第18話 オーストラリア
シドニーに着いたのは翌朝。日本からまっすぐ南に下ったので幸い時差ぼけはない。もちろん電子渡航許可(ETA)の手続きにも抜かりはない。
「どこに行くんだい」
「パークス天文台」
また、天文台か。世界中の天文台を回るツアーだな。
とりあえず、空港でタクシーを拾うとシドニー市内のホテルを目指す。
「パーク・ハイアットに行ってちょうだい」
ビクトリアは躊躇なくドライバーにホテル名を告げる。すでにネットで予約しているんだろう。
タクシーに乗って二十分と少し。湾に面した豪奢なたたずまいのホテルに到着。通された部屋に入ると、窓から、あの有名なシェルを思わせる形のオペラハウスが一望できる。なんでも世界遺産だとか。ヒューストンは、その威容に、少しの間見とれてしまう。
飛行機では、少し寝ることが出来た。夜出て、朝着くフライトは体が楽だ。ヒューストンは、伸びた髭を剃ろうと、無駄に広い洗面所に入る。
「レディーが先でしょ」
ビクトリアはすでにバスタブにバブルバスを入れて準備万端。妙に甘い香りの湯気の中、今にも服を脱ぎ出さんばかり。紳士たるヒューストン、しかたなくバスルームを出る。子供の裸など別に何とも思わんが。その手の愛好家でもないし。
それから一時間。すっかり手持無沙汰になってしまったヒューストン。オペラハウスが見える窓際のソファーに座って、ドリンクをグラスに注いで飲んでいる。
「ああ、さっぱりした」
盛大な音を立ててドライヤーで髪を乾かし終わったビクトリアが、バスローブを羽織って、やっとバスルームから出てくる。バスローブの丈がちょっと長いのか、肩が少し落ちて、胸元がちょっと緩くなってしまっている。
そんなことは気にする様子もなく、ビクトリアはヒューストンの向かいのソファーに勢いよく腰を下ろすと足を組む。バスローブの裾がはだけて、細い形の良い脚が露わになる。窓からの日の光を浴びて、すらっとしたその脛が白く光っている。
「私にもちょうだい」
ビクトリアは、ヒューストンの飲んでいたドリンクの瓶を、手を伸ばして取る。ローブの緩い胸元からビクトリアの薄い胸が覗く。ビクトリアは、手にした瓶をよく見もせず、そのままくっと一口飲む。
「なんだ、入ってないじゃない」
ビクトリアは、ヒューストンの背後にあるワインバーからドリンクを取ろうと立ち上がり、ヒューストンのすぐ脇に身を乗り出す、髪のトリートメントとバブルバスの香りに混じって、かすかにビクトリアの肌の香りが漂う。
何かというと、人の飲んでるものを飲みたがる。まだまだ、子供だな。朴念仁の思考は、相も変わらずその辺で滞ったまま。
「今日は、ここでちょっとのんびりしましょう。近くに天文台もあるし」
おいおい、お目当ての天文台に行く前に、もう一つ天文台かい。どれだけ天文台好きなんだ。
ホテルの部屋でルームサービスを頼み、午前中を何するでもなく過ごした二人。昼前に部屋を出て、ホテル前の遊歩道を歩く。海を渡って来る風が、淡いピンクの帽子をかぶったビクトリアの髪を優しくなでていく。
対岸には客船、その向こうにオペラハウスが見える。陽光に踊る波がきらめく。
「気持ちいいわね」
ビクトリアは帽子と同じ色のピンクのワンピースを閃かせて歩道を踊るように歩いていく。
日の光を浴びて屈託なく笑うビクトリアの姿を見ているうちに、ヒューストンは、我知らずいつの間にか幸せな気分に包み込まれている自分に気づく。
海辺から少し離れた丘に上る。ポート・ジャクソン湾を見渡せるオブザーバトリー・ヒル公園の中にある小さな天文台。オーストラリア最古と言われるその天文台は、今は博物館として公開されている。
丘の上から湾にかかるハーバーブリッジを望む二人。街、海、橋、晴れ渡る空。穏やかなすがすがしさに、ヒューストンは、心が内側からゆっくりと広がっていくのを感じる。
二人は天文台には入らず、その周辺を歩く。芝生の踏み心地が足に優しい。
「ここは夕日が素敵みたい」
iPhoneを見ながらヒューストンに話しかけるビクトリア。
夕方までここにいるつもりか?
