第20話 デンバー

 ロッキーの山並みが街に覆い被さるようにそびえている。標高一マイル(千六百メートル)にあるこの街だけれど、昼間は思いのほか暑い。

 ロンドンからまた大西洋を渡ると聞いて、ちょっとうんざりしたのだが、行先がデンバーだというので、とりあえずはお姫様について行くことにした。

 デンバーには、昔、三年ほど住んだことがある。山岳地区にあるにもかかわらず、人口は州随一の規模を誇っていて、わりと住みやすい。もっとも冬はそれなりに寒いのだけれど。


 ヒースローで乗る予定だった上海行の便は、簡単にキャンセル出来た。出発直前だったにも関わらずキャンセル料はなんと半額。それでも、結構な額だったが。

 そこへ相変らず身軽な格好でやってきたビクトリア。急かされるままに慌てて乗った便は、レイキャビック経由。デンバーなら翌日の昼間に直行便が飛んでるんじゃないのか?

「アイスランドって、ちょっと行ってみたかったの」

 そんな理由で深夜便か。

 夜のフライトにはもう慣れっこ。アイスランド航空で三時間、真夜中のレイキャビック、ケプラヴィーク国際空港に到着。乗り継ぎ便は翌朝発。事前渡航認証システム(ETIAS)は認証済みだから入国可能。

「空港のホテル取ってあるから」

 その名も『オーロラ・ホテル』。空港直近で、すぐにベッドに入れるのはありがたい。

 シャワーも浴びずにベッドに直行。やっぱり大分疲れていたのかもしれない。目覚めた時にはすっかり日も昇っていた。

 丸二日、シャワーも浴びていないヒューストン。ちょっと臭うか。

 そういえば、アイスランドにはサメ肉を発酵させた料理があると聞いたことがある。確かスウェーデンにはニシンを発酵させた世界一臭い缶詰ってのがあったはず。北欧の人はなぜ好き好んでそんなものを食べたがるのか。昔は必要に迫られて食べていたのかもしれないけれど。自分は食べたいとは思わない。もっともブルーチーズは酒のつまみにちょうどいいとは思うのだけれど。


 海辺に位置するケプラヴィーク国際空港を飛び立ったデルタ航空機は、レイキャネス半島上空を西に向かう。アイスランドに寄ってみたいというビクトリアの希望は、この空の上からの景色で多少は満たされたのだろうか。

 機は一路太西洋を渡り、ミネアポリス・セントポール国際空港へと向かう。ここで乗り継ぎ、デンバー国際空港へ。

 ミネアポリスでの乗り継ぎ時間はことのほか短かったにもかかわらず、ビクトリアは悠然と構えている。同じデルタ航空の乗り継ぎ便だからと高を括っているのか。それとも、上級顧客の自信なのか。バグダッドに行った時、ヒューストンのジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港で乗り継ぐために既に電子渡航認証システム(ESTA)の認証を受けているから、入国に手間はかからないとはいえ、ヒューストンは柄にもなく気が気ではなかった。

 結局、デンバーに着いたのはロンドンを出て約二十時間、そのままビクトリアが予約していたホテルにチェックイン。『トンプソン・デンバー』というそのホテルは街の中心に位置するわりと新しいホテル。いつもながら、ビクトリアの選ぶホテルは快適だ。大した荷物もないので、軽くシャワーを浴びて一休みすると、街へと繰り出すことに。

「食事、ホテルのレストランでゆっくり食べればよかったんじゃないか。フレンチもあったぜ」

 髭を剃ってさっぱりしたヒューストン。着替えの服もないが、それは気にしない。

「ちょっとジャンクなものが食べたいのよ」

 『クアーズ・フィールド』もほど近い街路。昔、住んでいた頃のことが思い出されて、ちょっと懐かしい。

「この界隈は何もないぞ。ユニオン・ステーションの方にでも行けばそれなりのもんが食えるけど」

「じゃあ行きましょう」

 ビクトリアはフロントでタクシーを呼んでもらう。タクシーに乗るほどの距離じゃないけれど、それほど人通りのない所を女の子を連れてふらふら歩くのも不用心だ。

 駅の近くでタクシーを降りると、赤いレンガの建物が連なる街並みの中を歩く。デンバーに住んでいたのは随分前だけれど、嬉しいことにその頃と変わらず営業している店が何軒も見受けられる。その内の一軒、地ビールを飲ませてくれる店に入る。デンバーはビールの街だ。『クアーズ』のメインオフィスがある。メジャーリーグの球場の名前からして『クアーズ・フィールド』だ。

