第9話 カーディフ

 ロンドンから鉄道で二時間半。ウェールズの首都カーディフ。

 二千年の歴史を持つその街は、いたるところ古色蒼然とした佇まいに溢れていた。

「どこに行くんだ」

「カーディフ大学」

 どうやら、その大学に、パンスなんとか説の大御所がいるらしい。

「アポなしで大丈夫か」

「大学なんて、いろんな人間が出入りしているから、誰も気にしやしないわ」

 まあそうかもしれないが、創立百年を超える由緒正しい学び舎に対してずいぶんな言い草だ。

 旅慣れてしまったせいか、すっかり、行き当たりばったり。

 しばらく広い校内をさ迷い歩いて、ようやく辿り着く古びた扉。

 ノックの音に返す返事。

「あら」

 部屋に入ったビクトリアの口から洩れる挨拶とは思えない言葉。

 ビクトリアに続いて部屋に入ったヒューストンの目に飛び込んできたのは、どこかで見たような顔。

「おや、これはこれは」

 そこにいたのは、眼鏡をかけた東洋人の若者。

「なんで、ここにいるの」

 不躾な質問。

「ここで研究を」

「教授(プロフェッサー)は?」

「え?ああ、バッキンガム大学の方に」

「学会かなにか」

「ええ、まあ、それもあるんですけど、あちらが教授の研究拠点ですから」

「あら、そうだった?まあ、いいわ、あなたに会えたし」

「それは光栄です」

「学会には、先生も来てるの?」

「明日、バッキンガムでお会いする予定です」

「先生、大忙しね。この間は、メキシコで会ったわ」

「隕石学会ですか」

「そうそう、変わった人がたくさんいて面白かったわ。ねえ、明日、私もご一緒していい?」

「どうぞ」

「ところで、ここで何を。赤い雨の件?」

「ええ、そうです」

「何か進展は?」

「なかなか難しいですね。エアロゾルとの差異の見極めが」

 一度しか会ってないのに、ずいぶん親しげだ。

「あなたの方は?」

「パンスペルミアより、今は『ノアの箱舟』ね」

「ノアの箱舟…ですか」

「そう、脊椎動物は『ノアの箱舟』に乗って地球にやって来た」

 おいおい、それじゃ件のCAの受け売り、そのまんまじゃないか。確かに、あの話は面白かったが。

「それはSFですか。それとも、あなたのお嫌いだったID(インテリジェントデザイン)論の流れを汲むものですか」

「いいえ、聖書は絵空事ではなかったかもしれないって話」

 絵空事って、原理主義者に怒られるぞ。

「と言うと?」

「大洪水とともに、脊椎動物は地球にやってきた」

「良く分かりませんが」

「それは、第十番惑星、いや、いまなら第九番惑星の、その飛来によってもたらされたという厄災に起因する話だね」

 突然、会話に割り込んできたのは、痩せて背の高い黒人の男性。

 ビクトリアも青年も、もちろんヒューストンも、その男性が部屋に入って来たことには、まるで気づかなかった。あたりには、ほんのり上品なコロンの香りが漂っている。

「おかえりなさい。准教授(リーダー)」

「ここにお客さんとは珍しいね」

「学会はいかがでしたか」

「ん?まあ、いつものとおりさ。夜の部は遠慮してきた」

「教授は」

「今週は、ずっとあっちだろう。それにしても、お嬢さん、『ノアの箱舟』とは、面白いことをおっしゃる。どこで、その話を仕入れられた?」

「バグダッドで」

「なるほど、シュメールか。とすると、その大洪水は『惑星ニビル』によりもたらされたものということになるかな」

「准教授、私には何のことやら」

「君もシュメールの神話のことは知っているだろう」

 そう言うと男性は、ヒューストン達に手前のソファーに腰かけるよう勧める。

「『惑星ニビル』が実在し、そこからやって来た『アヌンナキ』により人類が創造されたっていう言説は、まあ、いかがなものかと思うけど」

