きずあと。

 泣いてたな。


 あれからシュシュと口を聞いていない。


 天井のシミを数えながらシュシュの顔を思い浮かべていた。


 彼女を傷つけて、女の生活を続けることを選んだ。



 シエルやフリックと離れたくなかったんだ。そのことは、間違ってない。


 シュシュだって、オレの事を思ってくれていた。誰も間違っていないのに、なんで誰かが傷ついてしまうんだろう。言いたいことは言えたのに、全然すっきりしないし、胸は痛いままだった。


 皆そうやって、どちらかを選んでるんだってさ。そういう世界なんだってさ。


 やだな。そんなのが大人なんて。



 シュシュ。


 昔の思い出しかないなんて、そんなの、変だ。今オレたちはこうして同じ場所にいるのに。



 オレは確かに、女になったのは、嫌だった。苦しかった。


 でも、色んな人に。シエルに、肯定してもらえて、今オレはこうして生きている。



 …オレは、もらってばっかりだ。オレも、シエルみたいに、優しくなりたい。



「ねえ、エカルテ。起きてる?」



 弾むようなシエルのひそひそ声がして、オレはむくりと上半身を起こした。


 顔を向けると、シエルが梯子からオレのベッドを覗き込んでいて、目が合うと彼女は微笑んだ。



「あ。起きてた」



「うん」



「眠れない?」



「なんで?」



 とオレ尋ねる。



「うーん。今日は、というか最近。ずっと悩んでる顔してたから」



「あはは……本当、良く見てるよね」



 恥ずかしいのと、自分への呆れと半分のため息。


 またばれてた。



「妹のことだもん。そっち行っていい?」



 うん、と体をベッドの端に寄せた。



「なんか、こうして一緒に寝るのも久々な感じするね」



 シエルがオレのベッドに潜り込んでくる。


 横を向いてお互い顔を見合わせる。


 高窓から差し込んだ月明かりがシエルの顔をうつしている。



 丸くて赤い目。すっと通った鼻立ち。人間ならば、病的に白い肌が目の前にある。



「そうかな。そうかも」オレは笑う。



「そうだよ。最近忙しそうだもん」シエルも笑った。



「忙しいっていうか……」



 いつも、こうしてそばに居てくれるのに、避けてた。


 約束を破ってしまって、バツが悪かったんだ。



 彼女の体温。匂い。ひそひそ声。


 呼吸する音。



 不思議だ。



 シエルと居るとさっきまで悩んでいたことが、どこかへ行ってしまう。


 避けていたことを、シエルは多分勘付いているのに、いつもどおりの笑顔をくれる。



 オレを、私を。今のぐちゃぐちゃな私を、肯定してくれる。




 シエルはとても無防備で、男と、女だったら、こういう風になってたのかなって思う。その事が、少し辛い。



「シエル。私、シュシュを傷つけたんだ」



 ひそひそ笑い声が止んで、私の声が宙に浮いた。



「そうなの?」



「男に戻れって言われたけど、今のままが良いって、断った。それが良いって思って言った」



「うん」シエルが小さく息を吸う気配があった。



「私それで彼女が傷つくなんて、想ってなかった。シュシュにはちゃんと自分の気持を言えば分かってもらえるって思ってた。フリックのときだって、傷つけてたんだ。彼だって、ちゃんと、気持ちを伝えてくれたのに、私は自分のことがわからないからってあっさり、ふいにした。


 自分のことばかり考えてる。シュシュの泣き顔見るまで、傷つけていたことすら、気づいてなかった。色んな人から、もらってるのに、傷つけてばかりで……」



 小さく低い声でしゃべる。語尾が震えた。


 メリアとレーネの寝息だけがかすかに聞こえていて、確かな気配がある。


 その事が、今はありがたかった。だって、シエルと二人っきりなら、きっと泣いていた。



「エカルテは優しいね」



 優しくなんか無い。オレは自分のことしか考えていないんだ。



「違う。私は、違う」



「ねえ。エカルテ。月を見に行こうよ。談話室からならきっと綺麗に見えるよ」



「月?」



「うん。おいで」



 シエルは勢いよく起き上がる。


 こんな夜中なのにどうして月なんだろうって怪訝に感じる間もなく、さっさと梯子を降りていく彼女の後を、結局追ってしまった。



 廊下に出ると、彼女がオレの手を引いてくれた。


 暖かくて小さな手だった。


 大窓から満月が覗いている。真っ黒な空に、光の穴が空いているようだった。



 無音だ。


 絨毯を歩く音すら、まるで月に吸い込まれていくかのようだった。


 二人で歩いていく廊下は月の粒子が舞っている。


 彼女の銀色の髪だけが、青白く浮かび上がっていて、世界にはそれだけのように思えた。



 明日になればまた学校で、シュシュとも顔を合わせる。きっと彼女は明日も変わらない。


 オレも変わらない。


 女の振りをして生きていく日々がまた始まるだけだ。



 この廊下が永遠に続けばいいのにと思う。


 明日なんていらない。時間がこのまま止まればいい。



 この世界には、月とシエルしか、ない。


 男とか女とか、そういうのはなくて、ただひたすらに無音で綺麗だ。



 最低だ。


 完璧な世界を壊したのは、やっぱり私だった。


 涙と、ぐずる声が世界の調和を崩していく。



 全てが現実に戻っていく。


 その事が悲しくて、余計に涙が溢れた。



 最低だ。戻りたくなんか無いのに。


 男とか、女とか、好きとか、もう嫌なんだ。



 彼女の私の手をにぎる力が、強くなった。



「ごめん。シエル。約束、破って、ごめん。私、やっぱり、自分のこと、時々、気持ち悪いって、思う。受け入れらんないこと、いっぱいある。このまま、大人になんて、なれない」



