第2話 セリニャン・デュ・コンタ
中国国際航空で、ようやくパリ・シャルル・ド・ゴール空港に着いた時には、すでに日が傾きかけていた。
ボーディングブリッジを抜けると、あまーい香りに包まれる。フランスの香り…ヨーロッパの洗剤の匂いだという話も聞くが。
入国審査を経て空港ロビーへ。飛行機に乗る前にテロ対策の『事前(E)渡航(T)認証(I)システム(AS)』の認証を受けておいたので、二人ともスムーズに入国。
スムーズとは言っても、真っすぐ飛ぶ飛行機の便があれば、たぶん半日もかからない距離だったのだろうが、途中、北京で一泊、パリ行きの便を待って乗り継いで、結局、着いたのは翌日のこの時間。
「これじゃ、何のために、あなたの店まで行ったんだか分かんないじゃない」
ごもっとも。
「まずは、今日の宿だけど…」
「リッツ・パリね」
「いや」
「五つ星でしょうね」
「いやまあ、ほどほどのとこで」
昔はずいぶんと高いホテルに泊まったこともない訳じゃないが。
どうせ寝るだけだし…。
「ちょぉっと、何よ!」
パリ市街のコンドミニアム風の宿の前に止まったタクシーの中に、ビクトリアの声が響く。
「いいこと、お金は私が払うんだから。このまま、リッツ・パリにやってちょうだい!」
「ここは駅近だし。明日は朝早いTGVに乗るから」
「じゃあ、あなたはここに泊まるといいわ。降りて」
ビクトリアは、そのままタクシーをとばして行ってしまう。
「あー、カード持ってっちゃったよ…」
リヨン駅から列車に乗り込んだのは、翌日のお昼も過ぎだ時刻だった。
目的地へ向かうTGVはとっくに出てしまっている。しかたない、在来線だ。
「で、いったい何をするの」
「ファーブル先生のお知恵を拝借」
「だから、それは気味悪いからやめてって言ってるでしょ」
「いや、ほんとに知恵を借りるんだ」
「どうやって」
「うーん、まあ、それは着いてからのお楽しみ」
「そもそも、どこに行くのよ」
「うん、まあ、それも着いてからのお楽しみ」
「なによ、それ」
ビクトリアは、またしても胡散臭げにヒューストンの顔を一瞥すると、車窓の風景に視線を移す。
もっとも、ヒューストン自身も、行ってみないとどうなるか分からないところがあったのだけれど。
オランジュの駅に降り立った時には、すっかり夕方になっていた。
「今日は、とりあえず、ここで一泊だな」
「えー、まだ着かないの!一体どこに連れてこうっていうの」
「いやあ、あとちょっとなんだけどね。セリニャンっていう村に行くんだけど、もう夕方だし」
「あとちょっとなら行きましょうよ」
「でもなあ」
「いいから。タクシーつかまえて!」
が、駅前ではタクシーは見つからず、バスロータリーに行くも、バスは終了。けっきょく歩いていくことに。
「どれくらい?」
「小一時間かな」
「暗くなっちゃう」
「だから…」
そうこうするうちに、駅からは大分来てしまった。
「もどるか」
「いいえ、行きましょ」
駅から離れ、けっこうな距離を歩くうちに、すっかりあたりは暗くなってしまった。
道なりに進んでいくと、突然巨大なカマキリの像が目の前に。
「うわっ、なにこれ」
「もうすぐだってことじゃないかな」
暗い夜道をさらに歩く。
「まだ?」
「うーん、そろそろかな」
世界中、どこでもグーグル先生は役に立つ。おまけにスマホは灯りとして十分使える。
「ちょっと、ここ!」
ビクトリアは、いきなり立ち止まり、ヒューストンの手をつかむ。その手のひらは、ふわふわとしてずいぶんと柔らかい。
「ここ、墓地じゃない!」
「墓地だねえ」
ヒューストンをつかんだビクトリアの手に力が入る。
冷たい指先…冷え性だな、若いのに。
教会の敷地の中にある墓地。既に入口の門は閉められている。
「開くかな」
ギギギと音を立て、鉄柵の門が開く。
「ああ、開いた、開いた」
「やだ!帰りましょ」
「来るって言ったのは、おまえだよ」
「客に向かって、おまえはないでしょ」
でも、来ると言ったのは『君』だ。
「人目がない方が、やりやすいな」
「ちょ、ちょ、ちょっと。な、な、なにを…」
ビクトリアは、ヒューストンの腕にしがみつく。ビクトリアの息が口から洩れ出る。
「だーいじょうぶ。考えてるようなことはしないから」
ヒューストンは、スマホの明かりで並んだ墓石の表面を照らし始める。暗がりの中、人の背丈ほどもある墓石の列が続いている。
「あった、これだ」
墓石の表面に『J・H・FABRE』と刻まれている。他の墓石には十字架が乗せられているのに、どういう訳かファーブルの墓石の上には十字架がない。
ヒューストンは、おもむろに墓石の周りの地面に明かりを近づける。
ビクトリアは、かがみこみそうになるヒューストンの腕を引っ張って、必死に引き戻そうとする。
それに構わず、ヒューストンは地面に手をついて、その表面をさするように手を動かしていく。
「やめ、やめ、やめ!」
ビクトリアは小声でヒューストンを制止する。
「このへんかな」
ヒューストンは手に持った鞄から細く長い針を何本か取り出すと、それらを互いにくるくるとねじ込んで、すこぶる長い一本の針にする。