 男性はそう言いながら、奥へ行き、形の揃っていないマグカップを四つと、ポットを持って戻ってくる。マクビティのビスケットの袋を小脇に挟んで。

「お茶でもどうかな」

 カップの底にはティーバッグが無造作に置かれている。男性はそこに、これまた無造作にポットからお湯を注ぐ。

「おっと、いけない。ミルクを忘れた」

 男性は、また奥へ戻っていく。奥からは何か扉を開け閉めしている音が聞こえる。その間に、カップの紅茶はほどよく色づいていく。

「ねえ」

 ビクトリアが小声でヒューストンの脇を小突く。

「何だ」

「このティーバッグ、どうやって取り出すの」

「何で」

「濃くなっちゃうじゃない」

「知らん。俺はコーヒー派だ。紅茶はおまえさんのが詳しいだろう」

「ティーバッグの紅茶なんて飲んだことないから知らない」

 ああ、そうか、お嬢様だった。

 そこへ男性が戻てくる。

「ミルクが見つからなくて」

 そう言いながら、牛乳のボトルをテーブルに置く。

「さあ、どうぞ」

 男性はそう言うと、カップの紅茶に牛乳をなみなみとついで飲み始める。

 逡巡する二人。

「あれ、お茶はお嫌い?」

 ビクトリアはちょっと口ごもりながら

「いえ、あのティーバッグ」

「ああ」

 男性は、指でティーバッグをつまむと、それをぎゅっと絞って、そのまま無造作にテーブル横のゴミ箱に捨てる。

 指でつまむのか。

「ミルクを淹れれば熱くないよ」

 いやいや、そういう問題じゃないだろう。


 結局ヒューストンはお茶に手を付けず仕舞い。ビクトリアは一口だけ飲むと、ヒューストンに向かって小さく顔をしかめる。

「でも、『ノアの箱舟』が異なる惑星からやって来たっていうのは、ひと捻りあって面白いよね。元の惑星で起きた大洪水とともに、地球にやって来た。うん、面白い」

「箱舟は宇宙船ってことですか、准教授?」

 平気な顔をしてお茶を飲んでいる東洋人の若者が尋ねる。

「いやいや、そんなお伽噺じゃなくて。『ニビル』のような第九番惑星とされているものがあったとすると、それらは数千年から数万年の周期で公転していると言われている」

「ええ、いくつかの仮説がありますよね」

「仮にそれらの惑星に水があったとしたら、どうなる?」

「まず、凍っているでしょうね。遠日点がとてつもなく遠い訳ですから」

「けれど、それが太陽に近づいてくれば?」

「解けて…」

「そう、惑星中が大洪水になる」

 男性は、ビスケットを紅茶に浸す。

「さらにその惑星が地球のすぐそばを通過したとしたら」

「引力で大量の水が地球に」

 男性は、十分にお茶を吸ったビスケットを口に運び、美味しそうに食べる。

「そう、そして、その水と一緒に地球にやって来た生物がいたとしたら」

「それは、地球の在来種とは全く違った形態のもの?もしや、それが『カンブリア大爆発』」

「そういうこともあったかもしれない」

「先カンブリア時代、当時、地球は雪玉だったと言われているが、そこに大量の水もろとも異形の生物が流れ込んだ」

 二人はすっかり話に夢中。ビクトリアはすこぶる不満顔。

「ちょっと、それ、私が話そうと思ってたのに」

「ああ、ごめんごめん。君の『ノアの箱舟』の着想がとても面白かったものだから。それで、君は、脊椎動物は、他の惑星からやって来た生物種だと言う訳だね」

「脊椎動物、というかその元になる生物種がよそから来たんだと思う」

「では、地球に元々いた固有種は?」

「植物、そして昆虫、というか虫ね」

「なぜ、そう思う」

「脊椎動物は、水から陸に上がって繁栄したけれど、虫は、そもそも多くが陸上にいる。そして、何より、虫の方が、その種類が圧倒的に多い」

 ああ、また、CAさんの受け売り。

「惑星間の水の移動によって生物がもたらされる。実に面白いね」

「ただし、その大洪水、水の移動は一回だけではないと思うの」

