魔術

「Exs! mc-O-mu SiSiS-ya」(発動。力よ。怒りよ。安らぎよ。死せよ! 死せよ! 死せよ!すべてのものは消え去れ!)


 ひたすらに、美しい光景だと思った。

 空に舞い上がったドラゴンが作り上げた純白の光。竜語による詠唱は、子守唄のような穏やかささえ感じさせる。こういう状況でなければ、まるで天の国にでもいるかのような光景だった。


 魔術は言葉だ。その源は想いだ。自らの想いを詠唱という言葉に乗せ、内なる魔力と世界とを繋げ、具現化させる。それが、魔術だ。

 竜語を聞いているとその事を実感させられる。

 全ては人間には聞き取れない。だけど、そこに込められた魔力量に、想いの量の桁違いさに、言葉の重さに、押しつぶされそうだった。



「……」


 もう無理かもしれない。

 卵さえ返せばなんとかなると思いこんでいた自分の浅はかさが恨めしい。

 竜語魔術がどれほどの破壊をもたらすのか、わからない。神話によれば海を割り、国を消した、ともある、その竜の魔術だ。

 

 空を見上げる視界がじんわりと滲んだ。

 シエル。フリック。シュシュ。お父さん。お母さん。皆。


 こういう時、男の子なら、格好良く皆を思って戦えるのかな。

 私は、だめだ。会いたいよ。皆に会いたい。

 怖くて寂しくて、涙が止まらないんだ。


「おい、エカルテ! 逃げるぞ! 何して……」


 私の腕を引っ張るアントルシャがはっとしたような顔をした。


「お前、何を泣いているのだ」


「泣いて、ない」


 私も、アントルシャの声で我に返った。手の甲でぐいと目を拭う。


「ならば逃げるぞ!」


 引っ張るアントルシャの腕を、私は振りほどく。

 逃げたって逃げ切れない。なら、私のやることはもう決まっているんだ。


「逃げないよ」


「何をバカな!」


「王子。一つだけ、頼みがあるの。シエルを。アルカ族の女の子をみかけたら、逃げるように伝えてほしい」

  

「……分かった。ではな。エカルテ」


 アントルシャは少し瞳を揺るがせた。私の腕をもう一度ひこうとして、惜しそうにやがて手を放す。

 彼が走り去るのを見送って、私は天に届かない手を伸ばした。


 魔術が想いを伝えるものならば、私は紡ごうと思う。

 全ての想いを詠唱しようと思う。竜の途方も無い生に比べて、あまりにちっぽけな想いだろう。だけど、それが私の全てだ。

 

『怖い気持ち。逃げ出したい気持ち。愛おしい気持ちで私はこの魔術を発動する。

 生まれたとき男の子は孤独だった。師に出会ってから、世界が広がった。本を読む楽しさと魔術を学ぶ楽しさを知った。

 そして男の子は女の子になった。

 女の子は様々な出会いをした。

 優しい女の子に出会った。受け入れてもらえた。

 泣き虫な男の子に出会って、好きだって言ってもらえた。

 勝ち気な女の子と再会して、昔の自分も肯定してもらえた。

 女の子には友達ができた。いい人。嫌な人。いろいろな人に出会えた。はじめて親の優しさを知った。

 皆と過ごす日々が幸せだった。

 女として成長していくこと。最初は不安だった。嫌だった。生理がいやだった。膨らんでくる胸がいやだった。スカートがいやだった。伸びない身長がいやだった。その事で何度泣いたかわからない。

 それでも私は今ここにいる。女になってからの人生は、はじめて生きているって思えたんだ。私は、幸せだ。幸せにしてもらったんだ。だから、皆を殺さないで。私の大好きな皆を殺さないで!』


 私が詠唱を終え、作り上げたのは、巨大な防隔。ただ守るためだけのものだった。

 私が全てを終えるまで、ドラゴンは待ってくれていたように思えた。


 たぶん、気のせいじゃない。

 ドラゴンに笑顔は作れないけれど、それでも、目が笑った気がしたんだ。


「tr hiEe」(かなしや)


 ドラゴンの作り上げた太陽がゆっくりと降りてきて、防隔に触れてかろうじて止まった。

 じりじりと肌を焼きながら、周りの草木が自然と発火していく。

 願わくば、シエルが。みんなが無事であればいい。

 オレはシエルのように、なれたのかな。

 


……。


 ずっと特別になりたかった。

 

 逃げ出したアントルシャの足取りは重かった。

 たかが平民。しかも知らない小娘一人の命などどうでもいい。

 そう思っていたはずなのに、どうしても足が前に進まなかった。

 エカルテの居る方を、煌々と不気味なほどに明るいその方を、振り返ってしまった。


 俺は、特別になりたかったのだ。

 父も母も厳しかった。物心ついたときから魔術の鍛錬だけでなく、勉学にも、武術にも学んだ。

 一流の師をつけてもらった。


 日の出前に起き、日付が変わる頃、ようやく泥のように眠る。

 少しでも失敗すれば、師からは容赦のない叱咤と手が飛んでくる。

 父と母がそうするように申し付けていると知ったのは、物心ついた頃だった。

 俺の生活は、そんな毎日だった。

 

