第六夜 「十六夜月」 皓哉(ひろや)

 今夜は十六夜いざよい月。

 既望(きぼう)とも呼ばれる。



 皓哉ひろやはトボトボと夜道を歩いていた。

 また、バイトの面接に落ちてしまった。


 元々、勉強があまり好きではなかった皓哉ひろやは中学卒業後に調理師専門学校に通うことを決めた。


 今時、高校くらいは、と何度も言われたけれど、早くに手に職をつけて、苦労続きだった母を楽にしてやりたいという気持ちがあったのだ。


 実際、調理師学校に通いだしてからの皓哉ひろやは授業にも実習にも熱心で、充実していた。


 同時にレストランでバイトも始め、隙間時間に単発のバイトも入れた。

 自分の学費ぐらい自分で稼ぎたかったし、オレはまだ若いしやれる、そんな慢心もあったのかもしれない。


 そして、身体を壊してしまった。


 ある朝、どうしても起き上がれなかった。

 頭痛が酷い。熱もあるようだったので、風邪をこじらせたかと思ったが、数日経っても治らない。


 心配した母に付き添われて行った病院で一通りの検査を受けた。

 重大な身体の異常は無かった。

 医師がいうには、過労と…精神的なものではないかということだった。

 そして、心療内科を紹介された。


 せっかく入学して頑張っていた専門学校にも、熱が下がり、頭痛が治まっても行けなくなった。

 夜、眠れない。そのせいか朝になっても身体が異様に怠くてベットから起きあがれない。

 心の糸が切れたように何も出来ない。したくない。

 カーテンをずっと閉めたままの暗い部屋で膝を抱えて丸まって過ごした。


 見かねた母がとにかく少しでも気持ちが楽になればと言うので心療内科を受診した。


 鬱病という診断。

 よく聞く病名だったが、まさか自分がなるとは思ってもなかった。

 自分がなってみて、初めて心の病の辛さが身に沁みた。

 目に見える症状がないから、他人には、ただやる気や根性が足りない、甘えだと思われがちだ。

 やる気も根性も無くしてないけれど、身体が、頭がどうしても動かないんだと、それを理解してくれる人は少ない。


 結局、専門学校は中退した。悔しさと自己嫌悪で皓哉ひろやはその日一日泣いた。


 それでも休養と薬物療法で、何とか外には出れるようになった。


 母は責めることなく、見守り続けてくれた「頑張りすぎたんだから、少し立ち止まって、ゆっくりするといいよ」

 の言葉には救われた。


 それからも、まだ不安定で自分に自信が持てない皓哉ひろや


「大丈夫。出来ることから一つずつ焦らずに積み重ねていこう。一人じゃないからね」


 と、言ってくれた。


 皓哉ひろやは、少しでも早く、母を安心させたくてバイトの面接に通っていた。

 でも、中卒で運転免許も持たない皓哉ひろやはバイトに雇ってもらうのさえ、なかなか厳しい。


 鬱病も完治しているわけではなくて、通院中だ。

 それでなくても気がつくと気持ちはユラユラと狭間を行ったり来たりしている。


 気がつくと鉛の靴を履いたように重い足を引きずるようにして、街灯に照らされた小さな公園のベンチに倒れ込むように座っていた。


「疲れた。疲れたよ……」


 気持ちはあるのに、心と身体がついてきてくれない。

 また繰り返すのを恐れている。これ以上、自分に失望するのが怖い。


 ふと、喉がカラカラに渇いているのに気がついた。

 そういえば、さっき駅前で買ったペットボトルのお茶があったっけ、とカバンから出そうとして、に気がついた。


 薄らと青みを含んだ様な白い本が古ぼけた万年筆と一緒にベンチの隅に置いてある。


 思わず手に取ってページを開く。


 最初の数頁分くらいはページ同士が貼り付いたようになって開かない。


 その後には何も書かれていない白紙だ。


 変な本だなと閉じようとした時に挟まっていたらしい紙が落ちた。

 拾って読んでみる。


 ☾【月白げっぱくの本】1ページだけを、あなたの自由にお使いください。紡つむがれた夢の欠片かけらは差し上げます ☽


「夢の欠片かけらか……。

 希望に溢れて夢を見ていた時もあったのに……。

 どうして、こんな事になってるんだろう……」


 涙が握りしめた両拳にボタボタと落ちた。

 皓哉ひろやはいつの間にか万年筆を手にして白紙の1ページに思いの丈を綴っていた。


 ”オレはいつから、こんなになっちゃったんだろう。焦れば焦るほど頭も身体も動かなくなる”


「もう、オレ、ダメかもしれない……」


 その時、ふと……今朝の母の言葉を思いだした。


『あんたが一生懸命やってきた事は絶対に無駄じゃないからね。大丈夫、自分を信じて。ゆっくり休んだら、一歩ずつ歩いていけばいい。焦らなくていいんだよ』


 スッとほんの少しだけど強ばっていた肩がほぐれたような気がした。


 ”どうか、もう一度、踏み出す為の勇気が出せますように。諦めない力を、オレに下さい”


「よし!」


 思っていたよりも大きな声が出て、思わず自分で笑った。

 ああ、オレまだ、こんな声出せるんだ。

 渇きを思い出してペットボトルのお茶を、ごくごく飲んだ。


 すぐに何もかもが上手くいくわけじゃないだろう。昔みたいに笑えるには、まだ、時間がかかるかもしれない。


 それでも。


 皓哉ひろやは白い本にメモを元のように挟んでから、小さく一礼した。


 それから、

 本をそっとベンチに戻すと、立ち上がって歩き出した。


 また、後ずさりすることもあるだろう。

 けど、今日の一歩は確かにココに刻まれたから。



 今夜は「既望きぼう」ではなくて「希望きぼう」でありたいと月は願っているようだった。

 そんな暖かな明かりだった。

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