「それは?」

「リスと猫」

「どういうこと」

「リスは木の実をつかめるけれど、猫はつかめない。けれど、猫の脚にも指はある」

「退化した指」

「そう、なぜ、退化した指を持っているのか」

 ビクトリアは、ビスケットを指でつまむ。

「水とともにやって来て、長い年月をかけて海から陸に上がった脊椎動物は、更に安全な樹上に生活圏を広げた。樹上では枝を掴まなければならないから指が発達する。そこへ陸を覆い尽くすような大量の水、大洪水が再びやって来て、樹上生活するものだけを残して、陸上の生き物が絶滅」

「確かに太古の樹木は巨大だった。洪水にも耐えたものがあったかもしれない」

「やがて、再び現れた大地に降り、地上を歩き回る生き物が現れる」

「歩くのに不必要な指は、退化した、か」

「そして、その洪水、惑星間の水の移動の度に、生物相も変化する」

「そういうこともあるかもしれない」

 ヒューストンを残して、盛り上がる三人。

 気づくと、知らぬ間にティーカップを口に持っていって、あまりの渋さに咳き込みそうになる。飲むならコーヒーに限る、やっぱり。


 ひとしきり話が弾んだ後、とりあえず、夕食でも食べに行こうということになる。

遠来の客ということで、ちょっといい店に案内してくれるという。

「期待薄ね。田舎の食べ物って、どれも美味しくないじゃない?」

 先に立って歩く二人の男の後をついて行きながら、ビクトリアがヒューストンに小声で話しかける。カーディフは田舎ではないと思うのだが。もっとも、そもそも英国自体が美食の国ではないし。

 ヒューストンは食べ物の美味いまずいにはあまり頓着しない。とりあえず食べて元気になればそれでいい。でなければ、辺境の店の店長など務まらない。土地の者が作る土地の料理。何でもいただく。まあ、コーヒーはあった方がいいが。

 案内されたのは、確かに立派な店構えの格式の高そうなレストラン。

 予約をしていたのか、すぐに席へ通される。ところが、混んでいる訳でもないのに、席はフロアの一番端、厨房の隣。トイレへの通路が目の前にのびている。

 給仕(ウェイター)がビクトリアのために椅子を引く。が、ビクトリアはかけようとせずに

「もう少し、中央のテーブルにしていただけないかしら」

と有無を言わせぬはっきりした口調で言う。

 給仕は一瞬表情をこわばらせると、すぐさまにっこりと微笑み、四人をフロアの真ん中よりのテーブルに、改めて案内する。

 メニューを置いて給仕が去ったあと、ビクトリアは憤懣やるかたない様子で言う。

「明らかな差別。許せないわ」

「うん、そうだね。そうかもしれないね」

 黒人の准教授は、怒った風もなく、メニューを眺めている。

「腹が立たないの?言うべきことは言わなきゃ」

「入店を拒否された訳じゃないしね」

 准教授は、メニューから目を挙げてビクトリアに微笑みかける。

「そんなの、おかしいわ」

 青年は、二人のやり取りを見て、少しおろおろしている。

「うん、まあ、意識してあの席に案内したのかどうか」

「故意によ、間違いないわ。あの給仕、店に入るとき、じろじろ見たもの」

 ビクトリアの怒りは収まらない。

「うーん、まあねえ。難しいところだね」

「何が難しいの、簡単なことよ。差別はあっちゃいけないの」

「ははは、確かにそうだ」

 准教授は少し楽しそうに笑う。

「何笑ってるの。笑う所じゃないでしょ」

 ビクトリアの怒りが矛先を変える。

 そんなビクトリアに、准教授は穏やかに言う。

「君の言うとおりだけど、確かにそうなんだけどね。ただ、白い肌をしたグループの人間が、黒いというか有色の肌をした人間のグループを忌避するというのは、進化の過程、というよりこれまでの地球環境の推移の中で生じた必然というようなところがある、と考えることもできるんだよね」