 店に入るとさっそくビールを頼む。ビクトリアはアボカドののったトルティーヤとジュースを注文。しごくご満悦なご様子。クアーズ・フィールドではロッキーズが試合をしているんだろう。店のテレビで野球の中継が流れている。店の中には、理由は知らないけれど本物そっくりの猿の置物が鎮座している。

「それで、デンバーではどこに行くんだい」

「アンシュッツ・メディカル・キャンパス」

「何だい、それは」

「コロラド大の医療部門。デンバーのお隣のオーロラにあるの」

「そこに行けば、おまえさんの疑問が解けるのか」

 ビクトリアはその問いには答えず、テーブルに運ばれてきた二つめのトルティーヤにかぶりつく。

 今回の旅の目的は、実のところはっきりとしていない。ビクトリアはデンバーまでの飛行機の中でも、どういう訳か疑問を口にしなかった。今までは、まずそこから始まっていたのだけれど。

 まあいいさ。俺も何か食べるか。久しぶりに名物のオムレツでもつつくことにしよう。


 翌日、レンタカーを借りると、十マイルほど東のオーロラへと向かう。『オーロラ』というたいそうな名前は住民投票で決まったそうだが、こんなところでオーロラなんかが見えたりするんだろうか。少なくとも、自分がデンバーに住んでいた時にはオーロラなんぞ見たこともないが。

「で、お目当ての先生は誰なんだい」

「うーん、その先生はもういないんだけど、その研究の成果みたいなものが残ってるんじゃないかと思って」

「今度はいったい何を知りたいんだ」

 ヒューストンの問いに、ビクトリアはちょっと口をつぐむ。

「あのね。私、猫を飼っていたのよ」

 ああ、確か前にそう言っていた。

「久しぶりに家に帰ったらね、もういなかった」 

 どうしたんだ。家出か。

「死んじゃったの。留守にしている間に。たった半月なのにね」

 ビクトリアは、また口をつぐむ。

「会いたいな、もう一度」

 ぽつりとそう呟くと、ビクトリアはそのまま押し黙ってしまった。  

 もう一度会いたいって、クローンでも作ろうって言うんじゃないだろうな。確かに大学じゃそんな研究をしているとこもあるっていうのを聞いたことはあるが。ここがそうなのか。

 ほどなく車はメディカル・キャンパスに到着する。駐車場に車を停めると、敷地内を歩く。広大な敷地に様々な建物。いったいどこを目指しているのか。

 ビクトリアは、学生と思しき若者たちに次々と何かを尋ねると、どうやらお目当ての場所を探し当てたらしく、ヒューストンの前をどんどん歩きだす。

 ようやくたどり着いたのは、敷地のずいぶん端にある建物。これならここまで車で来ればよかった。

 建物は大学図書館。ビクトリアは受付に向かうと、すかさず交渉を始める。司書と思しき女性と侃々諤々何かを言い合っている。

「OKが取れたわ」

 暫く後、ビクトリアは笑みを浮かべて戻って来る。

 司書に誘われて、図書館の奥の部屋へ。

 軒の高い天井までびっしりと並んだ書物。どうやら閉架書庫らしい。

「お探しのものは、この書架にあると思いますわ」

 司書は電動式の書架をいくつか動かしてビクトリアにそう告げると二人を残して部屋を後にした。

「何を探すんだ」

「うーん、あのね」

 ビクトリアはまた口ごもる。

「私ね、その、すごく苦手な話なんだけど、死後の世界、というか死んだらどうなるかを知りたいのよ」

 ああ、そういうことか。死んだ猫にまた会いたいってことか。乙女だな。まあ、分からんでもないが。クローンを作りたいって言いだすよりは大分穏当だ。

「霊とか、そういうのはNGなの。古い屋敷なんかに付きものじゃない。うちの持ってるいくつかの建物にもそんな噂があって。子どもの頃からずいぶん怖い思いをしてきたのよ」

