第九夜 「有明月」 小夜子(さよこ)

 今夜は有明月。

 夜明けの空に残る月。


 空が少しずつ明るくなってきた頃、眠れないまま過ごした小夜子さよこは、そっと家を抜け出して、近くにある、この公園にやってきていた。


 小夜子さよこは50代前半。夫を30代で亡くし、三人の子供達を育てながら生きてきた。


 夫を亡くしてからの日々は、とにかく無我夢中だった。


 まだ末っ子は保育園の年少、次男は年中組、長男も小学生。

 仕事と育児と家事と……小学生だった長男がしっかりしていて、弟達の面倒を良くみてくれたことと、実家の両親がいてくれたからこそだと思う。

 だから、まだ恵まれていたのだ。


 それでも長い年月には色々な事があった。

 子供達が小さい時は病気も多かったし、大怪我、手術……その度に身の細る思いもした。


 みんな何とか成人を迎えたが、末っ子や次男は未だ、なかなか自分の道を見つけられず、しっかり者の長男も仕事で悩んでいるようで気がかりは絶えない。


 母は逝き、父も歳をとった。

 小夜子さよこも数年前から身体を壊し、仕事を続けられなくなってしまい、今は病院通いの日々だ。


 家にいることが多くなってから、小夜子さよこは人間関係で無理をする事を止めた。


 まず、年賀状を失礼して、それから、義理の人付き合いにも少しずつ距離を置くようにして遠ざかった。


 子供達が全員、学校を卒業してしまってからは随分、楽になった。


 それまでの小夜子さよこは、夫が生きていた時は尚更、細やかに人付き合いをしていた。

 それはそれで、当たり前だと思っていたのだけれど、夫が亡くなり、無我夢中で生きてきて、自分もまた病んだ時に、

 ああ、もう、いいかな……と糸が切れたように思ったのだ。


 望まれるように、顔色を窺うようにして生きることに疲れ果てていた。


 身体だけでなく心も病んでしまった自分がそこにいた。


 今、小夜子さよこは片手にこんもり山が出来るほどの心と身体の薬を飲んでいる。

 数カ所の病院に通院して定期的に検査と治療を受けている。


 そして、ここまで来ても、なかなか心配の種は尽きない。


 実家の父のこと。

 息子達の行く末。

 自分自身はいつまで往けるのか。


 最近、自問自答ばかりしている。

 妻としての自分

 母としての自分

 娘としての自分

 足りないことばかりだった。

 もっと出来たことがあったんじゃないか、

 良かれと思ったことが間違えていたんじゃないか……。


 自分の力の無さに堪らなくなる。

 確かに弱い人間だった。

 それでも、もう少し頑張れていたはずなのに今はなんてザマだろう。


 公園のベンチに座ったまま、小夜子さよこは考え続けていた。

 最近はいつもこんなことばかり考えていて、あれだけ好きな本すら、文字が、文章が目を素通りしてしまっている。


 大きく息を吐いて、そろそろ帰らないと、と思った時に、薄らと青みを含んだ様な白い本が古ぼけた万年筆と一緒に、小夜子さよこが座るベンチの隅に置いてあるのに気づいた。


 好奇心に駆られて手に取ってページを開くと、

 最初の数頁分くらいはページ同士が貼り付いたようになっている。


 その後には何も書かれていない白紙。


 首を傾げて本を閉じようとした時に、挟まっていたらしい紙が落ちてきた。


 ☾【月白げっぱくの本】1ページだけを、あなたの自由にお使いください。つむがれた夢の欠片かけらは差し上げます ☽


「不思議な本……」

 呟いて小夜子さよこは万年筆を手にしていた。

 ゆっくり、キャップを外す。


 ”わたしは、無力な人間です。

 大切な人達の為に何もできない”


 ペン先に力が入り、インクを滲ませてしまう。


 その時に、ふっと声が聴こえたような気がした。


『 母さん、すぐには素直に謝れないけど……でも信じてて欲しい。俺、頑張るから。待ってて欲しい 』


『どうか、もう一度、踏み出す為の勇気が出せますように。諦めない力を、オレに下さい』


『母さん、まだまだ心配かけてばっかりだけど、でも……もう1回、初心に戻って腐らずにやってみるよ』


 ああ……それは確かに、息子達の声だった。


 うん。うん。

 閉じた瞼の奥が熱くなるのがわかった。


 そうだね。


 ”わたしは……わたしは、あんた達三人の母さんでいられて幸せだよ。

 あんた達がいてくれて本当に良かった”


 そうだった。

 どんな時でも、あの子たちがいてくれたから。

 不器用な要領の悪い……生きることが下手な、わたし達。

 失敗して、間違えて、迷って、ぶつかって……

 それでも支え合って生きてきた。


 だから

 

 信じよう


 あの子たちを。

 わたしたちの往く道を。



 うん。大丈夫。

 一緒に1つずつ積み重ねて、一歩ずつ歩いていこう。


 きっと見つけられるから。


 小夜子さよこは白い本にメモを元のように挟んでから、元のようにベンチに置いた後で古ぼけた万年筆をその横に丁寧に添えた。


 そして、小さな声で

「ありがとう」

 と言って微笑んだ。


 それから、息子達の待つ家へと帰るために公園を出て行った。



 もうすぐ一日が始まろうとしている。

 薄らと空に残る月が見届けるようにそこにあった。

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