「どういうこと」

「約一万年前まで、ほぼ二百五十万年の間、地球は氷河期にあったんだけれど、その間に、北方の人間は肌が白く、南方の人間は肌が黒くなった。それは、日照、日の光によるものなんだけどね」

「南の人間が日に焼けた」

「いやいや、そういうことじゃなくて。北の人間は、弱い日の光から、多くの紫外線を皮膚に取り込んで、体内でビタミンDを作る必要があるから、皮膚のメラニンを抑制して、白い肌になる。ビタミンDが足りないと食物からカルシウムを吸収できないからね。北欧の人が健康のためにと、夏によく日光浴をするのは、そういう理由からだよね

 一方、南の人間は、氷河期でもそれなりに強い紫外線を浴びるから、紫外線を避けるために皮膚にメラニンが発現して、肌が黒くなる。強い紫外線は、皮膚がんを誘発するからね。オーストラリアで、オゾンホールの影響もあって、強い日差しを浴びることによる皮膚がんの増加が問題になっているよね。これは、そもそもが、オーストラリアが北方からやってきた白人によって建国されたということに起因しているとも言える」

「肌の色の違いがあるのはそのとおりだと思うけど、それが差別につながる理由が分からないわ」

「うん、それは、もともとが差別というより、生物学的な禁忌に由来するものだと考えられるんだ」

「生物学的な禁忌って、近親生殖は避けるみたいな」

「うん、そうそれ。子孫を残すために不利になることは避ける。

 メラニンの発現は、遺伝的に優性だから、肌の白い人間と、肌の色の濃い人間が結ばれると、その子供の肌の色は濃い色になることが多い」

「メンデルの法則ね。赤目のショウジョウバエの実験、むかし、やったわ」

「肌の色の遺伝因子は一つではないから、ショウジョウバエほど単純ではないけれどね」

「でも、肌が黒くなることがどうして禁忌なの。それって優性思想じゃないの」

「そうじゃない。よく考えてみて。氷河期、北方の肌の白い人間のもとで、交配によって肌の色の濃い子供が生まれたとする。するとその子はどうなる?」

「集団から排除される」

「逆の意味で差別感情に毒されてしまっているねぇ…近世において、まあ、今でもそういうことはあるかもしれないけれどね。そういう集団内での問題じゃなくて、その個体、その子供自体の問題として、何が起こる。北方は、日照が弱いんだ」

「ああっ、そうか!メラニンの発現で、ただでさえ少ない紫外線の皮膚を透過する量が抑制されるから、紫外線によって体内で作られるビタミンDが不足する」

「そう。ビタミンDが不足することでカルシウムの吸収不良が起こって、『くる病』を発症する危険性が高くなる」

「なるほど。そいう意味での禁忌ね。でも、そんなのサプリを飲めば済むことじゃない」

「もちろん、今はね。しかし、それは近代、ここ数十年の話だ。

 そういう先史時代からの禁忌が脈々と受け継がれ、肌の色の濃い人たちへの忌避、差別につながっている、そう考えることも出来るんだ。一般的に悪の象徴を『黒』として表すのも、その流れではないかと思われるね。もっとも、欧米系ではない神話などには、『黒』を善や偉大なものとして表しているものも多いけど。ヒンズー教の神シヴァの異名である『マハーカーラー』は『大いなる暗黒』。もっともこれは破壊神なんだけど、あと『クリシュナ』は黒い肌の英雄。中国でも『玄武』とか。『玄』は黒という意味だし。それから、『黒竜』とかが崇められている」

「面白いわね。でも、初めて聞いたわ、差別が生物学的禁忌に由来するなんて説」

「まあ、そうだろうね。広く流布すれば、差別を正当化する理由として使われかねない」

「じゃあ、どうするの」

「一つの説、考え方としては持っているけれども、声高には唱えないかな」

「それでいいの?」

「うん、それでいい。それに何より、この考え方は自分の精神衛生上とても有効だからね」

「そう、それならいいわ」

「さて、そろそろ注文するものを決めよう。ここは魚料理が美味しいんだ」

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