 お化けはダメか。前にそんなことを言ってたな。

「だけど、そういうものに科学的にアプローチした研究がいくつもあるじゃない。だから、調べてみたいって思ったの、どうしても」

 思い立ったらすぐやる娘だからな、この子は。しかたがない、お付き合いするか。

「で、ここでは、どんな研究を調べるんだい」

「『死』への入口。死ぬ瞬間はどういう状態になるのか。何を見て、何を感じて、そしてどこへ行くのか」

「そんなことを研究した先生がいるのかい」

「昔、この大学にいたのよ」

「もう、いないのか」

「亡くなったわ」

「じゃあ、ここまで来る理由はないんじゃないか」 

「世に出てない論文があるかもしれないじゃない。それに、後を継いで研究している人がいるかも知れないでしょ」

 ビクトリアはそう言いながら書棚を探っていく。相変わらず熱心なことだ。

 ヒューストンは手持無沙汰を紛らわすため、目的もないままに奥行きの深い書棚の前を歩き回る。

 『死』なんてことはあまり考えてこなかった。昔やってた『仕事』はそれなりに危険もあったが、『死』と隣り合わせという訳ではなかった。辺境に店を構えている今はといえば、ときに身近に『死』の臭いが漂うこともあったけれど、『死』を実感するという程のものでもない。『死』が現実味を帯びて我が身に迫ってきたことなど多分一度もなかったように思う。新型コロナウイルス感染症に罹る気もしなかったし。

 まあ、こうして旅を重ねている日々は、現実離れしていて、どこか夢のようではあるのだけれど。

 ビクトリアは電動書架を盛んに動かしてお目当てのものを探し続けている。

「無いわ、無い」

 しばらくして書棚の向こうでビクトリアが声を挙げる。 

「どうしました」

 背後から女性の声。振り返ると先ほどの司書が佇んでいる。

「無いのよ。何にも無い」

「お探しのものはここには無いかも知れません」

「どういうこと」

「わたくしも改めて検索してみたのですが、すべて研究室の方で保管されているようです」

「やっぱり、まだ研究は続いているのね」

「大学として積極的に取り組んでいるというものではないようです。わたくしも、よくは存じていないのですが」

「研究室はどこなの」

 司書の女性は手にしたタブレットを指でクリックするとキャンパスの構内図を表示する。

「たぶんこちらだと思います」

 ビクトリアとヒューストンは、司書がプリントアウトしてくれた構内図を頼りに研究室のある建物を目指す。キャンパス内には病院施設も併設されていてとにかく広い。

 今日はどれだけ歩かされるのやら。


 その研究室は古びた建物の二階、その一番奥にあった。

 ビクトリアはドアをノックする。少し間を置いて出てきたのは、予想に反して小ざっぱりとした青年だった。

「これはかわいらしいレディと、そちらはお兄さま、それともお父さん?違ったらごめんなさい。『死生学研究室』にようこそ。それでご用件は何かしら」

「『死』というものについて伺いたいと思って」

「それはまたずいぶんとアバウトな質問ね」

 人懐っこい笑顔で応答する青年から、シトラス系なのにほのかに甘い香りが漂ってくる。

「なんでそれに興味があるの?」

「生きている人間なら、みんな興味あるんじゃない」

 そういう言い方、らしいといえばらしい物言いだけど。幸いなことに青年は、愉快そうに笑っている。

「そうね。うん、僕も大いに興味がある。で、死の何を知りたいの」

「死んだらどうなるか。どこに行くのか。それともどこにも行かないのか」

「うーん、知りたいよね、それ。僕も知りたい」

「ということは分からないの?」

「分からないよねぇ。死んだことないし」

 青年は面白そうに笑っている。

「まあ、お入りなさい」

 青年に招き入れられて、二人は研究室に入る。小ぢんまりした部屋の中は、ハーブだろうか、アロマオイルの香が漂っている。

 窓際に小さなデスク、壁いっぱいに並んだ書棚。その真ん中に趣味のよさげなシンプルなアンティークソファが一つ。

「何か飲む?お嬢ちゃんはココアでいい?」

 書棚の片隅の小さな物入れの中から、少し高級そうなフォルムのティーカップを取り出すと、青年はデスクの脇にあるウォールシェルフに載っているヴァンホーテンをカップに三さじ入れて、ポットのお湯を注ぐ。

