第八夜 「下弦の月」 夕介(ゆうすけ)
今夜は下弦の月。
月は東の空から昇ったばかりで、まだ弦は上を向いている。
0時過ぎて日付の変わった深夜の公園。
その街灯に照らされたベンチに
今日、また仕事でミスをしてしまった。
三人兄弟の長男で下に弟が二人。
父は
それからは、母が働きながら三人を育ててくれた。
今、
すぐ下の弟との間は4つ離れている。
大学には予備校にもいかず、ひたすら独学でストレートに合格。奨学金と地元大ならではの成績優秀者枠に滑り込んで、学費免除を受けることができた。お陰で留年をすることも無く卒業。大学生活4年間は本当に充実したものだった。
『お兄ちゃんは、本当に優しくて、お母さんを助けて偉いねぇ』
学童の先生たちは言ってくれたけど、それは
母はいつも
大学進学の時も、三者面談で担任教師から、もうひとつ上のレベルの大学を狙えるのに、勿体ないと言われた。
ただ、その大学に進学するには、その頃、過労と心労で身体を壊してしまい、通院しながら細々と内職している母と、病んだり、反抗期で迷走している弟達を置いて、家を出なければならなかった。
色々な事を話し合った。
簡単に決断できることでは無かったから。
母は反対しなかった。
わたしたちは大丈夫だから、行きたい方に行きなさいと勧めた。
むしろ、
それほどまでして、レベルの上の大学に行くよりも、家から通える地元の大学で母を助けたかった。
地元だと頑張れば学費免除もして貰えるし、まず、経済的に助かるのもあった。
最終的に
最終の面談の日、担任は
『やっぱり、可能性を潰すのは勿体ない』
と何度も言ってきた。
母が手放したがらず、反対しているように思ったのかもしれない。
母は
「できることなら行かせてやりたいんです」
と答えた。
両拳は膝の上で固く握り締められていた。
「不甲斐ない親です」
という絞り出すような声。
あの情景は今も忘れられない。
大学でも文芸研究会に入り、文芸誌を発行して小説を書いたりした。
物書きになりたい、という夢は捨てた訳では無いけれど、そんなに簡単なものであるはずもなく、少しでも文字に触れていたくて、今の会社にアルバイトに行き、その後、社員になったのだった。
あれから4年になる。
仕事はハードで帰宅が深夜になることも珍しくはない。
それでも、土日祝が(休日出勤があるにしても)一応、休みなのは助かるし、人間関係が悪いわけでないのも有難いと思っている。
問題は、自分の能力だ。
4年も経つのに、うっかりミスが多い。
失敗するとパニクってしまう。
同じミスを繰りかえす。
自信が持てないのだ、自分に。
だから、オドオドしてしまい、その悪循環でまた失敗をする。
向いてないのだろうか、と何度も思ったし、転職を考えないわけでも無かったけれど、この不甲斐ない状態のままで辞めるのは嫌だった。
職場を変わっても、今の自分では、また繰り返しのような気がしたから。
それでも今回の様に失敗をすれば、やはり心が折れそうになる。
帰って母に暗い顔をこれ以上、見せたくなくて、つい、ここに来てしまった。
母は明るい。
化粧っ気もなく、「あはは!」と大きな口を開けて笑う。
むしろ、社交的とは言えないタイプなのだが、人当たりは良い。
何かある度にそれでも、何とかなる!と乗り越えてきた。
でも、
夜の台所で声を殺して泣いている後ろ姿を。
震える背中を。
悪いことをすれば、当たり前だが強い口調で叱られたが、理由も聞かず責めたてることだけはしなかった。
正直、自分を含め息子達は、未だに母に心配をかけてばかりなのだ。
それを思うと情けなくて、胸が締め付けられるような申し訳なさでいっぱいになる。
また、溜息が一つこぼれる。
思わず夜空を見上げてふと、横を見た時に
薄らと青みを含んだ様な白い本が古ぼけた万年筆と一緒にベンチの隅に置いてあるのに気づいた。
何となく手に取って
最初の数頁分くらいは
その後には何も書かれていない白紙だ。
何だか変な本だなぁと閉じようとした時に挟まっていたらしい紙が落ちてきた。
☾【
元々、本好きの
膝の上に本を置いて、もう一度、白紙のページを開いてみる。
「万年筆かぁ」
握った感触が懐かしい。
「書かせて貰おうかな。久しぶりに」
”もっと、自分に自信を持ちたい。
謝ってばかりの口癖を無くしたい。
恐れずに……”
母の言葉が蘇る。
「大丈夫!自信を持って。
失敗を恐れずに、一つずつを大切に確実にね」
ああ、そうだったなぁ
どんな時も母は
「わたしは、あんた達三人の母さんでいられて幸せだよ」
と、あの笑顔で言ってくれるんだ。
「あんた達がいてくれて本当に良かった」
と。
受け止めて、いつも背中を押してくれた。
”母さん、まだまだ心配かけてばっかりだけど、でも……もう1回、初心に戻って腐らずにやってみるよ”
最後に大きな文字で、ハッキリと
”どうか、もう一度、始めるための勇気を!”
そっと本を閉じた
万年筆と共にその本を元の場所に戻した。
「早く帰ろう」
連絡は入れているが、母が心配しているかもしれない。
急に何もかもが上手く回り始めるわけはないだろう。
それでも。
立ち上がって歩き出した
新たな決意を秘めたその姿を月が確かに見ていた。
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