ビクトリアが言ってるのは、そういうことじゃないんだけど。分っかんないんだなあ。
結局、港の方に戻り、海の見えるカフェで遅い昼食をとる。
珍しく無口なビクトリア。ヒューストンは、これまた珍しく気を遣う。
「今日は、ここでのんびり過ごすのか」
ビクトリアはオーストラリア特有のちょっと濃い目のコーヒーを飲みながら海を見ていて返事がない。
「パークス天文台は、ここからずいぶん遠いみたいじゃないか」
ビクトリアはヒューストンに視線を戻す。
「そうね、飛行機で行きましょう」
翌朝早く、シドニー国際空港からダッボー・シティ・リージョナル空港に向かうカンタスに乗る。ほぼ一時間のフライト。
ローカルな空港に降り立った二人。早速レンタカーを借りる。
「ここからでも、まだ大分あるな」
ヒューストンは地図を見ながらつぶやく。
「パークス天文台ってのは、そんなに重要な天文台なのかい」
早起きしたせいか、少し機嫌の悪いヒューストン。
「有名よ。なんてったって、あのアームストロング船長の偉大なる一歩を全世界に中継した天文台なんだから」
アームストロングって、アポロの月着陸のか。
「なんでまた、こんな田舎の天文台が」
「アームストロング船長が、着陸してすぐに月面に降り立ちたいと言ったからだって話だけど」
「すぐに降りると、どうしてこの天文台で中継することになるんだ」
「月と地球の位置関係でしょ」
また、ずいぶんあっさりと。
「急に中継することになったのか」
「そうそう。映画にもなった話よ」
「なんて映画だ」
「ザ・ディッシュ」
これまた、そっけない題名だ。
「天文台のパラボラアンテナが題名の由来なのよ」
よくまあ、そんなミニ知識まで。本当にいろんなことを知っている。
「さあ、行きましょ」
けっこうな田舎道を走る。
ナビに言われるがまま、くねくねと道を進む。
やがて、何にもない道路脇に、パラボラアンテナがぽつんと佇むのが見える。
小道を入ると、こぢんまりとしたレンガ色の建屋に支えられた『ディッシュ』が目の前に現れる。
「なんか風車みたい」
確かに、そのたたずまいは、オランダの風車のよう。それも、飛び切り大きな風車を乗っけた、歴史を感じさせる古めかしい建物に見える。
実際、一九六一年に観測を始めたというから、それなりのしろもの。
駐車場に車を停め、天文台併設のカフェに、とりあえず腰を落ち着ける。天文台の来歴はそこで手に入れたパンフレットから仕入れた情報。
カフェで一息つくとビクトリアはヒューストンを席に残して、売り場の店員に何やら話しかける。
「案内してくれるって」
いつもながら、鮮やかな手際。迷いがない。
案内されたビジターセンターには、温厚そうな男性が待っていた。
「わざわざ英国からお出でだとか。何についてお話ししたらよろしいかな」
「『SETI』について伺いたいわ」
「『地球外知的生命体探査』ですか。どうしてそこにご興味を?」
「オウムアムアにちょっと」
「ああ、あれですか。あの飛行物体は、知的生命体の宇宙船ではないと思いますよ」
「随分あっさりとおっしゃるわね」
「宇宙船なら、何がしかの電気信号が発せられていたと思いますから」
「それを『ディッシュ』で観測するのがこちらのお仕事ね」
「それだけという訳でもないんですけどね」
「この間も、太陽系外から発信されたと考えられる電波を捉えたんでしょ」
「私たちが『BLC‐1』と呼んでいる、プロキシマ・ケンタウリからの電波のことですね」
「知的生命体から発せられたものとして、かなり有望だって」
「その可能性があるというだけです」
「随分と慎重じゃない。例の電子レンジの件があるからかしら?」
「あれはお恥ずかしい話です」
「仕方ないと思うわ。まさか施設内の電子レンジの電磁波をアンテナが拾ってるなんて思わないもの」
「それが十数年間も分からなかったのが、なんとも」
「いいじゃない、そうやって可能性を一つひとつ検証していけば」
