった。

「さあ、東京に行くわよ」

 ビクトリアは有無を言わさぬ勢いで航空券をネットで予約する。

「東京で何を調べるんだい」

 ヒューストンは、気乗りのしない問いを口にする。

「東京に、臨死体験を自らルポした人がいるの」

「死にかけたのかい」

「臨死の状態を進んで体験して、ルポルタージュしたの。すごくない?」

 物好きもいたもんだ。


 特定の秘密結社に関係があるのではないかという銘板や不気味な彫刻、不可解な壁画が存在し、さらに巨大地下施設があると噂されるデンバー国際空港を昼前のユナイテッド航空で出発し、日付変わって翌日の午後、成田国際空港に到着する。

 前回、日本に来た時は『羽田』だったけれど。『成田』はどうにも東京から遠い。

 空港からのタクシーは、幹線道路をひた走り、やがて立ち並ぶビル群の中の細い高架道路へ。かなりのスピードで一糸乱れず等間隔で走り続ける車。何度、目にしても驚いてしまうその光景。日本人は正に精密機械だ。


「今日は『御茶ノ水』ってとこにあるフォーマルなホテルに泊まるわよ」

 東京に着いたのは夕暮れ近く。タクシーで乗り付けた古色蒼然としたホテルにチェックイン。

「今晩はゆっくりしましょう」

 ビクトリアと日本に来たのはこれが三回目。せっかく日本に来たんだから、富士山とか温泉とか京都とかに行きたいとは思う。が、今回もそういうことにはならないんだろうな。ゆっくりするのは、きっと今晩だけだ。

「明日はどこに行くんだ。死にかけた先生のとこか」

「とりあえずは、手始めに明治大学。有名な私立大学よ」

 そういうことだ。今晩はホテルのレストランでうまい酒でも飲んで寝るか。


 大学はホテルのすぐ隣、歩いて五分もかからないところにあった。

 真新しいビルの受付で目当ての研究室にアポを取る。

 案内され、通された部屋は見晴らしの良い個室。特に研究室名の表示は見当たらない。窓からは、水路に囲まれた緑地が見える。少し離れた所にあるにもかかわらず、その緑の敷地はまっすぐ目に飛び込んでくる。後で聞いたところによると天皇(エンペラー)の居城だという。

「先生は講演会でお出かけです。ご用件は私が承ります」

 部屋には若い女性。化粧っ気のない顔、飾りのない服装。黒のパンツに白のブラウス、柔軟剤の香りがほのかに香る。

「担当直入に伺うわ。死後の世界について聞きたいの」

 単刀直入にもほどがある。

「確かにここではそういうこともテーマの一つとして調査研究を行っていますが、はっきり言って死後の世界というものについては何一つ確定的なことは申し上げられません」

 これまたけんもほろろのご回答。取り付く島もない。

「でも、そういうものに興味があるからこの研究室にいるんでしょう、あなたは」

 若い女性はそれには答えず黙り込む。そんな彼女にビクトリアはいたずらぽい笑みを浮かべながら問いかける。

「もしかして、あなた『見える人』なんじゃない」

 若い女性は一瞬たじろいだ風に身を固くする。

 しかし、いったい何を言い出したんだ?

