第13話 ヒューストン
ヒースロー空港には午後の一時半に集合。
「珍しく、今日はゆっくりだな」
「BA(ブリティッシュ・エアウェイズ)の午前の便が取れなかったの」
「で、何時の便に乗るんだ?」
「二時半過ぎ」
「おい、間に合うのか」
「大丈夫よ、ファーストだから」
ファーストって、ファーストクラスか。
「空きがなかったのよ」
俺も、ビジネスなら昔はそれなりに乗っていた。今回の旅でも、概ねビジネスに乗せてもらってる。けれど、さすがにファーストクラスは、ない。
「安心して。あなたの分も取ってあるから」
少し顔色が変わったヒューストンを見て、ビクトリアが笑いながら言う。
どれだけこいつは金を持ってるんだか。
「で、どこへ行くんだ」
「ヒューストン」
俺の名前?を呼ぶ訳もない。ヒューストンと言えば、NASAか。いつものことだが、また、いきなりだな。にしても、ずいぶんと久しぶりだ。ヒューストンには、昔はよく行ったもんだが。
と思う間もなく、ビクトリアに、専用のチェックインカウンターから専用の保安検査、出国審査、専用のラウンジへと誘われるヒューストン。
しかし、専用ラウンジにしては結構な人の数。ファーストクラス以外の客もいるんだろうか。
「コンコルドルームに行きましょう」
コンコルド?もう飛んでないぞ。
またしてもビクトリアに誘われるままに、『コンコルドルーム』へ。
部屋の中には、何やら小洒落たダイニングもあって、メニューにあるものなら何でもご自由に。どうやら、正真正銘、ファーストクラスの人間だけしかいない様子。
じゃあ、さっきのラウンジは何だったんだ。
「そろそろ行きましょうか」
軽くシャンパンなんぞをいただこうかとメニューを眺めていると、ビクトリアの声。
そうだよ、そもそも空港に着いたのが出発一時間前だ。
優先搭乗した機内は、すこぶるしっかり個々の座席が仕切られていて、シートに座ると隣のビクトリアの姿がまったく見えない。
「話もできないわね。まあ、のんびりしててちょうだい」
ヒューストンのシートを覗き込んだビクトリアが言う。
今日のところは、十時間の空の旅をゆっくり楽しませてもらうことにしよう。
ラウンジで飲みそびれた、ウェルカムドリンクのシャンパンを片手に、ヒューストンは、すっかりくつろいだ気分になっていた。
と、仕切りの向こうからビクトリアの顔が覗く。
「昨日の夜、調べといたんで、参考に読んどいて」
渡されたのは、ピンクのファイル。結構な量の紙の束が綴じられている。ぺらぺらめくると、どうやらネットから刷り出した文献のよう。
「月が地球に同じ面を向けている理由」
そう言うだけ言うと、仕切りの向こう側にビクトリアの顔は引っ込んでしまう。
はいはい、読みますよ、お嬢さん。
でも、理由が調べられたんだったら、わざわざヒューストンまで行くことはないだろうに。 。
大量の資料をヒューストンは斜めに読み飛ばす。
雑駁すぎて何だか分からん。やっぱり『現場主義』か。
資料を読んでいるうちに、機内食の準備が始まる。
CAが運んでくる豪華な食事。地上でもこんなもんは食べていない。
次々供される料理と酒に、ヒューストンは、とりあえず旅の目的などどうでもよくなってしまうのだった。
ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港についたのは、もう夕刻だった。ESTAの認証は前に受けているから入国には何の問題もない。
「ポスト・オークにやってちょうだい」
タクシーに乗ると、ビクトリアは、躊躇うことなく、運転手にホテルの名を告げる。
「ヒューストンは詳しいのか」
「別に。一番高いホテルを予約しただけ」
その晩は、アップタウンにあるホテルで一泊。ヒューストンにとっては無駄に豪華だったが、夕飯の肉はうまかった。さすが南部。久しぶりのアメリカ。
翌日、タクシーで、街の中心を通って、クリア湖畔の宇宙センターへ。
途中、ダウンタウンにあるミニッツメイド・パークの横を通る。アストロズの本拠地。ちらっと一瞥をくれるヒューストン。
「ベースボールに興味があるの?」
「昔、ちょっとな。それより、よく野球場だって分ったな」
「ベースボールって一度も見たことないのよ。時間があれば見たいと思って調べたの。行かない?今晩の試合」
「時間があれば、な」
タクシーは宇宙センターに到着。スペイン系の陽気な運転手のお愛想にチップをはずんで車を降りる二人。
あたりは観光客と思しき人々で賑わっている。
「ここ、ビジターセンターだわ。私は、JSC(ジョンソン宇宙センター)に行きたかったんだけど」
いきなり行って、誰かに会うあてでもあるのか。どうせ、アポなしなんだろうに。
スペースシャトルを背中に積んだジャンボジェットの展示を横目に見ながら、とりあえず、エントランスからメインプラザに入場する。
「三十ドルも取るの?」
入場料に文句を言うビクトリア。航空券には、一万ドル以上支払ってるはずなのに。
そもそも、この施設で三十ドル程度なら、とても良心的だと思うのだが。
「お金払ったんだから、ちょっと見ていきましょう!」
結局、ちょっと、と言いながら、ビクトリアは十二分にセンターを堪能。
さらに、お目当てのJSCの見学ツアーにも参加。復元されたミッションコントロールに「映画と同じ!」と興奮。宇宙飛行士訓練センターを満喫。サターンⅤの実物に驚嘆。スペースシャトルのレプリカに乗り込んで大興奮。あげくに、ギフトステーションで、宇宙服を着たスヌーピーのぬいぐるみと宇宙食のアイスクリームを即買い。