 だけど、俺はそれで幸せだったのだ、とアントルシャは思う。

 第一王子として一身に期待を受け、それに俺も答えてきた。幸せでないはずがない。


 だが。エトワル。第二王子が現れた時から、俺の世界は少しずつ狂っていった。

 アイツを自覚した時、俺の世界は足元から崩れていく気がした。

 あいつは、唯一の者だった。


 俺は父や母の言いなりになって、周りが喜ぶから俺も喜んでいるだけ。

 その事に気づいてしまったのだ。

 俺は、何なんだ? よせばいいのに考えてしまった。

 

 皆、誰も直接そうとは言わない。しかし周囲の目を見ればわかるのだ。

 あいつのほうが才能がある。あいつが王になるべきだ。そう言っているように思えた。


 あいつが憎かった。あいつが怖かった。

 あいつは、ろくに師すらつけられていない、軟禁状態にあってもなお、その才能を開花させた。

 俺がいくらやってもできなかったルーン魔術をあっさりとあいつは身につけていた。


 母はエトワルの存在を認めようとしなかったが、父は彼をいたく気に入っていたように思う。

 フェッテを師につけさせたのも、父だったのだから。


 父がエトワルを気に入れば気に入るほど、母からの束縛は強くなった。

 母からのしつけは厳しさを増した。

 

 俺にまとわりつくいてくる、砂糖菓子の匂いのする、べたつく甘い手。

 それを苦痛に思うようになったのは、いつからだったのだろう。


『アントルシャ。わたくしにはあなたしか居ないのよ。わたくしの言うことだけ聞いていれば良いの。愛しているわ』 


 そうやって髪を、頬を、二の腕を撫でられるたび、本当の自分がどこにも居ないような気がした。

 

 俺は特別になりたかったのだ。

 特別になって、父に認められたかった。母から一人の人間だと思ってほしかった。

 俺は、何者かに、なりたかった。俺は俺になりたかったのだ。


 だけど、俺は特別になれなかった。エトワルのようにはなれなかった。

 だから、母に告げ口をしてしまった。


 俺のせいで、エトワルは死んだのだ。ほっとした。嬉しかった。

 とても、悲しかった。

 居なくなって、余計に奴の存在は俺の中にこびりついた。

 エトワルは、俺の中から消えてくれない。


「俺、は……!」


 エカルテ。

 あいつは、エトワルの上を言っているように、思えた。

 

 エトワルでさえなしえなかった無詠唱術。


 そうだ。

 世界は広いのだ。


 エトワル以上の存在なんて、きっと世界にはごまんといる。

 その事に、気づかせてくれた娘だ。

 

 このままで、良いのか?

 また、エトワルのときのように殺してしまって、良いのか?

 俺は、このままで良いのか?


 何度も何度も頭の中で鳴り響いた。脂汗が滲んだ。もう、足が動く気がしない。

 根が生えたようにただ立ち尽くした。



「王子! ご無事ですか!」


 女の声で、呪縛が解けた。顔を上げた。

 いつもはへらへらしているくせに。

 慌てて汗の玉を浮かべて、アンバーが木の陰から駆けてくるのが見えた。


「ああ。アンバーか」


「顔色、悪いですよ? 卵は……」ちらとアンバーはアントルシャの手元を見た。「残念でしたが、また次だってありますよー」


「そう、だな。次か。次だな」


「ええ! じゃあ、逃げましょう。誰かが、ドラゴンを惹きつけてくれてる内に」


「エカルテ。あの娘が、戦っているんだ」


「あの娘が……。王子。大丈夫です。王子はあたしが守ってあげますから」


「…………俺は」


 俺は、守ってもらってばかりか?


『アントルシャ。愛しているわ』


 母の声が木霊した。

 こんな気持をずっと抱えているのか?

 母の言いなりか? 子供のままか?

 

 言い返せ。

 なあ、俺。いつまでも人形のままか? 

 言い返せよ。言い返せ!


 母の言葉を振り払うように、アントルシャは叫んだ。

 

「アンバー!」


 アンバーの両肩を、アントルシャは掴んで、叫んだ。

 血走った目に、アンバーは驚くも、すぐに愛おしそうに微笑んだ。


「はい。どうしましたー?」


「戻るぞ。ドラゴンのもとへ」


「は。はい? 王子、なにをおっしゃってるんです?」


「俺は、アポテオーズ王国第一王子アントルシャだ。誰かに守って貰う必要などあるものか! ついてこい、アンバー!」

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