 ココアの良い香りがあたりに立ち込める。

「お兄さんは、コーヒーでいいかしら」

 青年はポットの脇にあるコーヒーメーカーを目で指し示す。

 ヒューストンが軽く会釈するのを確かめると、青年はミルクと砂糖を添えたカップをテーブルに置く。

「さて、何からお話ししようかな」

「臨死体験については?」

「ああ、そうね」

 青年はビクトリアにニッコリ笑いかけると自分の椅子に腰を下ろす。

「古今東西、臨死体験といわれるものの記録はたくさん残っているわね」

 青年は組んだ腕の片肘を立てて、手の甲に顎を乗せる。

「古いところではゾロアスター教の文書の中にも記載があるわ。『アルダー・ウィーラーフの書』と言ってね。特殊な技法で臨死状態となって、死後の世界を垣間見るというもの。

 ダンテの『神曲』はこれを参考にしているとも言われているの」

 いきなりダンテか。名前ぐらいは知っているが。専門家にはついていけない。それにしてもずいぶんと美味いな、これ。ヒューストンは青年の淹れてくれたコーヒーを口にしながらぼんやりと考えている。

「でも、ダンテの神曲は、当時の政争に対するダンテの抗議の意味が込められてると言うわ。単純に臨死体験を記したものという訳ではないんじゃないの」

 ビクトリアの発言に、青年は目をちょっと見開いてゆっくりと微笑む。

「そうだね。おっしゃるとおりだ。ただ、臨死体験というのは、かなり前の時代から、人々に記憶され、経典や創作物の中にまで記されるものであったということは、覚えていてもいいことだと思う」

「それだけ、普遍的なものだということ?」

「普遍的かどうかは別として、そういうものがあるということは、広く認知されていたということでしょうね」

「でも、類型はあるんでしょう。光のトンネルを抜けるとか、光り輝く人を見るとか。体外離脱なんかもそうなんじゃない」

「そういう記録はたくさん残っているわね。確かに臨死体験を類型化することはできるわ。ただ、それぞれが少しずつ違っているし、全く違った体験をした人もいる。その人が生前、というか臨死体験をする前に信じていたものの影響が色濃く現れている人もいる」

「ということは、それぞれの人がその体験を自ら夢想しているということ?」

「夢想というか脳内ビジョンというか、そういうものが、死に瀕した時に呼び起こされているとする意見もあるわね」

「でも、体外離脱体験をした人は、ベッドに横たわっている本人からは知り得ないような状況を『見た』と証言しているじゃない」

「確かにね。魂が肉体から抜け出して己を上から見たというような話はたくさんある。臨終のときの親族や医師の様子を細かに語る人もいるわね。でもそれが本当に体外に離脱した体験なのかどうかは誰にも確かめられない。それこそ、何らかの契機によって人の五感をフル稼働させたことによって得られた情報を脳内でそのような形で整理したものが、映像として記憶されたのかもしれない」

「なら、臨死体験は、やっぱり死後の世界を語っているものではないということになるの?」

「死に瀕した人の脳内で何が起こっているかは判然としないから、何とも言えないかな」

「脳波を測ったりした研究はないの?」

「そういう研究をしている人たちもいるわ。動物実験だけど、心停止後に脳の活動が活発化するという結果を報告した人もいる。最近では、偶然、死に瀕した人の脳波を測定した記録から、心停止後三十秒間、記憶を呼び起こしたりする時と同様に脳波が活発に活動するパターンが見られたという論文が発表されたわ。

 医学的に死を宣告された後も数分ないし数時間、脳内で意識が保たれていると主張している学者もいるしね。心臓が止まっても体の細胞はまだ生きているから。

 一方、ある種の薬物による幻覚が臨死体験と酷似しているという研究結果もあるわ。ゾロアスター教における臨死体験も薬物を使っていたようだしね」

「じゃあ、臨死体験はすべて脳の仕業ってことになるんじゃない」

「そう言い切ってしまうことはできないとも言える。何しろ死んでからまた蘇ってきた人は、まあ、いないとも言えないけどね」

「ラザロ、そしてキリスト」

「そうね。いずれにしても、少なくとも臨死体験として記述されてきたものには、何かしらの意味はあるわね」

「人為的に臨死体験を経験することはできないの?薬を使わないで」

「ホロトロピック・セラピーというのがあるわ。スタニスラフ・グロフのトランスパーソナル心理学の理論の中での手法だけど。今はあまりやってないかもね」

「あなたは体験したことは?」

「ないかな。いたって健康だし。自ら進んで体験したいとは思わないな」

「ホロトロピック・セラピーってどこで受けられるの」

「さあ。トランスパーソナル心理学を研究しているところで受けられるのかも知れないけど、あまりお勧めしないかな。過呼吸によって脳の覚醒状態をコントロールしていく技法のようだけど、体に負担がかかる気がするな」

