男の子、女の子。
「はーあ」
授業の合間。シュシュは席についたまま、つい彼の姿を目で追っていた。
濡れカラスのような艷やかな黒髪の彼は、いつもの友人たちと変わらず談笑している。
そこにいるのがなぜ自分ではないのだろう。
「シュシュ姉さん、元気ないっすね…じゃなかった。お元気おありにありませんわね」
隣の席のアンの人懐っこそうな丸い目が覗き込む。
小柄な体躯に、ショートカットの髪がよく似合う、子犬のような娘だ。
基本的に直感で動いているシュシュ。アンも同種の人間らしく、妙に気が合った。
気づけばほとんど毎日一緒に行動を共にしている。
「急ぎすぎたかなって思うのよ」
趣旨も脈絡もなにもなく。独り言のようにそれだけ言うと、アンはにやりと口の端を上げる。
聞かれたくないことは深く突っ込んでこない、この子の性格が好きだった。
「悩んでますわね」
「さあ。どうかしら」
「シュシュ姉さんって、女の子が好きなの?」
「いっそそれなら良かったわね」
はーあ。もう一度シュシュは大きくため息を付いた。
泣いていたわね、エカルテ。昨日のことをぼんやりと思い出していた。
……。
やってしまった、やってしまった、やってしまった!
シュシュの前で、泣いてしまった。
我慢していたのに。
シエルやフリックと離れ離れになるって考えたら、勝手に出てきたんだ。
どこまで弱いんだ、オレは。
もう男としての挟持なんてちっとも残っていないのかも知れない。
結局彼女に反論すら出来ず、逃げるように部屋から慌てて立ち去って、そのまま寝室のベッドにダイブした……くてもできないのが、本当にもういやだ!
やるべきことをやらないと、大変なことになる。こんなところだけは冷静で嫌になる。
トイレで涙をとめて、体を整えて、顔を洗ってからベッドに戻った。
もう、シエルに心配かけたくなかった。
彼女の顔を見るのがその日ばかりは怖かった。
自分のこと、気持ち悪いって、恥ずかしいって思わないって約束したのに、破ってしまった事が、申し訳なかった。
シュシュの言う通り、すべてリセットして男として生きていけば、こうやって悩むこともなくなるのだろうか。
フリックに、男の子に告白されてどうしようって、悩むことも、なくなるんだろうか。
そしたら、辛くなくなるの?
男として、平穏に暮らす事。そんな道もあるんだ。
うーあー。最低だ! オレの全部が最低だ!
「エカルテ、遅かったね。大丈夫?」
「大丈夫! もう寝るから、明日ね!」
二段ベッドの下のシエルが、はしごを登る気配があった。
オレは布団を頭からかぶって、真っ暗闇を睨んでいる。
やがて「おやすみ。また明日ね」と優しい声だけがした。
シエル、約束破ってごめん。
心の中で、意味もないのに、謝る自分が本当に最低だと思った。
…。
翌日の夜。
「あ」
「『あ』って」フリックが冗談めかして笑う。
訓練場に来ればフリックと鉢合うのは分かっていたけれど、行かないのもそれはそれで変な気がした。意識してるって思われるのも、恥ずかしい。
最近は無詠唱術とは対極とも言うべき、古代魔術にも取り組んでいる。まだ、詠唱が圧縮される前の術法だ。時間はかかるがその分威力はお墨付き。
感情の振幅がそのまま威力に直結する術式が、今のオレには合っている。そんな気がした。
「ごめん」
「今日も訓練?」
「うん」
「そっか。ぼくも一緒にいい?」
「うん」
……。どうしよう。なんだかすごく気まずい。
男同士。そのはず、だったんだけれどな。
「エカルテ」
「ひゃ、ひゃい!」
隣に急に立たれて、びっくりして体ごと飛び退く。
露骨に距離を取られて、フリックはちょっとしょげた顔をした。
ごめんって思うけど緊張するんだ。なんで?
「そんな反応しなくても!」
「…ごめん。びっくりした」
「ぼくの方こそ、ごめん。いろいろと驚かせちゃったんだよね。急ぎすぎたかなとは思ってる。シュシュさんに取られそうだったからさ。怖かったんだ。でも、後悔はしてない」
「フリックも、怖いことがあるの?」
「たくさんあるよ。ぼくはあんまり昔から変わってないと思う。魔術の授業が怖い。テストが怖い。ピーマンが怖い。おばけが怖い。将来お父様の後をしっかり継げるか、怖い。怖いことだらけだ」
「すごく大人になったように見えるのに。同い年なんて、とても思えない」
オレが言うと、フリックは目線を外して、カカシの方を睨んだ。
まるでそこに不倶戴天の敵がいるかのように、彼にしては珍しく、ほんの少しの焦りが滲んだ声たった。
「ぼくは、もっと大人になりたい。エカルテを取られそうと思った時、いてもたってもいられなくなった。君がどういう反応をするか、分かってなかった。
違う。言い訳だ。
分かってたんだ。君が3人を望んでいることぐらいずっと分かってた。ぼくたちは、幼馴染だからね。分かってて君に婚約を申し込んだ。ほら、ちっとも大人なんかじゃない」
「ちがう。すごいと、おもう」
「どこが!」
「いろいろ。私は、恋愛とか、正直わからない。でも、フリックのことはすごく尊敬してる。ううん、今した」
「なにそれ。変なエカルテ」
くすり、とオレは笑った。フリックも微笑んだ。
ちょっと、近づいてさっき飛び退いた距離が縮んだ。
「シエルも、フリックも、皆、すごいなあって私は思う」
なんだかうまく、言葉が出ない。
フリックは前に進んだ。傷つくことも、厭わなかった。
決して『3人』をないがしろにしたかったわけじゃない。
自らの行い知った上で、ちゃんと選んで行動したんだ。
大事なものを失う覚悟を持って、目指すものへと歩いていく。
例えそれが、居心地の良い過去だとしても。
大人に持っていけないものは、きっとたくさんある。
得て失って、傷ついて。また得て失って。その繰り返し。
それがきっと大人になるってことなんだ。
じゃあ、オレはどうする?
言わなきゃ。
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