「霊とか怪異とか」

「そんなことはありません。あれは気のせいです」

「あれはって、やっぱり見えるんじゃない」

「ですから気のせい」

「いいじゃない、見えたって」

 いいのか?いつぞやは、自分はそういうのはダメだって言ってなかったか?それにしても妙に鋭いところがあるな、このお嬢さんは。

「そういうものが見えるから、この研究室にいるんじゃないの?」

 女性は黙っている。

「あなたはどう思うの、そういうものが何なのか。あなたの考えが聞きたいわ」

 女性は困った様子でビクトリアを見る。

「私個人の考えですか?」

「そうよ」

 女性は少し宙に目を泳がせる。

「私は幼い頃から人には見えないものが見えていたそうです」

「なぜ、他人事?今は見えないの」

 いやいや、まずは聞けって。

「見ないように気を付けているので」

「気を付けていれば、見えないの?」

「ふとした折に、ちょっと」

「それをあなたは何だと思うの」

「何なんでしょうね。それが私に対して何かアプローチをしてくるわけではないので」

「ただいるだけ?」

「そうですね。居ると言うか、在ると言うか」

「じゃあ、人じゃないの?」

「人のような形に見える時もあれば、異形のものに見える時もあって。全く形をなしていなくて何か不穏なものとしてそこに在るときもあります」

「今は?」

「気を付けていますから」

「それはいいものなの、悪いものなの」

「良いものとは感じませんが、悪いものとも思いません」

「それは霊?」

「どうなんでしょう。霊というものが何だか分からないので」

「なんか埒が明かないわね」

「そうですね。まったくです」

 女性はちょっと寂しそうに微笑む。

「それが何なのかを知りたいと思わないの?」

 女性はまた少し押し黙る。

「私なりにいろいろな可能性を調べてはいるのですが」

 さっきは気のせいだって言ってたくせに。

「やっぱりね。たとえばどういう可能性があるの」

「脳が見せている幻覚の一種と考えることができます」

「どういうこと?」

「私たちが実際に見ていると思っているものは、実は目がとらえた情報を脳が取捨選択し映像として認識しているものであることが、最近の研究の結果、ある程度確かな事実と考えられるようになりました」

「回りくどいわね。つまり脳が嘘をついていると?」

「嘘ではなく情報の選択です。すべての視覚情報を認識していては、脳が処理しきれないと考えられるので。その際に、本来、排除されるべき情報が排除されずに認識されてしまうのが、幻覚と呼ばれるものである可能性があります」

