目
急げ急げ急げ。
心ではそう思っているのに、体は重くなるばかりだ。
胸の中が焼けるように熱い。喉からは喘鳴が漏れた。
卵が重い。まだつかないのか。
早くしないと、シエルが。みんなが!
「っ……」
魔術を構築しながら走る事がこんなにも体力を使うなんて。
焦るほどに足は絡まる。
息を吸っても吸っても苦しい。だけど、止まるわけには行かなかった。
肩に衝撃を感じた。なにか大きな獣に衝突されたのだと思った。
ふらふらだったオレは、卵を取り落とし、転びそうになるのを、なんとか湿気った地面に両手を着いた。
放り投げられた卵がごろりと転がり、大きな木の根元で止まる。
「なにを、している。女!」
獣じゃなかった。声変わりが済んで、すっかり男らしくなったけど、分かる。
オレは慌てて立ち上がり振り返った。
アントルシャが肩で息をしながら俺を睥睨していた。
「にい……王子!」
危ない。兄さんって呼ぶところだった。
「貴様。学生の分際で何をしているのか分かっているのか!」
「そっちこそ、状況分かってるんですか!? 卵を返さないと皆死んじゃうかも知れないんですよ!」
「女。オレはアポテオーズ王国第一王子だぞ。口の聞き方に気をつけろ」
「それが今大事なことですか!? だいたい、私はソテ王国の国民です!」
王子に対する不敬、とか。物の言い方とか。考えている余裕はなかった。
そもそもここは中立地帯だし。
もはや今更すぎるけれど、護衛もない状況で身分をあかすなんて、我が兄ながちょっと心配してしまう。
大丈夫かな、この兄さん。
「不敬だぞ、女。俺はいずれ王になる男だぞ。そして今宵は英雄になる男だ! 卵は、必ず持ち帰る! 邪魔をするな!」
アントルシャが私と卵の間に立ちふさがり、両手を広げた。
先の洞窟で、兵士たちとのやり取りを見ていた。大体のことは察したけど、どこか他人事だった。
けれど、実際に彼の口から言葉を向けられると、腹違いとは言え、兄だからだろうか。
なんだか、悲しいような、虚しいような、ぎゅっと胃を掴まれたかのごとく嫌な感情が湧いてきた。
何が彼をここまで駆り立てているのか、オレにはさっぱり分からない。
「とにかく。……言い争ってる暇、ないんです。そこをどいてください」
私はゆっくりとアントルシャの方へ進むと、彼はぴくりと頬を引きつらせた。
「おい。近づくな。俺に逆らうとどうなるか、分かっているのか」
「……嫌です。卵はもらっていきます」
もう一歩、近づく。ちょうど両手分ぐらいの距離だ。
近づいて気づく。かなりの身長差になってしまったなあ、と。妙にのんきなことを思った。
頭ふたつ分ぐらいは違うのだ。
「それ以上近づくなら、俺は実力を行使する。命とてわからんぞ」
「王子なら、もう少し周りを見たらどうですか。あなたの周り、もう誰も居ないんですよ。少し冷静になってください」
「平民風情が俺に説教をするのか!」
「別に、そういうわけじゃありません。ただ、王子の身分をあかすなんて、危ないですし。もう少し、危機感を持ってほしいと思って……」
「黙れ女! お前も、俺をバカにするのか。エトワルのように! そうだ。お前の目はあいつにそっくりだ。俺を小馬鹿にしたような、諌めるようなふりをして、その実バカにしている目だ!!」
「なにを言って……エトワルって!?」
アントルシャは杖を構える。オレは構わず、アントルシャとその背後にある卵に向かって歩く。
彼が叫ぶ。どこか懇願するような、怒鳴り声だった。「近づくな! 打つからな! 詠唱するぞ!」
そうして実際に彼は詠唱を始めた。「来たれや我が手に炎――」
構う余裕もなかったし、ここでアントルシャにやられるわけにもいかなかった。
だから、オレは彼の杖を弾き飛ばすことにした。
まだ練習中の無詠唱術で一番安定している無属性魔術。
果たして、上手く行った。彼の杖が天高く舞い上がり、がさりと音を立てて森の奥に消えた。
「……? 今なにをした? 女。お前、詠唱を、したか?」
「卵! もらっていきますから!」
ぽかんと口を開ける兄を尻目に、オレは卵を両手で持ち抱える。
重い。「ふぐっ」と変な声が出たけど、再度圧縮して持ち上げることができた。
この点は、アンバーに感謝だ。
彼女の術を見なければ持ち上げることすらできなかっただろうから。
「あ。おい、まて女! 今のはなんだ!」
「あーとーでー! 時間がないんですってば!」
「教えろ! 今のは、ルーン魔術ではないのか!」
「ちーがーいーまーすー! 重いんだから、話しかけないで!」
ひ、ひえー。分かってはいたけど、アントルシャはしっかりと追ってくる。
