第11話 樓蘭
どこまでもどこまでも続く乾いた荒地。
遥か遠く大地と空を隔てて白くそびえる天山の峰々。
「ずいぶんと長いお出かけでしたね」
扉を開けて入ってきたヒューストンに上目遣いの視線を投げかける仕入れ係。
事務所のソファーに身を沈めたまま、冷めたコーヒーをすすっている。
「何か変わったことは」
「いつものとおりですよ」
確かに、店の方に客がいる様子は無く、従業員は午後のお祈りの時間。
「なによそれ、久し振りに店長(ボス)が帰ってきたのに」
ビクトリアは、座ったソファーから立ち上がろうともしない仕入れ係に、ぷりぷりしながら歩み寄る。
「おや、これは」
仕入れ係の向かい側に勢い良く腰を下ろすビクトリア。膝下まであるスカートのすそが勢い余ってふわっとまくれ上がる。
「お望みのものは手に入りましたか」
「おかげさまで」
そう言うとビクトリアは、ちらっとヒューストンに目をやる。
「それは何より。今日はまた、わざわざこんなところにまでお運びいただいて。お代のお支払いにお出でいただいた訳ではないですよね。お手数料ほか諸々、既にお振込みいただいていたかと思うのですけど」
仕入れ係は脇に置いていたタブレットを手に取り、ちょこちょこっと操作する。
「確かにクレジットでお支払いいただいておりますね」
「店長を長いことお借りしたんで、お礼かたがた送ってきたのよ」
「それは、ありがとうございます」
仕入れ係は、ニヤリとしてヒューストンの顔を見る。
自分のデスクに腰掛けたヒューストン、素知らぬ顔をして窓の外を見ている。
「ちょっと!お客にお茶も出さないの」
「これは失礼。コーヒーでよろしいですか」
「何か冷たいものがいいわ」
自分でお茶と言ったくせに。
仕入れ係は冷蔵庫の扉を開け、中を覗いて何かを取り出す。
ビクトリアの前に置かれたのは、ラベルにアラビア文字が書かれた得体の知れないボトル飲料。けれど、ビクトリアは気にとめる風もなく、キャップをあけると、ぐっと一息に喉に流し込む。
「あら、美味しいじゃない。何かしら、この味」
「オマーンから特別に取り寄せた品で、今日入荷したばかりの果物のエキスです。美容と健康、さらにお飲みいただいた方の心の平安に効果ありと」
それは、何よりの効能。もっとも、本当のことなのかどうか。そもそも、オマーンの果物っていったいなんなんだ。
「さあ、私、帰るわ。このへん、泊る所もないんでしょ」
ビクトリアはそう言うとソファーから立ち上がる。そして、ヒューストンが腰かけている机の傍らに歩み寄る。
「ありがとう」
ビクトリアはそう言いながら、ヒューストンの首に腕を回してハグすると、その頬に軽くキスをする。そして、そのまま扉の外へ。
待たせておいた車のドアが閉まる音。走り去るエンジン音。
「お疲れさまでした」
「なんだったんだ、今の」
「まあ、そういうことでしょう?」
仕入れ係はヒューストンを見てまたニヤリと笑う。
「どういうことだ?」
「『吊り橋効果』ですよ」
「は?」
「相変わらずの朴念仁ですね」
仕入れ係は、冷めたコーヒーのお代わりを淹れに立ち上がる。
「長いこと二人で一緒に世界中回ってきて、その間に、いろいろ危ない目にもあったでしょう?そういう時には、心臓が早鐘のように脈打つじゃないですか。それを恋のサインと勘違いしたってことですよ」
「俺は、そんなことはないぞ」
「あなたは、どうでもいいんです。彼女がどう感じたか」
「俺はどうすればいい」
「別に。一時の気の迷いですから」
そう言いながらソファーに戻り、仕入れ係は、またコーヒーをすする。
「もっとも、勘違いから覚めないでいてくださった方が、こちらはありがたいんですけどね」
「なぜ?」
狼狽するヒューストン。
「それはそうですよ。こんなに良いお客さまは、そうそういらっしゃいませんから」
ああ、神様。何が悲しくて、あんな我儘な小娘に好かれなきゃならないんだ。
思わず、ヒューストンは天を仰ぐ。
天を仰ぐ?
天にまします神。
『神』っていったい、何だ。
ヒューストンは考える。
仮に人間が何者かの操作によって作られ、その何者かが『神』と呼ばれるものだとしたら、その神に祈っても意味がない。
もし人間が、どこか宇宙の果てからやってきた生命の欠片から進化したものだとしたら、この地球を創造した神に祈っても意味がない。
さらに、人間に観察されて世界は初めてそこに存在する、人間が観測するからこの宇宙が存在している、などという説が本当なのだとしたら、そもそも創造主たる神など存在しないのではないか。
なら、『神』っていったい。
お祈りの時間が終わったのか、従業員がちらりほらりと店に戻ってくるのが、事務所と店の間を仕切るガラス越しに見える。
「なあ」
「何です」
「彼らはいったい何に祈りを捧げているんだろう」
仕入れ係は顔を上げて、ヒューストンの視線の先をたどる。
「そりゃ神様でしょう」
「いったい何の神様に」
「自分たちの信じている神様にでしょう」
「それは本当の神様なのか」
「どうしたんです。そんな思春期の子供みたいなことを」
仕入れ係は、ヒューストンの顔をいぶかしげに見つめる。
「神様って、いるんだろうか。存在しないかもしれないものに祈って、いったい何になるんだろう」
仕入れ係は、ヒューストンが妙に真面目な様子なのを見て、少し考えてから答える。
「神がいようがいまいが、そんなのはどうだっていいんですよ」
「なんで?」
「祈りは『感謝』だから、ですよ」
「どういうことだ?」
「『感謝』するのが、神であろうが天気であろうが、親であろうが助けてくれた人であろうが、もしかしたら自分自身であっても、その対象は何だっていいんです。もっと言ってしまえば、感謝するもの全部ひっくるめて、『神』なんじゃないですかね。少なくとも、わたしは、そう思ってます」
「おまえ、すごいな」
ヒューストンは、いつも斜に構えているだけだと思っていたこの男の言葉に、少なからず驚き、そして、少し感動した。ほんの少し。
外の照り付ける日差しはすこぶる眩しく、動くものは何もない。部屋の中には、空調の音だけが響いている。
変わらない日常。
感謝、ね。確かに、ありがたいな。
と、携帯の着信音が鳴り響く。
ズボンのポケットに手を入れるヒューストン。その手には、iPhoneが。
ああ、返し忘れた。
「タクシーの運転手、今になって、もう飛行機、間に合わないって言うのよ、泊るところなんとかしてちょうだい!」
聞きなれた声が響く。
やれやれ、もう少しお付き合いするか。
「ちょっと出かけてくる」
ヒューストンは、扉を開けて外へ出る。
「行ってらっしゃい」
閉まった扉に向かって、見送りの言葉をかける仕入れ係。
まだ、日はだいぶ高い。
そして、いつもと変わらない時間が過ぎていく。
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