今日はずいぶんと当たりが柔らかい。好みのタイプなのか、それともその朴訥とした雰囲気にほだされたのか。
「この『ディッシュ』は、とても素晴らしいと思うわ。なんて言ったって、今現在、観測されているパルサーの半分以上をこの天文台が発見したんでしょう」
「恐縮です。幸運なことに、多くのパルサーを発見することができました」
「なぜ発見できたの」
「望遠鏡の性能が優れていることに加えて、南半球に位置していることも幸いしていると思います」
「それは?」
「多くの天文台は北半球に設置されていますから」
「観測できる範囲の問題?」
「そういうことも含めてです。観測のタイミングとでもいうのでしょうか」
「なら、ハッブル宇宙望遠鏡なんかはすごく有利じゃない」
「そうですね、宇宙空間で観測できる望遠鏡は素晴らしいと思います。ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡には期待しています」
「ハッブルの後継としてNASAが打ち上げたやつね」
「ええ。一方で、地上にも有利な点はたくさんあります」
「たとえば?」
「地上なら。大きなパラボラを設置することが可能です。また広い敷地に観測装置を置くことができます。チベットには、宇宙から降り注ぐ超高エネルギー宇宙線やガンマ線により生成される莫大な数の粒子を検出する検出器を広範囲に約六百台設置した『空気シャワー観測装置』があって、宇宙線やガンマ線の到来方向の観測が行われています。さらに、世界十五か国以上の国が共同で、電波望遠鏡の中高周波用パラボラアンテナを南アフリカに二千基、オーストラリアとニュージーランドにTVアンテナ状の低周波アンテナを五十万基建設する計画も進んでいます」
「宇宙空間なら重力が少ない分、より大きな装置を設置することができるんじゃない」
「理論的には可能です。ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡でも折りたたんだ遮光板をテニスコート大に展開しましたし」
「薄膜の超巨大パラボラを宇宙空間に広げて宇宙の深淵を探るなんて素敵じゃない」
「そうですね。近い将来にそのようなことが実現するかもしれないですね」
ビクトリアは随分と楽しそうに話している。ここの天文台が気に入ったのか、それともこの男が話しやすいのか。確かに、この天文台は居心地がいいような気もする。
「ここに勤めてどれくらいなの」
「十年ほどでしょうか」
「もちろんアポロの話は知ってるでしょう」
「もはや伝説のようになっていますよ」
「アポロと電子レンジで有名な天文台って、なんて言うか、ちょっとかわいらしいじゃない」
「お褒めいただいているということでよいのでしょうか」
日が落ち始めた平原をレンタカーでひたすらダッボーまで戻る。ビクトリアは少し疲れたのか、助手席で軽い寝息をたてている。ヒューストンは、沈みかけた夕日を横に眺めながら、えらく遠くまで来たもんだ、と独り言つ。自分の店を出たのが大昔のような気がする。
「そろそろ家に帰るかい?」
ダッポーのひなびたホテルで目覚めたビクトリアにヒューストンは声をかける。
ビクトリアは掛け布団を頭の上まで引き上げて、寝返りを打つ。
寝返りを打った布団の端から甘いコロンと若い身体の放つ香りが淡く漏れ出てくる。
ヒューストンは、窓際の椅子に腰かけたまま、ぼんやりと外を眺める。窓から見える外の通りを行き交う車はほとんどなく、少なからずうらびれた気配が漂っている。
飛行機の出発までは、まだ大分時間がある。
大西洋、太平洋と渡り、とうとう南半球にまで来てしまった。自分はビクトリアに、ただ付いてきただけだけれど、ずいぶんと面白い体験ができたと思う。
ヒューストンは髭を剃り、身支度を整える。
「さあ、朝飯を食べに行くぞ」
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