らしい
鬱蒼とした木々に覆われた沼地の畔に、その花はひっそりと咲いていた。
「あった! あったよ!」
フリックが指さしながらはしゃいで駆け出すと、釣られたようにシエルも走り出した。「見せて見せて!」
オレはその背中を脚を引きずるように、ゆっくりと追った。げ、元気すぎる。
でも、良かった。無事見つかって。
小躍りするふたりを見てオレも嬉しくなってくる。
オレも追いつき、覗き込む二人の間に体をいれる。
月の花。その名にふさわしい、柔らかなミルク色をした小さな花が、密集して咲いていた。
「お父様、喜んでくれるかな」
「喜ぶよ、絶対」
オレが答えると、フリックは頷いて、そっと一輪だけを摘んだ。
立ち上がり、愛おしそうに手元を見下ろしつつ呟く。「この花、死んじゃったお母様が好きだったんだ。あの頃はお父様もよく笑っていたな」
「今は、違うの? グランのおじさん、いつも優しそうだよ」
シエルも立ち上がり、フリックに向き直った。
「外では、そうなんだけど……。お母様が亡くなってから、ぼくとは全然話してくれなくて。それでもぼくはお父様のこと大好きなんだ。いつかまた、元気になってほしい」
「フリック、偉いじゃん」
なんでか妙に頭を撫でたくなったけれど、流石にフリックにも男のプライドがあるだろうから辞めておいた。代わりに肩をとんと軽く叩いた。
彼は語りすぎて照れくさくなったのか、顔をちょっと赤らめる。
「べ、別に偉くない。ぼくがもっと優秀だったら、お父様だって――」
その言葉は、つんざく男の悲鳴によってかき消された。
「うわあああああっ! 助けてくれえええ!」
ヒゲと髪は伸び放題で、服ももはや布切れと言うにふさわしく、辛うじて見えてはいけない部分を隠している。
顔なんて真っ黒で、数日、数週間、風呂にも入っていないような男たちが3人、木々の間から凄まじい形相で飛び出してきた。
「……ふざっけんな!」
オレは強がりの声を上げた。
びびった声音になっていなけりゃいいけど。
男たちにも、そりゃ驚いた。
男たちが連れてきたのか、大声に呼応したのか。
たぶん両方。
オレ達をぐるりとざっと30体のトレント達が取り囲んでいる。
「お、おい! お前魔術師だろ! 助けてくれよ!」
男たちがオレ達の元へ走ってくると、ひどい異臭がした。
3人はオレ達を盾にするように、後ろに回り込む。
「なんで知って……!」
「さっき見たぞ!」
「はぁ!? 大体誰だよ、あんたら!」
なんだ、このおっさん達。
「エカルテちゃん!」
シエルが叫んだ。
そんな事している間にも、トレント達は根っこの脚を音も無く動かし、円陣をじりじりと詰めてくる。
状況はわからないが、やるしかなさそうだった。
「……シエルちゃん。炎魔術、使える?」
「ちょっとは!」
「頼む!」
返事を待たずして、シエルはすでに詠唱を始めていた。
「織りなす炎は螺旋の相をめぐり、我が敵を討ち滅ぼす嵐とならん。ファイヤーストーム!」
「アンスール・ケン」
……。
減らない。
倒した側から、土から湧いてるんじゃないかってぐらいの勢いで増え続けている。
この広大すぎる森の木の数だけ、もしかしたらトレントは存在する。そうとすら思える。
完全に判断をミスった。頭をかきむしりたい気分だった。
トレントは元来比較的大人しい魔獣のはずだ。
植物と動物の中間であり、そもそも何かを襲って食物を得ることすら稀なはずなのに。
何体か倒せば、逃げ出すものだと思っていた。一体、何が彼らをここまで怒らせているのか。
「はぁ……はあ……」
オレの息もだいぶ上がっている。もともと体力を消耗していたこともあった。
「え、エカルテちゃん……ぜぇ……」
隣のシエルも肩で大きく息をして、鼻の頭には大粒の汗が滲んでいる。
オレよりはまだ、余裕がありそうだが、それでもつらそうな顔をしている。
脳の奥がじりじりと熱い。
オレは眉間を押さえて蹲りたくなるのをなんとか堪えた。
神経が焼ききれそうな痛みが走っている。
明らかに魔術の使いすぎだった。
「近づいてきてやがる! おいガキ共なんとかしろよ!」
オレ達の炎の手が弱まると、すかさずじりじりと距離を詰めてくる。
もう、数メートルの距離に円陣は狭まっていた。
「も、もうだめだ。ひいいっ!」
男の一人が恐慌状態に陥ったのだろう。
てんで反対の方向に走り出した。当然その先にもトレントが待ち構えていて、枝を振り上げて、男が来るのを待っている。
「……っ!」
オレはそのトレントに向かって、力を振り絞る。
炎が上がり、ひるんだ隙に男が横を走り抜ける。
ああ、くそ。あんなのに無駄な力を……!