「ごめんね」



 彼女が振り返った。


 涙の薄膜の向こうで、悲しそうに揺れているのがわかった。


 ふわり、とシエルの匂いがする。


 彼女はオレの背に手を回して、痛いぐらい、強く抱きしめた。



「シエル、私、汚いんだ」



 シエルに抱きしめられたまま、なんで彼女が謝ったのかとか、そういう事も考えられずに。



 濁った水を出したいだけ。


 本能じみた欲求に従っているだけの私が、ただただ、汚く思えてそれでも口から言葉を吐いていく。



「汚くない。エカルテは、優しすぎるんだよ」



「違う。優しくなんて無い。嫌なことばっかりなんだ、私。


 自分の事を決められなくて、男とか女とか言い訳して、周りを振り回している自分が嫌だ。


 早くどっちか決めないと、フリックも、シュシュも、今後出会う人をまた傷つけてしまうのに、それでもぐだぐだな自分が嫌だ。


 傷つくのが嫌だ。


 相手を傷つけるのが嫌だ。


 相手が傷ついてるのを見て、自分が痛くなるのも嫌だ。


 自分のことしか、考えてない私が、嫌だ。嫌なんだよ」



 嫌だ嫌だ嫌だ。


 駄々をこねる子供でしかない私は、ひどくみっともない。オレは、惨めな、子供でしかない。



「ごめんね、エカルテ。わたしも、ごめん」



「大人になんて、なりたくない。恋愛なんていやだ。皆子供のままでいたらいい。オレは、そんなことばっかり考えてる。汚いんだ」



「汚くない。みんなはあわてんぼうさん。あなたはのんびりやさん。それだけなんだよ」



「シエルも――」



 最低だ。最悪だ。こんなのは、わがまま。


 違う。


 もっと、最低な、なにか。


 それを、私はシエルにぶつけていた。



「――シエルも、大人になるの?」



「……」



 回した彼女の腕が、少し解けかけた。シエルが少し息を呑んだ気配が合った。


 彼女が離れて、顔が見える。


 月の光のせいだろうか。シエルの瞳が、濡れたように光っていた。



「ねえ、エカルテ。アルカ族はね、ずっと一緒に居るって決めた人の血を飲むんだって」



「…シエル?」



「だから、」



 シエルが私の首筋に口を寄せる。吐息がくすぐったい。


 私は、全身の力がふっと抜けていくのを感じた。



「っ……」痛みはあった。けれど、どこか甘い痛みだった。



 別の生き物みたいな、変に現実的なシエルの舌の感触が、私の首筋で水音を立てている。


 血の匂いとシエルの匂いが混ざっていって、綺麗なだけの月の粒子を塗り替えていく。



 血と唾液と、涙と。水音と。


 綺麗なものじゃない。でも、暖かい。



 熱い水の音は私の頭をあっという間に占拠して、膨れ上がって、私の体内を駆け巡り、やがて蒸発していく。


 熱い吐息と一緒に溢れていくのは、私の上ずった声だった。


 彼女が口を離すと、熱さの残滓が首筋でじんじんとした痛みを放っていて、寂しいような、ほっとしたような、とにかく全身が虚脱するような、よくわからない感情が湧いていた この感情の名前は、なんて言うんだろう。本で、調べたらあるのかな。



「傷跡、残っちゃうかもね。ううん、残ると良いな。ずっと。私がそばにいなくても」



 シエルが初めて見せる表情で笑った。


 悪いことをしている。でもそれが見つかることを望んでいるような。そんな笑い方だった。



「うん」



 ぼーっとして、私は首筋に手をやった。


 血はもう、でていない。


 けれどそこにもう一つ心臓が出来たように、どくどくと脈打っている。


 シエルがいるみたいで、嬉しかった。



「そう言えばさ! 3年生になったら、山登りだよね? なんかすっごい大変らしいよ。3日ぐらい籠もるんだって!」



「え。あ。うん」



 シエルが無邪気にはしゃいだ声で言う。


 スイッチでも入れ替えたみたいだ。


 雲が月を覆った。廊下が一瞬、真っ暗になる。彼女の表情は分からない。


 次に月がでた時、彼女はいつもどおり微笑んでいた。



「ねえ。エカルテは、どうしたい? フリック君と、シュシュちゃんと、絶交したい?」



「違う! そんなことない」



「じゃあ、仲良くしたいんだよね」



「仲良く、したい。でも、怖い。また、傷つけちゃうかもしれない」



「大丈夫。わたしがついてる。それにフリック君もシュシュちゃんも、あなたと一緒に居たいって思ってる。だから、ちゃんと言ってくれるの。その気持は、分かってあげて」



 シュシュ。フリック。


 今のオレ、私。恥ずかしい。気持ち悪いかもしれない。


 それでも、ちゃんと、分かってもらいたいんだ。自分の事を、知ってもらいたいんだ。



「……うん。シュシュと、また、話できるように、なりたい」



「じゃあさ。シュシュちゃんも、フリック君も、山登りの一緒のパーティに誘おうよ。それが今のエカルテを知ってもらうのに一番いいと思う! きっと二人も喜ぶと思う! 」




「シエル、私ね」



「なあに?」



「……あれ? 何を言いたいかわかんない」



「なにそれ、変なエカルテ」



 本当に、わからないんだ。


 ただ、首筋の傷跡は、残ればいい。本当にそう思っていたんだ。




 失敗して、傷ついて、気づいて、また失敗して。泣いて。泣いて、泣いて。


 シエルに泣きすぎって言われるのも仕方ないぐらい、泣いてる。


 それでも、ちょっとずつ、成長できているんだろうか。オレは、男か女か。大人になれるんだろうか。



 オレは13歳になろうとしていた。

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