「脳のバグってこと?」

「そういうこともあるかも知れません。取捨選択の際に、誤った情報を認識してしまうこともあり得ます」

「見えないものが見えるって言うのは、普通の人なら脳で削除されている情報が認識出来ちゃってるってこと?」

「または、誤った情報を認識しているのかも」

「それって、脳波の検査とかで分かったりしないの?」

「異形のものが見えている瞬間に脳波を取るのは難しいので」

「四六時中脳波計つけて歩けばいいじゃない」

「そこまでコンパクトなものはまだ。電極キャップをかぶってモニターを持って生活するわけにもいかないので」

「でも、そうねえ、脳の問題に帰結しちゃうと、それで終わっちゃうわねぇ」

「いえ、誤った情報なのか削除されなかった情報なのかで、大きく違ってくると考えられます」

「ああ、確かにそうね。で、どっちなの」

「分かりません。ただ、認知症の症例の一つで、幻視というのがあります」

「レビー小体型認知症ね。見えるはずのないものが見える」

「そうです。そのことから類推すると、脳が誤った情報を認識している、または脳に機能障害が生じている」

「それって、ちょっと嫌じゃない。自分のことでしょう?」

「まあそうなんですが」

 そう言いながら、女性はちょっとうつむき加減に下を向く。

「それで、もう一つの可能性、普通の人の脳では削除されている情報が認識されてしまうというのは」

「認識できる視覚領域が広いという可能性はあります。たとえば、プラズマが見えるとか」

「見えるの?」

「いいえ」

「ああ、じゃあ、ダークマターが見えるとか」

「それは大変な発見になりますよ。世界中の研究者が探し求めて、未だかつて誰一人観測できた者がいないんですから」

「でも、何かが見えている。やっぱり、霊とか妖怪ってことになっちゃうのか」

 ビクトリアは口をつぐんで考える。

「あ、さっき見ないようにすると見えないって言ったわよね。それって、意志の力で視覚情報をコントロールできるってこと」

「うーん、コントロールとは少し違うんですが」

 女性は困った顔をする。

「目をそらすと言うか。一番近い感覚は、目の焦点をぼやかせるというような感じ、と言うのでしょうか」

「普段からずっとそうしてるの?疲れない」

「そうですね。もう習慣のようなものになっているので」

「でも、何かは居る?在る?」

「うーん、そうですね。そう言えると言えばそうなんですけれど」

「結局、何だか分からないってことね」

「ええ、ですからヒントになることがないか、調査研究を続けているのです」

「自分のため」

 女性は、一瞬の間を置いて、そして答える。

「そうです。自分のためです」


 二人は研究室を後にする。

「あそこは何を研究してるとこなんだい?」

「心理学?いろいろよ。あの人もそう言ってたじゃない」

 言ってたか?まあいいや。

「お昼にしましょう」

 学食か。大学だからな。

 ビクトリアはiPhoneをちょこちょこっといじってその画面に目を落とすと、勝手知ったるかのようにエレベーターに乗り込んで目当ての階のボタンを押す。

 各階の案内表示をざっと見ると『SKY LOUNGE』の文字。

 こいつが学食か。小洒落てるじゃないか。

 ところがエレベーターはその階を素通り。おいおいどこまで行くんだ。

 着いたのは最上階。扉の向こうには眼下を見渡せるちょっとした宴会場が広がっている。

 ビクトリアは室内に躊躇なく入ると、その場にいた人に何やら話しかける。ひとしきり話が済むと

「貸切にしておいたから」

 そう言ってニッコリと微笑む。

 いやいや、昼から宴会か。朝もホテルでしっかり食べたし。食べきれないぞ。

「大丈夫、ワインも頼んでおいたから」

 昼からワインか。せめてビールにしてくれ。


 たらふく食べて午後になる。もう今日はちょっと。

「さあ、次に行きましょう」

 やっぱり。

 ビクトリアはタクシーを拾うと「六角坂まで」と告げる。

 十分足らずで着いた所にあったのは奇妙な建物。坂の途中、細長い建屋の壁面に黒い猫の顔が大きく描かれている。

「今度は誰だい」

「臨死体験を自分の身体で実験した人」

「死にかけた先生か」

 ビクトリアはためらうことなく入口ドアのインターホンを押す。

「どなた」

 インターホン越しに建物の住人の声。

 素性を述べ訪ねた理由を伝えると、断られることなく建物に招き入れられる。

 入ると中は壁一面の本の山、本で壁が出来ているような感覚。

 ちょっと息苦しいぞ。

 そこはかとなく煙草の臭いも漂っている。

「まあ、かけて」

 主は雑然とものが広げられているテーブルに二人を誘う。

「遠くからいらしたようだけど、臨死体験について聞きたいということでいいのかな」

「そうね。そしてその先にあるものについて」

「臨死体験というものについては語ることができるけど、その先の『死』について結論的なことを述べることはできないな」

「臨死体験と死は一続きじゃないの?」

「臨死体験は、体験という言葉を使っているけれど、実際は体験ではなく眠っている間に見る『夢』に近い。夢が、何か別の世界の出来事を見ているというものではないように、臨死体験が死後の世界を見てきた、その記憶だと言い得る証拠は何もない」

「でも、夢は人それぞれに見るものが違うけど、臨死体験はそれを体験した多くの人が同じものを見たと言うわ」

「夢も臨死体験も人の脳の中で形作られるヴィジュアルや感覚であると考えられる。両者の違いは脳の機能する部位や役割の違いなのではないかと考えることができる」

「どういうこと?」

「夢は、脳に蓄積されていく日々の情報を脳が自ら整理する過程で表出するものであり、一方、臨死体験は、自らが重篤な状況に陥った時に、脳の中のある特定の部位に脳内伝達物質が働きかけることによって現出する一種の反応だと考えられる」

「もともと脳に織り込まれているものだっていうこと」

「そうだね、多くの臨死体験者が同じようなヴィジョンを見たという記録が存在することから、そう考えるのが合理的な解釈と言えるのではないかな」

「あなたはどうだったの?」

「僕は、臨死体験を疑似的に再現する状況を経験しただけなんだけどね。それでも体外離脱は経験できたかな」

「死にかけたっていうこと?」

「いや、自己からの脱落というか乖離というか。意識が自分の肉体の中にあるという認識が欠落する、崩壊するんだね」

「意識の崩壊って、そう理屈づけただけじゃない?」

「科学的な検証を経た事実だよ」

「自分の姿を天井の方から見下ろして、さらに周りにいる人たちの姿まで目撃するんでしょ。意識の認識の所在の問題で片づけられないんじゃない」

「本当に目撃しているわけではないからね。意識がそう認識しただけ。脳が目で得た情報ではなく、音だったり、匂いだったり、肌の感覚だったり、そういうものを脳内で再構成して、視覚情報として認識していると考えることが出来る」

「じゃあ、大量の記憶のフラッシュバックが起きたり、光のトンネルを抜けていく感覚っていうのは?」

「脳の海馬が虚血状態になって機能低下が起こると数分後に突然活発に活動を始めるということが確認されている。さらに、前にも言ったが大脳辺縁系に脳内伝達物質が働きかけることによって、ある特定のヴィジョンが認識されるようになる」

「大いなるもの、神の存在に遭遇するというのもあるわ」

「それも同様の反応だ」

「本当にそうなの」

「少なくとも、そのような研究を真摯に行っている研究者から確かな研究結果が報告されている」

「あくまで臨死体験は死後の世界を垣間見せるものではなく、死に瀕した際に脳が醸し出す物理的な反応だというのね」

「そうだね」

「それなら死後の世界についての研究はないの」

「死後の世界は誰にも分からない。分からないものについては語るべきではないね」


 二人は、建物の住人に別れを告げると外へ出る。あたりはすっかり暗くなっていた。

 街灯に照らされた建物の壁面の猫の目がこちらを虚ろに見下ろしている、

 そんな風に見えた。

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