「もう、いいんじゃないか」
「シアターに寄らないでどうするのよ」
どうしたいんだ、おまえさんは。
少々お疲れ気味のヒューストン。ディスティニー・シアター、スペース・センター・シアターと、二つの劇場で映像鑑賞。
最後にミッション・ブリーフィング・センターでNASAの最新トピックスをスタッフが解説するのを拝聴する。
「では、何かご質問は?」
聴衆に質問を促すスタッフ。
子供たちが一斉に手を挙げる。
「僕も火星にいけますか?」かわいらしい質問が目白押し。
その中で立ち上がって一際目立つ仕草でスタッフの注意を引き付けるビクトリア。
「では、そちらのキュートなお嬢さん」
「月についてお聞きしたいの」
出た。ここでか。
次々繰り出されるビクトリアの質問に閉口したのか、早々に質問タイムを切り上げようとするスタッフを、舞台袖まで追いすがって引き留めるビクトリア。
あまりのしつこさ、いや、熱心さに、スタッフも根負け。スタッフルームに案内されるビクトリアと、そしてヒューストン。
華やかなステージとは打って変わって、雑然とした室内。そこのソファーに腰を下ろした二人の前に現れたのは、年配の男性。どうやら、ここのボスのようだ。
「で、お嬢さんは、何をお知りになりたいのかな」
「月の内部の組成が納得できないの」
「ほほう。どのあたりが納得できないのかな」
「地球に近い部分は地殻が薄くて、裏側は厚い。それに重心が地球側に偏ってる」
「ほうほう」
「どうしてなのかしら」
「まあ、いろいろな考え方があるようだけど」
「月の四つの生成説でしょ。親子分裂説、捕獲説、双子説、巨大衝突(ジャイアント・インパクト)説」
「詳しいね」
「私は、地球から月が分裂したっていうのが、一番可能性が高いと思う」
「どうしてかね」
「重心に偏りがあるから。分裂した時に内部の重い組成が地球に引っ張られて、重心に偏りができたんじゃないかしら。だから月はいつも同じ面を地球に向けている、起き上がり小法師(ロリーポリー・トイ)のようにね。でも地殻は地球側が薄いのがよく分からない」
「なるほどね。でもちょっと待って。月がいつも同じ面を地球に向けているのは、重心のかたよりがあるのではないかという月固有の事象によるものだと言い切ってしまうのはどうかな」
「どういうこと」
「月が地球にいつも同じ面を見せているのは『潮汐力』によると考えることも出来るからね。月の自転周期と公転周期が同じになって地球にいつも同じ面を向けているのは、月と地球の互いの潮汐力によって変形した月が、その時点で釣り合ったからと言えるんだ。その証拠として、月以外でも、親星と近い距離にある太陽系のほとんどの衛星は、月同様いつも同じ面を親星に向けている。土星のタイタン、木星のイオ、エウロパ、カリスト、ガニメデ、火星のフォボスとダイモス。
ちなみに、時が経てば、互いの潮汐力によって親星の自転も衛星の公転に同期することになると考えられる」
「ふーん、そういう考えもあるのね。確かに月だけじゃないって言うなら納得できるわ。その説で地殻の厚さの問題も解決できるの?」
「地殻の厚さの違いについては、月の表側に直径千キロ程度の大きさの星が衝突して、そこから飛び散り、吹き飛んだ物質が月の裏側に降り積もったためと言われている。だから月の地殻は表面が薄く、裏側は厚い。
さらに言うと、月の生成についても、火星ぐらいの大きさの星が太古の地球にぶつかって、その飛散した物質によって月が形成されたという巨大衝突説が、もっとも支持されている」
「その説で、月の組成の説明が出来るの?」
「概ね、ね。月は地球と全く同じもので出来ているわけではないようだし。有力な説だね」
「私はやっぱり分裂説ね。なんたってダーウィンが唱えたんだから」
「おや、よく知ってるね。まあ、分裂説を唱えたのは息子だけどね」
「そうそう。進化論はお父さんのチャールズ」
「進化論には、ウォーレスも一役買っているっていう話もあるけどね」
「同じ時期に、それぞれ別個に同じ考えにたどり着いた学者がいたっていうのが面白いわよね」
「二人は知り合いだったようだしね」
「お互い認め合っていたんでしょ」
「そのようだね。書簡のやり取りが残ってる」
「素敵な関係じゃない」
「君にもそういう友人はいないのかい」
「うーん、そうねえ、いるって言えばいるかしら」
ビクトリアは、ちょっとおかしそうに微笑む。誰のことを思い描いているのやら。
「僕らもそういう友人になれそうだね」
「いいわ、是非なりましょう!」
こうやって、また彼女の世界が広がっていくんだな。
いつ見ても自信満々なビクトリアの笑顔に、ちょっとだけ寡黙になってしまうヒューストンだった。
二人はビジターセンターを後にして、改めてJSC(ジョンソン宇宙センター)に向かう。もちろん、今度はビジターセンターの所長のご紹介付きだ。
JSCで出迎えてくれたのは広報担当。
それなりにビクトリアと話が弾むが、彼女のお目当ての話題については、あまり深掘りされていかない様子。
一通り案内されると、早々にJSCを後にする。
「ちょっと期待外れだった」
言わなくても分かる。
「次行くわよ!」
ビクトリアはタクシーに乗り込むと一路空港へ。
今晩、野球見るんじゃなかったのか?
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