 ビクトリアの興味はいつもながら次々と移っていく。ヒューストンは二人の会話がどちらに転んでいくのか、コーヒーをすすりながら見守ることにする。

「臨死体験が死後の世界の存在を証明するものではないというのなら、死後の世界を論ずる方策がなくなってしまうんじゃない」

「確かに直接的な証拠としての事象はなかなか確認できないとは思う。臨死体験は、すこぶるストレートな証言集だから研究はしやすいんだけど、検証は難しい。

 一方で、間接的に死後、または霊的な世界について、その存在を垣間見せているのではないかというような事例はいろいろあるよね」

「例えば?」

「死んだ人の姿を見たとか、夢枕に立ったとか」

「それこそ脳が見せる幻視、幻覚じゃない。見たいもの、または見たくないと怖れるものが脳の中で形作られる」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 さらに、生前の記憶を話す子供たちも大勢いたりする。このあたりも興味深い事例だと思うな」

「生まれる前は神様と天国にいて、お母さんを選んで生まれてきたっていうお話?」

「そうだね。それに類した話をする子供たちの存在は世界中で報告されている」

「でも、それは少なくとも死後の世界ではないんじゃない?」

「生まれる前の世界というのは往々にして生まれ変わりが前提となっていたりするから、死後の世界と一続きだったりするとも言える。もちろん、そうではない、生まれる前の世界だけの話もたくさんあるけどね。

 生まれ変わりで面白いのは、死後の世界に着いたら、スープを飲まされるという話を聞いたことがある。そのスープを飲むと生前のことをすべて忘れてしまうというんだ。

 同様にギリシャ神話では黄泉の国を流れる川『レーテー』の水を飲むと、やはりすべて忘却してしまうという。

 この同じようなモチーフの話が異なった地域で伝承されているということは、間接的に生まれ変わり、ひいては死後の世界の存在を確認し得るものと考えることが出来なくもないと思うわ」

「間接的に死後の世界を語っているものは確かにたくさんあると思うけど、もっと直接的に死後の世界を裏付けるようなものはないの」

「うーん、なんともねえ。『フラットライナーズ』という映画には死後の世界を語る上での様々なファクターが散りばめられていたけど、それを現実世界で自ら体験するのは難しいかもね」

「降霊術はどう思う?」

 ビクトリアはまた唐突に興味の矛先を変える。

「まやかしだと思うわ。霊は降ってこない」

「でも、昔からシャーマンと言われる呪術師の存在が、世界中いたるところにあったじゃない」

「必要悪なんじゃないかな。それとも善かな。職業としての存在だよね」

「死者の言葉を語るというのはウソ?」

「すべての霊媒師が嘘を言ってるとは思わない。中には自身は嘘など全くついてないという人もいるだろうけどね。単にトランス状態になっているだけだと思う」

「死んだ者しか知らないようなことを言ったりするのは」

「本当にそうなのかは分からないよね。事前に霊媒師が情報を知っていたのかもしれないし、たまたま当たったのかもしれない。手品なんかでも、相手の表情や仕草から口に出していない情報をマジシャンは得たりすることが出来るようだし」

「でも、普段の霊媒師と全く違う人格が現れたりするって」

「それは多重人格症と同じかもしれないね。人間の生理にはまだまだ未知の部分がたくさんある」

「そう言ってしまえばそうだけど。でも、死後のなんらかにつながるものが何かあるんじゃないの」

「僕の知る限り、確実に死後の世界を語っている、そういう事象にはまだ出会っていないかな」

「そう、そうね。うん、確かにそうだわ。どうもありがとう。お話しできて楽しかったわ」

「こちらこそ、訪ねて来てくれて、とても嬉しかった」

 青年とビクトリアは、ともに名乗ることも無く、会釈を交わす。

 ビクトリアとヒューストンが後にして、開け放たれたまま部屋の扉。中からはハーブとココアが混ざり合った甘い香りがしていた。

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