第10話 バッキンガム
翌日、眼鏡の東洋人の若者の車に同乗して、一路バッキンガムへ。国王の居城にその名が冠される英国の由緒ある街。ビクトリアの家もきっとこの地の貴族の血筋か何かなんだろう。
途中、セバーン川にかかる長大な橋を渡り、イングランドの田園風景の中を走り、オックスフォードを経て、ようやくバッキンガムに到着。
広いとは言えない車内だったが、若者の安全運転のおかげで、それなりに快適な道中。
目指すは、バッキンガム大学宇宙生物学研究センター(BCAB)。
一九七六年、英国初の私立大学として開校したバッキンガム大学。ケンブリッジ、オックスフォードと並ぶ著名なこの大学に設置されたアストロバイオロジーの研究拠点。
教授は、そのセンター長を務めている。
大学の広大な敷地は、バッキンガム侯爵の城址に隣接するハンターストリート・キャンパスとヴァーニーパーク・キャンパスに分かれ、その一角にBCABが設置されている。
若者とビクトリア、そしてヒュートンの三人は、教授を訪ねるべく、センター長室の扉を叩く。
「お入りなさい」
折しも、国際天文学連合の総会が、バッキンガムで開催されていて、教授はそのホストの一人を任されている。部屋の中に入ると、案の定、よく見知った顔がいる。
「いやあ、神出鬼没だね」
「人のことを、怪盗みたいに言わないでください」
先生とビクトリア、もはや、すっかり顔なじみ。
「先生こそ、いろんな学会に首を突っ込んで、お忙しい限りじゃない」
「こっちの方が、私の専門なんだけどね。それで、その後、何か面白い発見でもあったかな」
「今は『ノアの箱舟』」
「大量絶滅のことを言ってるのかな」
若者が話の顛末を説明する。
「ほー、面白いこと考えるね」
「まあ、立ち話も何だから、お座りなさい」
一同に声をかけたのは、浅黒い肌をした年かさの男性。この部屋の主、センター長その人。
「大量絶滅は、これまでに、おおむね五回あったと言われている。有名なのは、恐竜の絶滅だろう。
それらを引き起こしたのは、地球への隕石の衝突であったり、超新星の爆発によるガンマ線バーストであったり、超大陸の形成に伴う巨大なマントルの上昇である『スーパープルーム』、大規模な火山活動による温暖化だったりすると言われている。
そして、その都度、生物相は変化し、それぞれ異なる者が繁栄してきた。考えてみれば不思議な話だ」
センター長たる教授は、古めかしいマホガニーの机の後ろの座り心地のよさそうな椅子に深く身を沈めて、マグカップのお茶を一口、口にする。マグカップにはアジアの寺院のイラストが描かれている。
「大量絶滅が何により起きたか。大量絶滅の後に繁栄した生物は、なぜその種だったのか。その理由をはっきりと断定することはできない。
あなたの言うように、大量絶滅の要因の一つが地球規模の大洪水であり、その水をもたらしたのが他の天体であるということだって、あり得ないとは言えない。
そして、その天体から水とともに生物が地球にもたらされたということも、その可能性を否定することはできない。
さらに、形状の異なる生物群が、他の天体から地球にやってきたということだって、あり得ない話ではない。
もともと地球に生息していたのが外骨格を持つ生物群で、内骨格を持つ生物群は他の天体由来のものという仮説は、とても興味深い」
教授の語りに、皆、黙って聞き入ってしまう。
「知っているかな。地球上で最も人類を殺している生物は何だと思う」
「人間?ですか」
「ははは、するどいね。確かに、けた違いに多い。けれど、もっとたくさんの人を殺している生き物がいる」
「細菌とかウイルスとか」
「うん、いいところをついてきたね。それらを一括りにすれば、もちろん多くの人が犠牲になっている。ただ、そういう微生物ではない生き物を考えてほしい」
「犬、熊、ああ、毒蛇。いえ、人間の方がたくさんの人を殺してるに決まってる」
ヒューストンを除いた 三人は、ニコニコしながらビクトリアの答えを待っている。
「あ、分かった。『蚊』だわ。そうでしょ」
ビクトリアは立ち上がってそう叫ぶ。
「そう、そのとおり。蚊は病気を媒介するからね」
教授は、ビクトリアを見てにっこり微笑む。
「一年間にどれくらいの人が蚊に殺されていると思う」
「一万、いいえ、人間より多いんだから五万人くらい」
「いいや、八十万を超える人が蚊に殺されている」
「八十万!」
「マラリアを筆頭に蚊に媒介された病気で亡くなる人の数だ」
「なぜ、そんなに蚊は人を殺さなければならないのかしら」
「彼らにとって、人が脅威なのかもしれない」
「人だけ?」
「もしかしたら、動物もかもしれない。犬や猫の病気であるフィラリアを媒介するのも蚊だ。そもそも、マラリアもフィラリアも寄生虫によって発症する病気だ」
「虫にとって、人や動物は脅威なの」
「君の説によれば、内骨格の生物群である『動物』は、虫にとって異星からの『侵略者』だからかもしれない」
「教授、おもしろいわ、それ」
ビクトリアは目をきらきらさせている。
「私たちがこの星に後からやって来た生き物の末裔だとすると、もう少し謙虚に生きなくてはいけないかもしれないね。
ところで」
教授は、ビクトリアに向かって笑みを浮かべる。
「人間が一年間に人を殺す数はどれくらいだと思う」
「蚊が八十万なら五十万ぐらい。ちょっと多いかしら」
「うん、約六十万と言われている。それも戦争、紛争を除いてね」
「恐ろしい」
「そうだね、恐ろしい。ただ、それより恐ろしいものがあるんだ」
「またクイズ」
「ははは、そうだクイズだ。一年間に百三十万人を超える人を殺すものがある」
「分かるわよ、それ」
「何かな」
「自動車」
「正解。さて、君たち、昼食はまだだろう。みんなで食べに行こうじゃないか。ご馳走するよ」
そう言って立ち上がると、教授は真っ先に部屋を出ていく。後に続こうと立ち上がる一同。
「もう、お腹ぺこぺこ。どこへ案内してくださるの」
「学生食堂さ」
振り返った教授は、ビクトリアの顔を見てにっこり笑う。
「そんな、がっかりした顔をするもんじゃない。ここのラザニアは絶品だぞ。さあ、行こう」
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