用心していつでも魔術を放てるよう意識はしていたのだけれど、なぜかしら彼は卵の事に触れようともしない。
ぜぇぜぇ言いながら卵を走って運ぶオレと、後から着いてきて喚き立てるアントルシャ。
なんだか奇妙な光景になってしまった。
「今のはルーン魔術よりも遥かに効率的に短縮された詠唱術。そうだな?」
話しかけないでって言ってるのに、聞いちゃいない。
「……」
オレは無言で走り続けた。木々の間を抜け、草を踏みしめる。卵が点滅しはじめ、辺りをうっすらと照らしている。まるで親を呼ぶ信号のようでひどく不気味だった。
「女。名前は?」
「……」
「無視など不敬だぞ。俺が名前は、と訊いているのだ」
「エカルテ」
短く答える。しゃべる空気すらもったいない。それぐらい、疲れているのにこっちの状況なんて相変わらずお構いなし。兄は昔からこうだ。
「そうか。エカルテというのか。しかと覚えたぞ。エトワルよりも才能に優れたものがいるなんてな。世界は、広いのだな。だが、平民というのが惜しい……いやだがしかし……可能……」
「……?」
オレと並走しながら、アントルシャが言う。エトワルの名前が出てきて、一瞬正体がバレたかとぎょっとする。けれど、そうじゃないらしい。ちらと横目で見たアントルシャは毒が抜けたように、なぜかしら笑みを浮かべていた。
勝手に騒ぎを起こして、勝手に何かを納得して、勝手に何かを喜んでいる。
本当によくわからない兄だと、思う。
「おい。エカルテ!」
アントルシャが叫んで、オレも空を仰いだ。
翼の音が聞こえたかと思うと、地面が大きく揺れた。
夜の闇を切り裂いて、真紅の生き物が空から降り立ったのだ。
木々をなぎ倒し、着地の衝撃土埃が上がる。
ドラゴンの羽ばたきで、空が晴れた。
大きな満月を背負って、ドラゴンが首をもたげて、オレ達を見下ろしていた。
「a wath tu fud」
ドラゴン。向こうから来てくれるなんて、幸いだ。
これで目的が果たせる。喜ぶべきなのに、体は緊張でこわばっていた。
「ドラゴン! 卵をお返します!」
オレは巨大な彼女に向かって、両手の卵を掲げて叫んだ。隣のアントルシャも、もはやドラゴンを目の前にして、何も言えずに顔をこわばらせるだけだった。
「no tett! a ratege ira!」
ドラゴンの咆哮に木々が揺れ、その燃える口からは赤黒い炎が吹き出し、オレの鼻先を少し焼いた。
ドラゴンが話しているのは古代のものではあるけど、たしかに人間の言葉だ。竜語じゃない。
だから、古代魔術の習得を目指しているオレにも多少は理解できる。
その言葉は、まるで子供をあやすような口調。
たどたどしささえ感じる、わかり易さを重視した喋り方なのだ。
最初からドラゴンから人間への歩み寄りはあって、きっとどこかに和解するタイミングもあったんだろう。
だが、もうおそすぎた。
許さない、と。ドラゴンは怒りに燃えているのだから。
……。
「うーん。その年で、その魔術構築の上手さはすごいと思うけど。何回やってもあたしには勝てないと思うよ?」
「そう、かも。でも、わたしは、諦めたくない。あなたを行かせるわけにはいかないから」
詠唱速度は桁違いで、威力も向こうのほうが上。
勝てる要素なんて、ちっともない。何度魔術を構築しようが、先に打たれて結果は同じ。
児戯に付き合う大人そのもの。
その証拠に彼女はやろうと思えば出来るのに、シエルには一度も攻撃を当てては居なかった。
シエルの頭は、長い間息を止めていたかのようにくらくらと、重く、熱い。
目の前が霞んで、吐き気がこみ上げてくる。魔術の使いすぎだ。
「もう1回!」
シエルは、もう一度詠唱を始める。
勝てなくても良いのだ。こうやって打ち続けていれば、それでいい。足止めこそが目的なのだから。
「はーあ。同胞を攻撃するの、趣味じゃないんだけど。王子をそろそろ助けに行かなきゃだし……。終わらせよっか」
ため息交じりにアンバーが杖を構えたのと同時だった。
稲光とも違う。まるで太陽がそこにできたかのような、煌々たる丸い輝きが空中に登った。
ドラゴンだった。ドラゴンが空に昇り、天に向かって吠えている。神々しささえ感じる光景だった。
ドラゴンブレス。おとぎ話に聞く、ドラゴンの一撃。
それはどこか一点に向けられているかのようで、シエルをひどく粟立たせた。
「王子!」
「エカルテ!」
アンバーとシエルは同時に駆け出した。
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