そして、内ポケットから何やら液体の入ったアンプルを取り出すと、その先に針を装着。
「こんなもんかな」
ヒューストンは、そーっと針を地面に刺していく。
「ちょっと、やめなさい。やめなさいってば。犯罪よ、それ犯罪!」
ビクトリアは、罵りながらもヒューストンにぴったりくっついている。ビクトリアの温もりが冷えてきた体に心地よい。
「うーん、ちょっと足りないか」
ヒューストンはもう一つアンプルを取り出すとまた針に装着する。
暗闇の中、スマホの明かりが、ぼんやりと墓石を照らし出す。
何の物音もしない。
ビクトリアの息だけが次第に荒くなっていく。緊張で口の中が乾いたのか、その息が、かい間、匂う。
しばしの沈黙。と、
「う、うぅわあぁ~」
闇の中に響き渡るビクトリアの悲鳴。
その目の前にはスマホの明かりに青白く浮かび上がる老人の姿が。
「大丈夫だから」
「だ、だめ、だめ、だめ、わ、私、だめ、これ、だめって、だめって言ったぁ」
「だから、違うんだよ、霊とかじゃない」
「だ、だって、いる、いる、いる」
まあ、確かに、いる、ようには見える。
ビクトリアは、半泣き、いや本泣きになって、ヒューストンにすがりつくようにして立って…というか、既に腰が抜けて座り込みそうになっている。
「これ、いわゆるフォログラムみたいなもんだから」
そう言うと、ヒューストンは、老人の姿の中に手を差し入れる。
「う、うわ、うわ、うわ、す、透けてる、透けてる」
「だからね」
「だめ、だめ、だめ、だめだって、だめだって言ってるのにぃ」
ビクトリアは、ペタンと後ろ向きに座り込むと、そのまま泣きじゃくり始めてしまった。
「あれはさ、『記憶』を呼び戻す薬品なんだよ、遺物のね」
夜遅くになんとか辿り着いた駅前の宿の部屋のソファーに座って、ミネラルウォーターを飲むヒューストン。独りにしないで!と涙声で懇願したビクトリアは、ヒューストンに背を向けてベッドに横になっている。
「直接、遺物の、まあ、骨とかね、それにあの薬品をひと振りすれば、その物質の生前の記憶が甦るんだ。中国悠久の歴史が育んだ秘薬だ」
「意味がわからない」
ビクトリアは、ヒューストンに背を向けたまま。
「非科学的」
ビクトリアはベッドの上でくるっとこちらに向き直る。
「そんな薬品なんかあり得ない」
「現にあるんだから、しょうがない」
「あんなのは幻覚よ。催眠術か何かよ」
うーん、まあ、そう言われてしまうと、否定する根拠もないんだが。
「だいたい、なんであんなことしなきゃいけないのよ」
「うん、ファーブル先生に、何で昆虫は六本脚なのか、直接聞いてみようと思ったんだけどね」
「やっぱり、こ、降霊…」
「そうじゃないんだけど。まあ、うまくいかなかったね」
そう、しょせん、フォログラム。幻影はしゃべらない。
次の日、不機嫌なままのビクトリアを伴って、せっかくだからと、セリニャン・デュ・コンタ(セリニャン村)にあるファーブルの屋敷に足を運ぶ。
『アルマス』(荒れ地)と呼ばれるファーブルの屋敷。博物館になっている建物に入ると等身大のファーブルの姿がプロジェクターで映し出される。
一瞬ひるむビクトリア。「大丈夫、大丈夫」とブツブツ独り言を言っている。
博物館には『昆虫記』にまつわる資料がいろいろと展示されている。
館内を巡るうちにビクトリアの機嫌も次第に直ってくる。
「『昆虫記』、懐かしい。子供の頃、読んだわ」
今でも、十分子供だけどな。
ビクトリアは、展示物に興味津々。それほど広くない館内をくまなく見て回る。
「ちょっと見て!ここにダーウィンとやり取りした手紙があるわ」
「ダーウィンって、進化論のダーウィンか?」
「そうよ。ファーブルは、ダーウィンと論争したのよ。『狩蜂』が幼虫の餌にするために特定の虫にだけ産卵することを例に、虫たちの営む、その絶妙な生態は、自然淘汰によって獲得されたんじゃない。虫は進化してああなったんじゃなくて、もとから、あの形態だったって」
「進化論を否定したのか。まあ、俺の国じゃ、進化論を信じてない奴はいっぱいいるけどな。でも、これだけ虫を研究した人が言ったんだとしたら、ちょっと説得力があるな」
ビクトリアは、しばらく見て回ったあと、ふと立ち止まって考え込む。
「どうした」
ビクトリアはヒューストンの顔を見ると、目をきらっと光らせる。
記念館からの帰り道、ビクトリアはヒューストンの先に立って元気よく歩いて行く。
すっかり機嫌も直った様子。
「ねえ」
「あぁ?」
「もし、昨日の薬品の効能が本物だったとして」
本物だよ。
「いいこと思いついたんだけど」
どうせ、ろくでもないことだろ…。
ビクトリアはくるっと振り向くと満面の笑みを浮かべて言う。
「あれをね、ちょっと振りかけてみるの」
何に?
「キリストの聖遺物に」
おいおい、おいおい!とんでもない、滅相もないぞ。怖いこと言わんでくれ。
教会とはすっかりご無沙汰の俺ですら、それは憚られる。
「冗談よ」
ビクトリアは、そう言うと、すたすたとヒューストンの前を歩いて行った。
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