第三夜 「上弦の月」 明莉(あかり)

 今夜は上弦の月。

 弦を上に張ったような半月が空に浮かんでいる。


 病院帰り、何時もの帰り道を辿りながら明莉あかりは、人は本当に辛い時には泣けないものなんだなと思っていた。


 夫が体調の悪さを口にしだしたのは2年前…最初に行った病院ではすぐに治るものだという見立てだった。

 きちんと治療に通ってさえいれば。


 夫は明莉あかりと同じ30代前半、高校の教師で運動部の顧問もしていた。

 土日も部活の練習や試合で潰れて休みはほとんど無かった。

 教師の仕事は知らない人が考えているより過酷だ。

 長期の休みも生徒達と同じように休めるわけではないし、ましてや、運動部の顧問ともなれば、毎日の練習に遠征試合、勿論、補習授業など教師としての仕事はある。


 そんな中、休みをとって病院に通うというのはなかなか難しかった。

 病気がわかったのは夏休み期間中だったが、それでも何とか数回治療に通っただけで、良くなったと自己判断してしまった夫は治療に通うのを止めてしまった。


 明莉あかりは何度もきちんと通院してと夫に言った。時にはそれで喧嘩になるほどだったが、返事はいつも「そんな時間がない」

 取り付く島もなかった。


 夫はクラス担任もしていたから、それも確かに無理はなかったかもしれない。

 生徒指導で毎日、夜遅くまで飛び回り、家に帰ってきても保護者からの電話で長時間、相談にのったりしていたのだから。


 明莉あかりは結婚後、長男を妊娠してから、酷い悪阻つわりの為に保育士の仕事を退職していた。

 入院を繰り返しながらも何とか無事に出産して、育児をしながら、パートで保育園に務めだした頃、夫の体調がまた悪くなっているのがわかった。

 

 大丈夫とそれでも渋る夫を、やっと、なだめすかして付き添って行った病院で、良性腫瘍だったものが悪性の癌に変わってしまっていたことを知らされたのだった。

 既にステージはIVになっていた。


 それから、休職して抗がん剤と放射線治療がはじまった。

 手術も何回もしたが、皮肉なことに若さが進行を早めていた。


 そして、今日、担当医から明莉あかりは告げられたのだった。


『残念ながら、もう手の施しようがありません。せめて、もう少し早く治療を始めていれば……。癌は脳にも転移しています。後は痛みを少しでも和らげるくらいしか……もって、三ヶ月…もっと早いかもしれません……』

 と


 どうやって医師に挨拶をして、病院を出たのかは覚えていない。


 気がつくと、街灯に照らされた、この公園のベンチに座っていた。

 家では実家の母がまだ幼い長男の面倒を見ながら待ってくれている。


 早く帰らなきゃと思うのに、身体は石のように重く動いてくれない。

 幾度目かの深い息を吐いて、それでも立ち上がろうとした時に、指先にそれが触れた。


 ふと横を見ると、薄らと青みを含んだ様な白い本が古ぼけた万年筆と一緒に置いてあった。


「何かしら。誰かの忘れ物?」


 何気なくページを開いてみる。

 最初の1ページ分くらいはページ同士が貼り付いたようになっている。

 その後には何も書かれていない白紙だ。


「変な本……」

 そっと閉じようとして、ハラリと落ちた紙に気がついた。


 ☾【月白げっぱくの本】1ページだけを、あなたの自由にお使いください。つむがれた夢の欠片かけらは差し上げます ☽


「夢の欠片かけら?」

 明莉あかりは苦笑いして呟いた。


 いったいこんな時に、どんな夢を紡げというのか。

 苛立たしいような気持ちで乱暴に本を閉じようとした手が止まった。


「もしかしたら、誰かがふざけて置いたまま忘れていっただけの本。誰にも言えない気持ちをちょっとだけ書いたっていいよね。名前を書くわけじゃないんだもの」


 明莉あかりは古ぼけた万年筆を手に取ると、白いページに綴りだした。


 ”わたしはどうしたらいいんだろう。

 あのひとの痛みや苦しみが少しでも軽くなりますように。そして、残された時間をできるだけ寄り添って過ごせますように……

 それから……”


 ポツリと涙が一粒、本に落ちて文字を滲ませた。

 今日初めて流した一粒だけの涙だった。


 まだ幼い息子の笑顔が浮かんだ。

 まだ……まだ、泣いちゃいけない。

 わたしは妻であると同時にあの子の母なのだから。


 明莉あかりはギュッと目をつぶって、それから、もう一度、しっかりと開いた。


 ”神様、どうか、わたしに勇気と力を下さい。あのひとの前でちゃんと笑顔でいられるように。あのひとをちゃんと送ってあげられるように……”


 自分が書いた文字をもう一度、読んだ後、あのメモを、そっと本に挟み直した。

 それから万年筆と一緒に元のベンチの上に置いて……

 ゆっくり立ち上がった。


 これからどうなるかは、わからない。

 でも、守りたいものがあるから……。

 今のわたしにできる精一杯をしよう。


 帰らなきゃ。

 息子の待つ家に。


 明日から苦しい日々が始まる。

 けれど、せめてできるだけ笑顔で……

 その日まで、せめて……。


 明莉あかりはしっかりと一歩ずつ踏みしめるようにして公園を去って行った。


 その後ろ姿を励ますように月が照らしていた。

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