だが、逃げるのは正解だ。
「シエル! もう1回! 同じ方向に打ってくれ!」
「! わかった!」
オレとシエルが同時にはなった炎の嵐が、トレントを5体ほど焼いた。
道は、開けた。
「はしれ!」
オレの叫びが号令になった。
男達と、オレたちは、全速力でかけだした。
トレント達の気配は消える事無く、オレ達にこの森の湿気と同じくまとわりついている。
今走っている場所はどこなのか。どこへ向かうのか。
方向感覚などすでに無い。オレ達3人は走り続けた。
二人の男も、同じようにオレたちの背後についているようだった。
「うえ……う……」
喘鳴を通り越して、吐き気がしてきた。
オレは歩き、喘ぎながら、脚を動かす。もう脚の感覚もろくになかった。
最初に走れなくなったのは、当然の帰結。オレだった。
「おい、ガキ! 走れよ! 俺たちを守れ!」
一人の男がオレの髪を掴み、顔を無理やり挙げさせ、ぐいぐいと引っ張る。
男の足の裏と生ゴミを混ぜたような臭いが鼻孔に飛び込んできて、余計に吐き気が増す。
「……う……」
「やめて、やめてよ!」
シエルがその男の手を引っ張る。魔術は使えても、10歳の女の子の腕力だ。
男はびくともしない。
シエルもオレも、もう魔力が限界だった。
シエルがまだ魔術を使えたならば、この男はぶっ飛ばされているだろう。
髪を引っ張られる痛みに、オレはうめいた。
オレは魔術を使う余裕があったら、この男をぶっ飛ばしていただろうか。
それとも、魔術を人間に向けるのはやっぱりためらっただろうか。
たぶん、後者だ。
オレはびびりだから。魔獣にさえ、最初は使うことをためらっていた。
鈍い音がすると同時、髪が解放された。
「ぶべっ」と間の抜けた声を上げて、男が尻もちをついた。
「それ以上手を触れるな」
らしくない、冷たい声だった。
「フリック?」
「え?」男が殴られた頬をさすってほうけた顔をしてから「てめえ、ガキ!」と勢いよくフリックの胸元を掴んだ。
「ぼくたちを助けてくれているのは誰だ? 大人なら、それぐらい分かれよ!」
フリックの瞳は揺らがなかった。胸ぐらを掴まれたまま、きつく相手を睨みあげている。
気弱なフリックが、嘘みたいだった。
「ガキが生意気いってんじゃねえ!」
男が拳を振り上げる。
オレは思わず目を閉じた。
嫌な、音がした。
シエルが悲鳴を上げた。「やめて! おじさん、それ以上やると、魔術使うから!」
「エカルテはぼくの、友達なんだッ!」
フリックの頬は赤く腫れている。彼はそれでも身一つ震わさない。
「黙れッ! だからどうしたってんだッ! 口の減らねえガキだ!」
男がもう一度振り上げる。
「黙るもんか!」
9歳のフリックに、男は完全に押されていた。男は一歩後ずさると、舌打ちをしてもう一度彼の頬をぶった。
それでも微動だにしない彼に、男はやがて慄くような表情を浮かべる。
次に振り上げた拳は、弱い者へ向けられた威圧的なそれではなく、自らを守るためのモノであったように見えた。
ああ、くそ。悔しい。
かばってくれた友達が殴られているのに、何もしないオレはなんなんだ。
フリック。彼だって、怖いはずなのに。
これがたぶん本当に最後だ。
フリックに、負けていられない。最後の最後まで、力を絞り出すんだ。
痛む頭を押さえつけるように、汗に滲んだ手を血がにじむほど握りしめた。
魔術を唱えた。
人間に向かって魔術を使うことのためらいは無かった。
友達だもんな。
「――ウル!」
弱々しい魔術だったが、十分だった。
男の腹に命中した無属性のそれは、男を数センチだが宙に浮かせ、後ろへふっとばした。
「うげっ……て、てめ……ガキッ」
男が地面に転がって腹を押さえながら喚く。
「お、おい、いい加減やべえぞ! 奴らそこまできてる!」
傍観していたもうひとりの男が指差し、叫んだ方向に数体のトレントの影が見えた。
木の陰から、もうすぐそこまで迫っている。
「ちっ」
倒れていた男も慌てて立ち上がり、森の奥へと駆け出し始める。
「フリック君! 大丈夫!?」
シエルが地面に片手をついて、肩で息をしている彼に駆け寄る。
今にも泣き出しそうに顔をくしゃくしゃにしているけれど、泣き出すのはなんとか堪えている。
そんな表情だった。
「大丈夫だよ。ごめん、ぼく、なにもできなくて」
「そんなことない、そんなことないよ! わたしも、怖くて……」
「ふたりとも、話は後。逃げるよ」
「うん!」二人が、威勢よく返事をする。
「フリック。ありがとう。格好良かった」
「ううん。君が無事で良かった」
短く返事をするフリックの顔は、妙に大人びて見えた。
逃げる。
そうは、言ったものの。
オレが一番体力を切らしていて、ふらふらしているのだ。
真っ直ぐに歩くことすら怪しかった。
耳鳴りが酷く、目の前がぐるぐると回転している。
高熱を出した時のような倦怠感が全身を支配していて、足を一歩踏み出すごとに、頭の奥が針でさされたように痛んだ。
「エカルテ。おぶるよ」
フリックがオレの前で背中を見せて、腰を下ろす。
「フリック……?」
「良いから、乗って。ぼくはこれぐらいしか出来ないから」
フリックとオレの身長はさほど変わらない。たぶん、体重も。
フリックだって子供だ。
だけど、彼は軽々とオレを背負うと、通常と変わらないスピードで走り始めた。
その横には、シエルが心配そうにオレとフリックを交互に見やっている。
フリックは息を切らす事すらなく、走り続けている。
先程殴られた箇所が、もう治癒し始めていた。
フリックの両親は魔術師としても優れていたと言う。
その血を継いだ彼だ。
その力は、おそらく身体強化に使われていて、術として表出することがないだけなのだ。
才能がないわけではないのだ。
その力を、殴る時じゃなくて、今ここで発現させるなんて。
フリックらしい。
背中で揺られながら、オレはくすりと笑った。
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